危険な遭遇
そして立ち上がると、坂野は細い目で俺を見下ろした。
「話、それだけなら、行くから」
彼女は、
『帰る』
とは言わなかった。 でも俺は、なんとなくそれに感づいた。 だいぶ、坂野のパターンが分かってきたような気がした。
「送るよ」
俺も立ち上がった。
そして坂野が握っていた空の缶ジュースを奪う様にして取ると、公園の入り口に向かった。 坂野が驚いたように立ち尽くしているので、
「行くぞ」
と声をかけた。 すると坂野は足早に俺の横を擦り抜けて行こうとするので、その腕を空いている手でつかむと
「家まで送るから、家に帰れ!」
と少し強い声で言った。 自分でも何故こんなことをしているのか分からなかったが、このまま坂野を放っておく気には到底なれなかった。 ここで別れたら、確実にこいつは家に帰ることはないと、確信していた。 坂野は、驚いたように俺の顔をじっと見つめた。 瞳が大きく揺れる。
「放って……おいて……」
俺を見つめたままで、惚けたようにそう呟いた。 俺は真っすぐに坂野を見返すと、
「ダメだ! 俺が家まで送る。 そう決めた! 逃げても、追いかけて捕まえるからな!」
と答えた。 坂野はあきらめたように肩の力を抜いたので、その腕を離してやった。 彼女はもう、逃げなかった。
「ただ心配なだけなんだ」
「……」
坂野は無言だった。 ただ俯いて歩く坂野の横を並んで歩いた。
「家、ここから近いのか?」
「……」
「あの公園、よく行くのか?」
「……」
何を言っても無言な坂野に気まずくなってきた頃、耐えられずにもう一つ質問をしてみた。
「なぁ、なんで帰りたくないんだよ?」
どうせ返事は無いだろうと思った。 ところが坂野の口が開いた。
「居場所が無いから」
「居場所?」
「…………居ても居なくても一緒だから」
小さく答えた。
「家族と仲が悪いのか? 両親が喧嘩してるとか?」
「……離婚して、今は父さんと……」
「父親の方に残ったのか」
「男作って出て行ったの」
「……」
俺はあまりの衝撃の連続に、さすがに言葉を失った。
「父さんももうすぐ出て行くわ。 女がいるみたいだから」
溜息のように静かに話す坂野は、伏し目がちにゆっくりと歩いていた。 しばらくの沈黙が続いた後、坂野はぴたりと歩みを止めた。
「坂野?」
「だからって、同情なんて要らないから」
と顔を上げた。 瞳にはもはや無の闇が灯ったようにどんよりとくすんでいた。
「ここでいい。 もうすぐそこだから。 大丈夫。 ちゃんと帰るから」
「あ、あぁ……」
坂野は後退りするように数歩行くと、ゆっくりと振り返って夜の闇に消えていった。
気付くと商店街からさほど離れていない住宅街の中だった。 あちこちの家の窓から暖色系の灯りが漏れている。
この灯りのどこかに、坂野の家がある。
俺は、坂野の生活を知ってしまった。 いつも自分のことをあまり話したがらない坂野が、何故あんなことを話してくれたのか、俺には分からない。 ただ、俺には強い衝撃だけが残っていた。 なんと声をかけていいのか、全く分からなかった。
家路を歩きながらあれこれと考えたが、何一つ、坂野の和みになりそうな言葉が浮かんではこなかった。 頭をがしがしとかきむしりながら、晴れることのない心を持て余していた。 その時だった。
「久しぶりだなぁ!」
聞き覚えのない声が俺の耳に突き刺さった。
それは明らかに俺に対して放たれた言葉だった。 家への帰り道、近道と思って入った人通りのない路地で、俺は二人の男を前にしていた。
数日前に、唯たちに声をかけていた男たちだった。 唯たちの心配ばかりしていたが、まさか自分が遭遇するとは考えていなかった。
『マジかよ……周りには誰も居ないし、こりゃ、やばいぞ』
俺は毅然とした態度で向かい合っている姿勢を崩せなかった。 少しでもぐらつけば、この気の弱さがすぐにばれてしまう。 男たちは俺の気持ちを読んだように、余裕の表情でにやけながら指を鳴らした。
「こんな所で何をしているんだよ? ま、俺たちも色々とお礼をしなくちゃいけなかったんで、探す手間が省けたってとこだけどよ!」
「あの時のこと、忘れたわけじゃねーだろ?」
忘れるものか。 俺の大切な唯を怯えさせた、許しがたき男たちだ。 だが、俺には男たちを相手にするすべを持ってはいなかった。
――
気付くと、俺は病院のベッドに寝かされていた。 体のあちこちが痛みに支配されていて、どの部分が一番痛いのかも説明できないほどだった。 腫れているのか、熱のこもった瞼を無理やり開けて、ぼんやりと見える視界を動かすと、病室の入口で、母親が誰かとなにやら話しているのが見えた。
俺はゆっくりと、指を動かしてみた。 右の肘が刺すように痛む。 足先を動かしてみた。 どうやら左足がギブスで固められているようだ。 あとは脇腹や腹、そして顔全体が腫れて熱い。 体中に包帯が巻かれている感触があって、傍らには点滴が吊されていた。
「あぁ……」
小さく声を出してみると、擦れながらもなんとか出るみたいだった。 その代わり、腹筋に力を入れると鈍痛が広がった。 とにかく全身がやられているようだった。
あの時の記憶はほとんど無い。
二人の拳や蹴が俺の身体中を襲ってきたのは覚えているが、どれくらいの時間を暴行されていたのかも、俺がどうやって此処に運ばれてきたのかも全く憶えていない。
『生きている』
それだけがはっきりと頭の中に現実として浮かび上がったとき、心底ホッとした。
母親がゆっくりとベッドの傍らに近づいてきた。 俺が目を覚ましていることに気付くと、みるみるうちに涙を溢れさせた。
「まったく……あんたは……」
声を震わせて力なく椅子に座り込む母親の姿に、親を心配させることの大罪を深く感じた。




