ひとつの階段を上がった充実感と共に
「店の前で暴れるのは、やめてもらえますか?」
店長だった。
静かな口調ながら、長身から繰り出す見下ろした視線と、その身体全体から醸し出すなんだか分からないヤバそうな空気に、男たちだけでなく俺まで怖気付いた。
「な……なんだよお前ら……い、行こうぜ!」
男は怯えた瞳で俺たちを見比べながら唯を離すと、二人でお互いに罪を擦り付けながら足早に去っていった。 俺は全身の力が抜けた感じがして、両ひざに手をついた。
「ふう……ありがとうございます、店長」
見上げると、店長はただ黙って、いつも見せる穏やかな微笑みを浮かべていた。
『一体この人は、なんなんだ? さっきの殺気というか……マジで怖かったぞ』
そう思っていると、俺の胸に唯がしがみつくように飛び込んできた。
「唯!」
「怖かったよぉ……!」
啜り泣く唯の頭を撫でてやりながら、視線は何故か坂野へと移っていた。 すでに彼女は立ち上がっていたが、俯いて頭をさすっているのでその表情は見えなかった。 そっと
「坂野」
と呼ぶと、顔を上げた坂野は前髪の隙間からちらりと俺を見た。
「大丈夫か? 顔とか、頭とか……」
すると坂野はふいっと顔を背けた。
「しばらく店で休んでいってください。 帰りは、男二人に送って行ってもらいましょう」
店長が、唯たちに優しく声をかけた。 俺はまだ震えている唯の肩を抱いて
「もう大丈夫だからな」
と慰めながら、すっかり恐がって店の中から出られなかった谷口の待つ店へと戻っていった。 知らない間に、周りは道行く人たちが立ち止まって、心配そうに俺たちを見ていた。 これだけの人に見られて、通報されてもおかしくなかった。
店長は
「お騒がせして、すみません」
と周りに苦笑しながら、坂野を支えながら店へと入った。
二人が落ち着くまで、俺たちもそっとしておくしかなかった。
坂野は気丈にも、俯いてすすり泣く唯の頭を撫でながら何か言葉をかけていた。 その坂野も、殴られた頬が赤く腫れているようで、店長が差し出した冷やしタオルでそっと押さえていた。
やがて唯が静かになったころ、何か言葉をかけて坂野が立ち上がった。
「帰るのか?」
俺が声をかけると、無言で頷いて自分の荷物を持ったので、谷口に声をかけた。
「谷口、送ってやってくれ」
「ええっ? 俺が?」
目を丸くして自分を指差す谷口に、大きく頷いてやった。
「本気?」
「本気だよ! 俺は唯を送って行くんだから、当たり前だろ? お前、坂野を一人で帰すつもりか?」
「うう……」
そんなやりとりをしている間に、カウベルの音が鳴った。
「坂野っ!」
一人で店を出て行く坂野を追い掛けると、彼女は店を出たところで振り向いた。
「谷口が送るから。 ちょっと待って--」
「いい!」
俺の言葉を遮った坂野は、まっすぐに俺を見つめた。 そして
「さっきは、ありがとう……」
と呟くように言うと、きびすを返して走り去ってしまった。 もう俺の声も届かなかった。
坂野は本当に黒猫のように夜の闇へ消えていった。
「坂野は?」
一人で店に戻った俺に、谷口が恐る恐る尋ねてきた。
「お前がもたもたしてるから、一人で帰っていったよ」
吐き出すように言うと、唯が心配そうに顔を上げた。 泣きすぎて目が真っ赤だ。 その肩を抱いて
「大丈夫だよ、きっと」
と声をかけたが、俺自身、そこに確証なんて少しもなかった。 坂野は、あいつらの股間を蹴るわ突っ掛かるわしたし、きっと恨みを買っている。 どこかで待ち伏せして、襲われたりしたら……
そう思ったら、急に俺の胸が激しく痛んで、顔が歪んだ。
「弘志くん?」
唯が心配そうに俺を見上げた。
「ん、なんでもない」
俺は苦笑いで返した。
そのあと唯を無事に送り届け、自宅に帰っても、俺はなんだか落ち着かないままでいた。 坂野は無事に帰ることが出来ただろうか? せめてケータイの番号でも知っていたら、確認出来たのに。 一応唯には坂野のこと、確認したら教えてほしいとは伝えておいたけど。
「はぁ……」
俺はため息とも似た息を吐いて、ベッドに寝転んだ。
次の日の昼過ぎ、唯からメールが届いた。
『昨日はどうもありがとう。 夏芽ちゃん、無事に帰ったって。 私も大丈夫だよ。 ホントにありがとう。 私、見直しちゃった! 弘志くんを選んで良かった』
それを見て、俺は心底安心した。 唯がもう大丈夫そうなことよりも、坂野が無事だったことにホッとしていた事に驚いていた。 すぐに店長と谷口にも連絡した。
特に店長には助けられた。 あの時駆け付けてくれなかったら、俺はどうなっていたか分からない。 あの男たちに再起不能にされ、唯も連れていかれるに違いなかった。
店長は何事もなかったかのように、変わらない穏やかな口調で
「良かったですねぇ」
と笑っていた。 あの時感じた恐怖にも似た圧迫感は、一体何だったんだろう? 谷口にも聞いてみたが、さっぱり見当が付かないという。 谷口もいい加減な奴だからな。
ただ、店長は色んな職を転々として、あの店に落ち着いたという話も聞いたことがある。 そのうち店長の素性も知ることが出来るだろうか? 俺は湿布を貼った右手の甲をそっとさすった。 必要に駆られたとはいえ、人を殴るっていうのは、結構嫌な感じだ。
夏休みが終わる頃、バイトの終了と共に、給料を貰った。
俺にとっては、人生初の給料だ。 自分の力で稼いだ代償は、微々たるものだったがすごく価値があった。 接客の仕方を教えて貰えたのも、大きな収穫だった。 いろんな客がいたが、振り返ってみれば、どれもが勉強だったし、実に充実した一ヶ月だった。
「ありがとうございました!」
頭を下げる俺に
「また忙しくなったら呼ぶよ」
と優しく笑った。
「はい、いつでも呼んでください! 店長には借りもあるんで!」
俺は苦笑まじりに封筒を丁寧に懐にしまうと、家路についた。
まだ昼下がりで、かなり太陽の照りつけが痛かった。 でも俺はなんだか少し成長したような充実感を清々しさと共に感じながら、商店街の中を歩いて行った。 ここを抜けてしばらく行けば唯の家だ。 俺は一番に唯に初給料を受け取ったことを直接言いたかった。
『いきなりの訪問で驚くかも知れないな』
そう思いながら俺は唯の家へと足早に歩いた。 しばらく歩くと、小さな曲がり角で立ち止まった。
『ここを曲がったところに……』
俺はかすかな記憶をたどって、曲がり道を曲がった。 そこは前に坂野を尾行して見つけた公園だった。 遊具も少ない小さな公園。 あの時坂野はひとりベンチに座って、暗くなっていく夕焼け空を見ながら、何を考えていたんだろう?
俺は誰もいない公園に歩み入り、坂野が座っていたベンチに座ると、空を見上げた。
太陽は容赦なくベンチを照りつけていたので、かなり熱かった。 周りに生える草木も暑さにやられたようにどこか元気がないし、わずかに影を落とす木の葉も風に揺れることもなく、涼しさはどこにも求められなかった。 俺はベンチの熱に耐えられなくなって、座って数秒で立ち上がると公園を出ることにした。
「あ……」
公園の入り口で立ち止まる人影があった。 坂野だった。
坂野は逃げるようにきびすを返したが、俺は思わず引き止めた。
「あの時さ!」
ゆっくりと振り返る坂野が逃げないように、そっと言った。
「心配したんだ。 ちゃんと帰れたかどうか。 あれから、あいつらに何かされなかったか?」
坂野は無言で俺の目を見た。 言葉を待っていると、まるでそれで何かを伝え終わったかのように去ろうとした。
「ちょっと待てって、坂野!」
「放っておいて」
「えっ?」
坂野はまた振り返るとため息をついた。
「唯から聞いたんだから、もういいでしょう? 大丈夫だったんだから、もうその話は終わり!」
そして去ろうとする坂野の腕を、何故か俺はつかんでいた。
「いたっ!」
驚き、怯えるように肩を震わせた坂野。 俺は、前髪の隙間から睨むように見る坂野の瞳に言った。
「ホントに、安心した」
「えっ?」
「ホントに心配してたんだな、俺」
「な……何を言ってんの?」
俺も一体何が言いたいのか分からなかった。 でも何故か言葉が止まらなかった。
「お前が体張ってあいつらに立ち向かって行ったとき、ホントに驚いたんだ。 だから感謝してる。 唯を守ってくれて--」
「あんたが頼りないからでしょうっ?」
「え?」
「あんたがちゃんと守ってあげないから、あたしが頑張るしかないじゃない! バカ!」
いきなりの叫び声に驚いた俺は、思わず坂野の腕を離した。 坂野は黒い瞳を揺らして睨みながら、低くゆっくりと言った。
「言ったよね? 唯を泣かせたら殺すって」
「う……」
言葉を失った。
「今回は……助けてくれたから見逃してあげる。 けど、次は無いから!」
坂野は最後まで俺を睨み付けたまま数歩後退りしてから、きびすを返して走り去った。
今度も、止める暇も無かった。 坂野は、あっという間に人込みに消えた。




