黒猫の本音
坂野は二駅向こうの、住宅街の片隅にある小さなアパートに引っ越したという。
店長からもらった住所と地図を頼りに、俺は降りたことのない駅を出た。 すぐに住宅街が広がっていて、夕焼けに染まる一戸建ての並木道が延々と続くように見えた。 右も左も分からないまま、人通りの少ない道を歩いた。 とにかく、この手に握られた地図だけが頼りだ。
『誰にも話したことのないことを俺に話しながら、坂野は助けを求めていたのかもしれない』
そう思うと、自然に早足になっていた。
やがて細い路地を奥へ入っていったところに、【ナカヤコーポ】と書いてある看板を見つけた。 店長のメモに書いてある名前と同じだった。
「ここか……」
見上げると、二階建の鉄筋アパートが、静まり返った路地裏にひっそりと建っていた。 前に住んでいたアパートよりはいくぶんましだが、それでも、階段や柱のあちこちのペンキが剥がれ、錆付いている。
俺は上るたびにカンカンと音を立てる階段を、出来るだけ静かに上がりながら、一番奥の扉へと向かった。 ぴったりと閉められた扉のどれもが、人の気配を消していた。
『本当にここに居るのか?』
店長を疑っているわけではないが、なにしろ雰囲気が薄暗い。 扉には表札も無い。 昨日の今日で、まだ引っ越しもしていなくて、中には居ないのかもしれない。 前のアパートにもう一度行ってみれば良かったかな、と不安に思いながら、俺は恐る恐るノックをした。 それから数秒間、俺の動悸は上がる一方だった。
「どちらさまですか?」
静かな声と共に、扉がそっと開いた。 チェーンがきしんだ。
「あ……俺……」
俺と目が合った瞬間、坂野の瞳が大きく揺れ動いた。
中はまだ散らかっているからと、そこからほど近い公園まで歩いた。
「お前、公園好きだよな?」
「特に小さい公園はね……」
「人込みが嫌いなのか?」
「……住所……店長さんに聞いたんでしょ?」
坂野は二つ並ぶブランコの片方に座ると、ゆっくり揺らし始めた。 俺はその傍らの鉄の柵に腰を下ろすと、ブランコのきしむ音を聞きながら
「店長って、本当にいい人だよな」
と答えた。 坂野はブランコの鎖を握る右手に頬をよせて
「たくさん相談に乗ってくれたの。 急だったけど、あのアパートも、店長さんが口を利いてくれたの」
「やっぱり父親が?」
坂野は小さく頷いた。
「一週間前に出ていった。 私はこの先、どう考えてもあの部屋には居られなかった」
俺の知らない坂野の苦しみや哀しみや寂しさが詰まった空間が、あのアパートにはあったのかもしれない。 坂野はしばらくぼんやりとブランコを漕いだ後、ポンと飛び降りた。
「私は、大丈夫だから」
坂野の声に重なりながら、ブランコのきしむ音が響いた。
俺はじっと彼女を見つめた。
その表情から、何かを読み取りたかった。 何も言わないから、そうでもしなきゃ、また坂野のメッセージを聞き逃すかもしれない。 坂野の顔は、どこか穏やかな雰囲気をしていた。 手を叩いて鎖の錆を落とすと
「弘志くんにも色々助けてもらって、感謝してる」
と小さく微笑んだ。 俺は少し気が重くなって俯いた。
「いや、俺は何もしてない。 むしろ、迷惑かけてきたよ」
「そんなこと、ないよ!」
「俺は、ホントに情けない男だ。 一番大事な事に、全然気付いてなかった」
「えっと……」
何か言葉を探している坂野を見上げて、俺は、
「ごめんな」
と謝った。 謝り足りないのは分かってる。 けど、俺は、何をしてやったら良いのか、全然見当がつかなかったんだ。 坂野は、困ったように唇を噛んだ。
「なんで謝るの?」
そう言う声が震えていた。
「あはは、足りないよな」
擦れた声で笑う俺に、坂野は自分の服の裾を握って、困り果てた顔で首を横に振った。
「ここまで来てくれただけで、充分よ……」
坂野は背中を向けた。 そして顔だけ振り向くと
「ありがとう……さよなら」
と離れていこうとした。 俺は咄嗟にその手を取って、引き寄せていた。
「ごめんな……」
俺はもう一度そう言って、坂野を抱き締めていた。
「謝らないで……」
「今度、服でも買ってやるよ」
「要らない……」
「で、ノエルサウスでお茶でも飲んだり」
「行かない」
「遊園地とかさ」
「行かないってば」
「あ、取りあえず俺、頑張って稼ぐからさ」
「え?」
「待っててよ」
きょとんとして見上げる坂野に、俺は微笑んだ。 坂野はしばらくしてプッと吹き出すと、
「分かった」
と、潤んだ瞳で小さく笑った。
「また明日来るから」
の言葉に返ってきた
「もう来なくていい」
は、真逆の意味を持つと気付いた。
俺はすっきりした気分で家路に着いていた。
一緒にノエルサウスに行こう。
一緒にご飯を食べにいこう。
お祭りにも行こう。
花火も見に行こう。
いろんな服や帽子や靴も買って、おしゃれだって覚えて、新しい坂野を見つけていこう。
これからたくさん、アイツの笑顔を見たいから。




