空っぽの心
俺の恋は終わった。
いや、俺が知らない間に、いつの間にか終わっていたんだ。
ボーッとしながら、俺はカウンターの奥で働く店長の動きを目で追っていた。 店長は何も聞かなかった。 時折心配そうにこっちを伺いながら、ただ黙っていた。
むしろその方が有り難かった。 何かあったのかと聞かれれば、俺は一体何と言ったら良いのか分からなかった。
学校での騒ぎは、生徒指導の教師に数十分のお灸をすえられるだけで済んだ。 済んだというより、俺の放心状態に何も言えなくなったのが現状だった。
やがて谷口が、心配して来店した。 俺の放心ぶりに、こいつは若干ひいていた。 でも俺にはそんなこと、どうでも良かったんだ。 遠く聞こえる慰めの言葉も、珈琲の湯気のように跡形もなく消えていった。
しばらく湯気の消えた珈琲を見つめていたが、やがてフラフラと席を立ち、ノエルサウスを出る俺を、谷口は追ってこなかった。 いや、追ってこれなかったんだろう。 これ以上、何と声をかけていいのか分からなかったんだ。 そうであって欲しかった。 俺は、一人でいたかった。
店を出てしばらく歩いていると、俺の前に人影が現れた。
坂野だった。
制服のままでカバンを持って、多分俺が店から出てくるのをずっと待っていたのだろう。 それでも俺は、坂野に気付かないふりをしてすれ違った。 彼女は、俺の後を付いてきていた。 何も会話はなかった。 ただ、俺の数歩後ろから靴が擦れる音が聞こえてくるのを耳にしながら、構わずに歩き続けた。
『思えば、坂野は俺を守るために唯をぶったんだよな』
ふとそう思うと、立ち止まってガードレールに座った。 坂野は、黙ったまま俺から少し離れたところに立ち止まった。
指先をあげ、ちょい、と招くと、二歩だけ近づいてきた。 まるで警戒しながら近づいてくる猫のように、黒い瞳が揺れていた。
「悪かったな、俺なんかのために、友達を無くしちまって」
「別に……元々、唯だって、お情けで声をかけてきたようなものだったから」
坂野は静かに答えた。
「そうなのか?」
「そういう子なの。 皆に気に入られたい子」
「そうか」
俺は少し笑った。 坂野は戸惑うように言った。
「手、大丈夫?」
「あ、ああ、これ……」
田中を殴った俺の右手の甲が腫れていた。 殴りつけた時の、頬の感触とかはもう覚えていない。 ただ、まだほのかにじんじんと震える痛みが、人を殴ったことを証明していた。 俺はゆっくりと坂野を見上げた。
「お前の方が、痛かったろ? こっちは他人を殴っただけだからな」
坂野の肩がぴくりと動いた。
「私は……一人には慣れてるから……」
その瞬間、俺の脳裏には、坂野の周囲の情景が巡った。 坂野は学校だけじゃなく、家庭でだってずっと一人だったんだ。 【一人には慣れてる】って言葉が、俺の胸にずんと突き刺さった。
「お、お前には、店長がいるだろ? 優しくしてくれてるんだろ?」
「えっ?」
坂野は驚いたように目を丸くした。 俺は立ち上がりながら
「店長なら大丈夫だよ。 絶対お前を見捨てたりしないから」
慰めたつもりだった。 心の拠り所があるなら、幸せなことじゃないか。 坂野はもう、淋しく思う事なんかない。
きびすを返し歩きだす俺を、坂野はもう追っては来なかった。
翌日、坂野は学校を休んだ。 俺も本当は休みたかったんだが、家まで谷口が迎えに来られたら、登校するしかない。 まったく、お節介なダチだ。 やがて堀永先生が教室に現れると、教壇に立ち、おもむろに口を開き、重大発表をした。
「えー、突然ですが、坂野さんが学校を辞めることになりました。 家庭の事情でやむを得ずということで急にこんなことになって、最後に皆さんに言葉をもらうことは出来ませんでした。 急なことで驚いたかもしれませんが、何らかの形で会うことがあれば、声をかけてあげてください」
教室の中が騒つく中、俺は椅子を倒す勢いで立ち上がった。 その音で驚いた同級生たちが、俺に集中して静まり返った。
「いつ決まったんだよ?」
堀永先生は肩を落としてため息をついた。
「昨日の放課後、坂野が職員室に来て、そう告げていった。 皆には、お世話になりましたと伝えてくださいとな」
「なんだよ、それ……」
俺は震える拳を握った。 湿布を貼った拳に、じんわりと冷気が包んだ。
『昨日、何も言わなかったじゃないか……』
自分自身が、他人の話を聞いている場合ではなかったのは事実だが、それでも、坂野の異変に気付けなかった。 いつだってそうだった。 あの時、本当はそれを俺に告げようとしていたのかもしれない。
「ちくしょう!」
俺はカバンを掴んで席を外そうとした。 それを堀永先生は
「海堂! お前は最近落ち着きが無いぞ! 気持ちはわかるが、連絡なら後でも取れる。 今日は一日、授業を受けなさい!」
とガツンと言ってきた。 確かに昨日暴力沙汰で呼び出され、職員室でこっぴどく説教をされたばかりだ。 俺は悔しさを込めた拳を机に叩きつけると、仕方なく椅子に座った。
生徒が一人急に居なくなったと言うのに、授業は何事もなかったかのように進められた。 そんな中でもどかしさに包まれながら、悶々と過ごした。 放課後のチャイムがなったと同時に、俺は教室を飛び出した。
「弘志! 待て、オレも行くよ!」
後ろから谷口の声が聞こえたが、俺は振り返らずに廊下を走り抜けた。
坂野のアパートに行ったが、本人も、家族すら居る気配はなかった。 懸命に叩く扉が開く気配は、全く無かった。 じゃあ次は、と走り込んだノエルサウスの扉を力任せに開いた俺は、息を荒げたままで店内を見渡した。 カウンターにも、テーブル席にも、坂野の姿は見つけられなかった。
「アイツ、来ていませんか?」
迫る勢いで尋ねる俺に、店長はゆっくりと水を差しだした。
「まあ、これを飲んで落ち着いて」
「落ち着いてなんていられるか! 店長は知ってるんだろ? アイツがどこに行ったのか!」
店長はゆっくりとカウンターの席を指差して、座るように促した。 そうなると抗うことも出来ず、俺は、おとなしく席に座った。
「彼女は、そんなに遠くには行っていませんよ」
店長は穏やかな顔で言った。
「新しい生活を始めるだけです」
「新しい生活? まさか店長、アイツと結婚――」
それ以上の言葉が出せなかった。 目を丸くする俺に、店長は苦笑した。
「私と彼女を離して、話を聞いてください。 私は彼女の相談を受けていただけですよ。 それ以上の関係はありません」
「だってあの時、『これからは店長に守ってもらう』って言ってたじゃないか!」
納得できないとカウンターを叩いた。 店長はたいして慌てた様子もなく、穏やかな顔をして
「それはね、彼女が咄嗟に言ってしまった事です。 スキー研修から帰ってきたあの日、あなたが帰っていった後、彼女は、貰ったお土産をとても嬉しそうに見つめていましたよ」
「それ、どういうことだよ?」
俺は、何が何だか分からなかった。 店長は俺に、注文していない珈琲を差し出しながら
「『弘志くんには、唯という素敵な彼女がいるから』と、自分の気持ちを押し殺すのに必死でしたよ。 あ、こんなこと私が言ったって、内緒ですからね!」
と人差し指を唇の前で立てて片目をつむった。
「店長、俺……どうしたらいいんだよ?」
自分の体が震えているのが分かった。 坂野の気持ちなんて全然知らなかったし、微塵も感じさせなかった。 俺は、頭の中が真っ白になる前に、なんとか店長から、坂野の居場所を聞き出した。




