快気祝い
カランカランカラン……
とカウベルの音が店内に響き、奥から
「いらっしゃいませ」
と落ち着いた低い声が聞こえた。
「こんにちは」
「おや! 弘志くんじゃないですか! もう体の方は良いんですか?」
「はい、やっとギブスも取れました。 あの……」
突然の訪問に少し驚きながらも優しい笑顔で迎えてくれた店長に、俺はあの事件の後のことをあれこれと尋ねた。
店長の話では、店に警察官はやってきたが、営業に支障はなかったらしい。 俺の怪我のことは、谷口からも聞いて知っていたらしく
「お見舞いに行けなくてすみませんでした。 でも若いから、回復も早かったんですね。 安心しました」
と申し訳なさそうに眉を寄せた。 そして声を少しひそめ
「なんなら、今からでも私が懲らしめてやりましょうか?」
と、本気とも冗談とも思える口調で囁いた。 その瞳にも、どちらとも取れる輝きが灯っていた。 俺は少し怖くなって
「い、いえ、大丈夫です。 これ以上、この事件については関わりたくないんで」
と愛想笑いで手を小さく上げ、お断りさせてもらった。
「そうですか……」
と少し残念そうな顔をした店長は、じゃあ、もうそのことは忘れましょう、と微笑んだ。
俺は胸の中でほっと息をつくと、快気祝いだと出してくれた特製珈琲に口をつけた。
やっぱり店長は不思議な人だ。 温かく穏やかな表情の下に、何を隠しているのか見当もつかない。 でも、何かあった時に頼れるのはこの人だと、なんとなく信じられる。
それから数週間もすると、身体のあちこちに残っていたあざもだいぶ消え、動きにも支障が無くなっていた。 通院をするのもこれで最後だ。
「お大事に」
と看護士たちに見送られながら病院を出た。
事件の事は、もう気にしないことにした。 どうやら傷害の罪で裁判沙汰にすると、金が掛かるらしいということで、怪我の賠償金だけ払ってもらうことになった。 もうここら辺は大人たちに任せている。 俺自身より、唯や谷口たちの方が熱くなっていることで、俺も若干ひいてしまったところもある。 何はともあれ、俺一人が犠牲になったことで事件は解決したと思っていた。 俺にとったら、唯や坂野に被害が及ばなかったことだけで充分だ。
帰宅して着替えると、外はオレンジ色の光に包まれていた。 心なしか涼しくなってきた風に吹かれながら、ノエルサウスへ向かった。
今日はどうやら、俺の快気祝いを開いてくれるらしい。 谷口から、わざとらしく汚い字で書かれた招待状を受け取っていた俺は、それを指先でつまみながらため息をついた。
『そこまでやってくれなくてもいいのに』
と思いつつ、やはりその気持ちは嬉しい。 唯も腕を振るって料理を作ると意気込んでいた。 可愛いであろう唯のエプロン姿を想像し、顔を緩ませながら、ノエルサウスの扉を開いた。
カランカランカラン……
カウベルの音が店内に響いた。
今日は貸し切りだと聞いていたから、他の客は居ないということは知っていたが……
『何故こんなに真っ暗なんだ?』
俺は、目を凝らしながら中を伺い見た。 カウベルの余韻も消え、静まり返った店内。
『今日、で、間違いないよな?』
頭を掻きながら入り口に立ち、動けないでいる俺を、突然破裂音が包んだ。
「うわあっ!」
同時に、しこたま驚いた俺を照らすように店の明かりが点き、目が眩んだ。
「弘志くん、おかえり~!」
「弘志、祝、復活っ!」
いろんな声が、俺の耳に届いた。
「お前ら、脅かすなよ!」
俺は激しい動悸に襲われる胸を押さえながら、顔をしかめた。 悪い冗談だ。 気が付くと、俺の肩や頭に付いたクラッカーの紙テープを取りながら、傍らに唯がいた。 彼女はにこりと微笑むと、
「弘志くん、こっち」
と手を取ってテーブルへと誘った。 促されるままに席に着くと、目の前には数々の料理が並んでいた。
「やっぱり時間ぴったりだな! 弘志、見かけによらず律儀な性格だもんな!」
と、幹事の谷口が満足そうに頷いた。 俺の対面に座った唯の隣には、坂野も気配を消すように静かに座っていた。
「さて、今日は店長の計らいでドリンク飲み放題です~! んでもって、この豪華絢爛な料理は唯ちゃんと坂野さんが作りました~!」
「えっ、坂野も?」
思わず驚く俺に、坂野はふんっ!と唇を噛んでそっぽを向いた。
「あら、夏芽ちゃんも料理が上手なのよ! どっちがどの料理を作ったのか、当ててみてね」
といたずらっぽくウィンクをした唯。
やがて店長も姿を現し、
「今日は、遠慮なくゆっくりしていってくださいね」
と穏やかな笑顔を見せた。
かくして、谷口のつたない音頭で俺の快気祝いは開かれた。
今日はもうすぐ訪れる秋を意識してか、鶯色の薄地で丈の短いワンピースにカーキ色のジャケットを羽織り、薄茶色のブーツを履いて、勿論生足だ。 髪の毛は軽く二つに結んで前髪を垂らし、少し幼く見えるが、それもまた可愛らしい。
一方坂野はというと、この服しか持っていないのかと言いたいほど、この夏会うたびに見るのと全く同じ衣装に身を包んでいる。 違うのは黒いタンクトップが黒いタートルネックになったことくらいか。
前にも谷口が言ったように、まるで黒猫だ。
そして、たいしてテンションも上げずに、たまに唯に微笑みかけながら食事を楽しんでいる。
『こいつは本当に俺を祝おうとしているのか?』
と訝しんでいると、唯が端と思い出したようにポンと手を叩いた。
「そうだ! 今日は夏芽ちゃんの誕生日なの!」
「あっ! 言わなくていいって言ったのに!」
坂野は慌てて唯を肘で小突いて、戸惑った顔をした。
「なんだぁ! じゃあ坂野の祝いもしなくちゃな!」
と谷口が言いながら、皆に改めてジュースを注ぎ始めた。 坂野は顔を赤らめ、震えた声を出した。
「あ、あの、ホントにいいってば!」
こんなにも坂野が困惑する姿を見るのは初めてだ。 意外にこんな表情もするんだなと思っていると、店長が奥からホールのイチゴケーキを運んできた。
「おっ! 寺角さん気が利くじゃん!」
「店長ったら、憎い演出して!」
谷口と唯が手を叩いて喜んだ。
そうは言っていても、谷口と唯の表情からして、坂野にもこうしてサプライズを用意していたようだ。 この二人、策略家だな。 坂野は目を丸くして、店長が置いたケーキを凝視している。
「店長、知っていたんですか? 坂野が今日誕生日だったって」
俺が聞くと、店長は気恥ずかしそうに首を傾げて坂野に微笑んだ。 坂野は、頬を赤らめて俯いた。
「じゃ、坂野の誕生日祝いを仕切り直そうぜ!」
「賛成!」
谷口の威勢の良い声に、唯も手を叩いて喜んだ。 坂野は相変わらず恥ずかしそうに俯き、肩をすくめていた。 その肩をぎゅっと抱いて、唯が
「おめでとう、夏芽ちゃん!」
と微笑みかけると、坂野はやっと顔を上げて小さく微笑んだ。
店長が切り分けたケーキと、唯と坂野が作った料理を皆で堪能しながら話は盛り上がると、いつの間にか夜遅くになっていた。
「そろそろお開きにしましょうか」
と谷口がまとめた。 各々が食器や店内の掃除を始め、片付け終わる頃、谷口がそっと身を寄せてきた。
「なあ、弘志」
「なんだよ? 寄るなよ暑苦しい!」
と怪訝な視線を送ると、谷口はなお耳元に口を寄せると、囁くように言った。
「俺、坂野に告ろうと思うんだけど」
「えええっっ?」
いきなり大声を出した俺の口を必死で押さえた谷口は、こっちを見る唯や坂野たちに豪快な愛想笑いをした。
「声がでかい!」
憤然と囁く谷口にごめんごめん、と苦笑を返し
「いきなりどうしたんだよ? アイツのこと、苦手なんじゃなかったのか? 愛想が悪いとか散々言ってたじゃねーか」
「いやぁ、何か最近気になってさ。 あいつ、本当は良い奴なんじゃないかなぁって。 唯ちゃんのこと、身体張って守ったりさ。 きっとまだ彼氏いないんだろ?」
「そう……かな……?」
俺の返事を聞くでもなく、谷口は俺の肩口をポンと叩くと、意を決したように唯たちの方へ駆け寄っていった。




