幸せを呼ぶ春風
高校二年生の春、俺は告白された。
俺の目の前には、桃色のぷりっとした唇をキュッとつむり、子犬のような丸く黒目がちな瞳をしばたかせて俺を見上げる女生徒がいる。 春風に乗って、どこからか桜の花びらがひらひらと視界に入ってきた。 その一片が、軽くウェーブのかかった背中まで伸びた明るいブラウンの髪の毛に引っ掛かって、なにかまるでそういう髪飾りのようにしっくりと桜色が映えた。
彼女はじっと俺の言葉を待っていた。 一世一代の大事をした後のように、白い頬を真っ赤に染まらせている様子が可愛いすぎて、それをしばらく見つめていたかったが、これ以上伸ばすと呼吸困難になりそうな息遣いが聞こえてきそうだったので、俺は笑顔を返して
「こちらこそ、よろしく」
と答えた。 その途端、彼女は瞳をいっぱいまで見開いた後、涙を滲ませながらほっとしたように笑顔を見せた。
白浜 唯。
実は俺も、去年の入学式からずっと気になっていた。 同級生の唯の評判は、入学後すぐに学年中……いや、学校中に広まった。 彼女は誰にでも優しかったし、よく気が付いて世話を焼き、そこに嫌味が無いことから、男からも女からも好かれるほどだった。 あまり運動神経は良くないのだが、その輝きに満ちた笑顔は何もかもを許せてしまえるほどだった。
そんな彼女が、ついさっき俺に告白をしてきたのだ。
拒む理由など何もない。
俺はただ、今すぐここで思いっきり唯を抱き締めたかった。 喜びのあまりに倒れそうになっていた唯を支えたかったからだ……というのはただの言い訳で、その身体を単純に抱き締めたかった。
その行為を阻害したのは、唯の背後に潜む眼光の性だった。
坂野夏芽。
唯の友人なのだが、これがまたくせのある女生徒なのだ。
男勝りな性格で、黒髪のショートカットに長めの前髪から覗く少し釣り目の瞳は、唯に近づこうとする男たちをことごとく排除してきた。 男たちはことさら、この坂野の事を苦手としていた。
その坂野は、喜びに打ち震える唯の向こう側からつかつかと足早に近寄ってきた。 逃すまいとする蛇のような視線にたじろぐ俺に、ぐいっと人差し指を突き付けた坂野は
「海堂弘志! 唯を泣かせたら、殺すからね!」
と堂々と宣言した。 それが当然のように、冗談と取れないのだから恐ろしい。
「は、はい……」
思わず返事をしてしまった俺ににこりともせず、睨みをきかせ続けた坂野は、次に唯を見た。 途端に優しい笑顔をして
「唯、良かったね!」
と頭を軽くポンポンと撫でた。 唯は
「ありがとう、夏芽ちゃんのおかげだよぅっ!」
花が咲いたような笑顔で返すと、夏芽はもう一度笑顔で頷くと、軽く手を挙げて去っていった。 俺はその後ろ姿を見送りながら唯に言った。
「あの子ってさ……」
「はい?」
軽やかに振り向く唯の可愛さに、思わず眩暈を覚えた。
「あ、あの坂野って子、怖くないの?」
すると唯はきょとんとした顔でことりと首を傾げ
「いいえ、すごくいい子よ。 私のこと、とても大切にしてくれるの!」
と笑顔を見せた。
『それが、男たちにとったら恐怖なんだよ……』
俺はその言葉を飲み込んで頭を掻きながら、もう一度坂野が歩いていったほうを見た。 彼女はもう姿を消していた。 教室にでも戻ったのだろう。
「じゃあ、俺のことは認めてくれたってことなのか?」
ふと呟いた俺に、唯は頬を赤らめて俯いた。
「違うの。 海堂くんは、私が、自分から付き合いたい……って、思った相手だから……いつもは、私が思う人じゃない人から声が掛かっていたから、夏芽ちゃんが守っていてくれたの」
『なるほど……要するに坂野は、彼女に悪い虫が付かないようにボディガードをしていたってわけか。 ご苦労さまなことで』
俺は唯の気持ちが素直に嬉しくて、思わず微笑んだ。 唯も、はにかんだ微笑みを返してくる。
もうたまらん! 可愛いすぎるんだけど!
俺たちが付き合い始めたことは、すぐに学校中に知れ渡った。
無理もない。 今まで唯の隣にいた邪魔者の坂野が消え、この俺が立っているんだから。
「お前、どうやって口説き落としたんだよ?」
クラスメイトの谷口直樹が細い目で口を尖らせながら顔を寄せてきた。 こいつも、唯に告って玉砕した奴らの一人だ。
「いや、俺は別に何もしてねえよ。 唯が告ってきたんだ」
「何だと、お前っ?」
谷口はいきなり、俺の首に全体重をかけたエルボーをぶつけてきた。 勢い余って、後ろの机の角に肘をぶつけ、指の先まで電気が走った。
「いてぇなぁ! 何するんだよ?」
「お前が白浜さんとっ? 何でそうなるんだよ? それに彼女を名前で呼ぶなんざぁ……」
怒り狂った谷口が『許さねえ!』と言われるより先に
「だって俺たち、付き合ってるんだから当たり前だろ?」
と返してやった。 それにはさすがに谷口も何も言えず、すごすごと退いていった。
この優越感! 最高だね! 俺にもう少し勇気があれば、放送室のマイクを奪って大々的に発表したいくらいだ。
「弘志くん、帰りましょう!」
鈴の音のような可愛らしい声が、扉の方から聞こえてきた。 反射的に教室中の生徒達が注目した。 唯は少し驚いたように見渡し、肩をすくめると舌をぺろりと出した。
はあぁぁぁ……。
男たちのとろけたため息が聞こえるようだった。 俺はすっと立ち上がると、自分の席でうなだれる谷口の肩をポンと叩いて
「じゃ」
と告げ、唯の待つ扉をくぐっていった。
廊下を歩いていると、唯が何かに気付いて窓に駆け寄った。 そして窓を開けると外に向かって
「な~~つめちゃあぁん!」
と大きく手を振った。 二階の窓の下を歩いていた坂野は顔を上げ、唯に気付くと、にこりと口元を上げて小さく手を挙げた。
「一人で帰るのか」
小さくなっていく坂野の背中を見送りながら呟くと、丁寧に窓を閉めた唯が俺を見上げた。
「私たちの邪魔をしたくないからって」
「ふうん、別に一緒に帰るくらい、いいのにな」
と、一応心にもないようなことを言ってみると、唯は下唇に細く白い人差し指を当てて
「そうなのよね。 私も、『一緒に帰ろう』って言ったんだけど……」
『言ったんかい!』
「バカかって言われちゃった!」
と肩をすくめて笑った。
「ホントにお前は……」
「えっ? やっぱりバカって、言うんですかっ?」
「いや、そういうわけじゃあ……」
「弘志くんまでひどぉい!」
ポカポカと背中を叩く唯を振り返りながら、「ホントにお前は」の後の『可愛いヤツだな』と言うのを飲み込んでいた。




