最後までなりきれない
自分たちが突き進み、意志を伝えれば豊の気持ちは揺らぐと、狼はどこかで信じていた。自分一人で決めた決断は揺れやすいし、他者の意志によっても変わりやすい。そう思っていたからだ。
しかし、目の前の豊に意志の変化は見られない。
いや、あるのかもしれないが狼たちの目にはそれが明確に映らない。
けど、だからって僕の方が折れたら駄目だ。
狼は豊との衝突を繰り返しながら、何回も何回も自分のことを叱咤していた。胸の内から弱気な心が出てこないといえば嘘になる。
豊の言葉、全てを否定できない自分もいる。
名莉の銃弾がそんな自分の心を引き裂くように放たれ、豊へと果敢に向かって行く。
立ち止まれないなら、進むしかない。
狼の言葉に、豊が叫んだ言葉だ。
それはひどく今の自分たちを現している言葉でもある。死への呼び水である刃の斬線が怪しく美しく光を放つ。狼が後ろへと跳躍し躱す。躱した瞬間に、再び豊へと踏み込みイザナギを振るう。
豊が刀で受け止めてくれば、鍔迫り合いはせずに刺突の攻撃へと転じる。豊がそんな狼の動きを見て、自分の位置をずらして避ける。丁度、豊の左脇下の突いたイザナギ。
下に向いていた刃を瞬時に上向きに反転させ、下から上へ切り上げる。
「止まらない君の成長は、やはり目を見張るものがある」
狼の動きを見切り、イザナギの刃から逃れた豊が静かな笑みを零して来た。
「黒樹君。私はこういう時に思うんだ。教育者という立場は自分にとっての天性だったと」
豊が名莉から放たれた銃弾を切り裂きながら、朗らかな口調で告げてくる。けれど、その柔和な態度が、狼の中の不安をかき立てる。
もう、この人は次の段階に、自分たちが思いがけない段階に行ってしまったのではないか? そんな不安が過ってしまう。
「だったら、教育者が自分の生徒に刃を向けないで下さいよ」
自分の中にある不安を悟られまいと、狼がいつもの調子で言葉を吐く。
「はは。愛の鞭、と言いたい所だけどね、それは無理だね。君たちか私のどちらかが変わらなければ、一つの道は止まってしまう。その先は築き上げられなくなってしまうから」
豊が走らせた刃が、狼の右横腹を掠め去って行く。その残滓が空気を震わせ、狼の皮膚を冷たく撫でていく。
その瞬間に、豊の背後から名莉が銃弾を放つ。
「私は、理事長に感謝しています」
銃弾を放った名莉が、はっきりとした口調で豊へと口を開いた。
「さっき、理事長は言っていました。私たちか理事長の考えが変わらなければ、一つの道は消えてしまうと。でもそれは違います。間違いです。私たちは理事長を殺しに来たんじゃない。止めに来たんです。止まられなくて、進むしかない理事長を止めるために動いているんです」
そうだ……。そうだった。
「また、僕は……」
呟いて、狼は自分が豊と同じペースになっていた事に気づいた。そして、名莉の言葉に豊が片眉を眇めて、溜息を吐いている。
しかも、豊を挟んで狼の正面にいる名莉は、手に構えていた銃を降ろしている。
まるで降参しているかのような態度だが、名莉の視線は豊を真っ直ぐに見ていた。
「最近、私は自分が変わったと思います。昔は今みたいに多くの人と関われなかったし、この銃を誰かに突き付ける意味の大きさなんて感じてなかった。これは私たちの中で当たり前の事だと思っていたから。けど、それは間違えで、自分は何も知らなかっただけなんだって、知りました。それはそこにいる狼、いえ……色んな立場の人と関わって知りました。だから、理事長も、今は分からなくても、これからそれを教えてくれる人がいると思います。だから諦めないで下さい」
名莉の言葉には、彼女の意志が強く込められている。
けれど、そんな名莉の言葉に豊が静かに首を振った。
「実に前向きで救済的な言葉だ。しかし……それは君のように過去を過去として割り切れる人間にしか効かない。そうだろう? とはいえ、君もまた黒樹君と共に成長し、変わったという事は私にも分かる。だから、さっきの言葉に何も思わないほど、私も開き直っていないよ。けど……」
苦笑を零した豊が言葉を切り、名莉を見る。
豊と名莉の視線が合う。
「残念ながら、手遅れだ」
「やめろっ!」
狼は叫ぶのと同時に、名莉の目の前に移動した豊へと斬撃を放っていた。
斬撃が名莉の身体を貫き刺そうとしていた豊の刀へと向かって行く。狼の背中が一気に粟立つ。一気に汗が拭き、因子の加減も自分で把握できてない。
しかし、狼は斬撃を放った瞬間、思いきり地面を蹴っていた。
もう、あの時の想いはしたくないっ!
そんな狼の目の前で、赤い血が床へと滴り落ちた。それは緩くも決して少なくない量で。
しかし、血が出ていたのは名莉からではない。
「全く、そういう詰めの甘い所は誰に似たのか……思わず笑いが込み上げてくるレベルだよ」
全身から血を流している豊が狼へと微笑を浮かべてきた。
……どうして? いや、メイは? ……名莉は、無事。つまりは……
戸惑いが狼の頭の中を撹拌して、状況整理と気持ちが思うようにできない。名莉は膝を付き、全身に怪我を負っている豊の後方で、尻餅をついた姿勢のまま豊を見ていた。そんな名莉の表情には驚愕の色が濃く浮かんでいる。
無傷の名莉と重傷を負っている豊を交互に見ながら、狼は一つの憶測が頭に過っていた。
「……もしかして、わざと……わざと、僕が攻撃を放つように仕向けたんですか?」
「まさか。それは君の邪推だよ。ここまで来て私がそんな事をすると思うのかな?」
豊が穏やかな表情のまま、首を横に振って来た。
「説得ないですね。だって、そうじゃなかったら、理事長は簡単に逃げられたじゃないですか。それなのに、逃げずに受けるなんて、わざと以外考えられませんよ」
そう言った後、狼がイザナギの復元を解除した。
豊へとゆっくり近づいた。近づいた豊は床を見て、荒い呼吸を繰り返している。
「黒樹君たちは、私を止めたいと言っていたね? なら、さっさと決着をつけるべきだ」
「ええ。僕もそう思います。理事長の因子はまだ残ってるし、この間にも身体を回復させているかもしれない」
狼の言葉に、豊が苦笑を浮かべて来た。
「けど、絶対に貴方をここで殺したりしません。僕はこれ以上、誰かの命を取るなんてしたくない」
「はは。綺麗な言い訳だ」
「そうですよね。でも、それが僕っていう人間の本音です。理事長は僕に詰めが甘いって言いました。けどそれは理事長も同じです。理事長も最後の最後まで悪い人にはなり切れなくて……だから、僕と同じ卑怯者なんです」
そんなとき、出流が狼の名前を呼んできた。
狼が出流の方に振り向くと、出流が何かの薬品が入った注射器を投げて来た。
「安心しろよ。朱亞特性の麻痺薬だ」
「安心しろって言われてもなぁ……」
「安心だろ? 命は取らないんだから」
狼が薬を受け取りながら、狼が出流の言葉に苦笑を零す。それから、狼は豊の横で膝をついた。
「まぁ、いい気分じゃないとは思うんですけど……」
「構う事はないさ。君は卑怯者なんだろう?」
「そうですね」
そう言って、狼は豊の腕に薬を打った。
「こんな所で薬品学と医療の授業が役に立ったね。黒樹君」
「ええ、まぁ……。最初、授業を受けた時は、高校生の学ぶレベルじゃないと思いましたけどね」
狼が薬を全て打ち終わると、豊が両手を胸の高さにあげて、握ったり開いたりを繰り返している。
「この薬は即効性がありそうだね。改良すれば良い麻酔薬になりそうだ」
豊がそんな事を言っていると、そこへイザナミの復元を解除した真紘がやってきた。
「理事長、いや……宇摩。貴様の処罰はまず九卿家内で判断し、それから法的機関へと譲与されることになる」
真紘の静かな言葉に、豊が肩を上下させて頷いた。
ある程度、分かり切っていたこととはいえ……狼の中で何とも言えない気持ちになる。納得している部分と、それに反抗したいような気持ち。
それが狼の中で大きく渦巻いている。
きっと、今こうして現実を告げている真紘の中にだって自分と同じ気持ちはあるはずだ。しかし、真紘の立場上、告げないわけには行かない。反抗するわけにはいかない。
いや、狼だって反抗はできない。
全ては狼たちが選んだことなのだから。
狼がそっと唇を噛む。
すると、その瞬間にけたたましいアラーム音が狼たちの耳を劈いた。
『警告。あと約三分後にミサイルが発射されます。直ちに各員、持ち場へと待機してください。繰り返します。ミサイルが約三分後に発射されます。直ちに各員、持ち場へと待機してください』




