nilの中にある平等性
ヴァレンティーネを握り潰した鬼の手から赤い鮮血が流れ出す。キリウスの目が見開かれ、その次には、葵の目の前へと来てその顔を容赦なく突き刺していた。
葵の顔面から吹き出した血がキリウスへと勢いよく飛び散る。
まるで、壊れた噴水のように。
辺りを真っ赤な血へと染めて行く。
「でもね、人の身体からこんなに激しく血は吹き出さないので、ありました」
キリウスの視線が地面から突き出された鬼の手の方へと向く。
握り拳を作った鬼の手の上に、葵が何事もなかったかのように立っていた。そして顔には、うすら笑いを浮かべている。
そんな葵の様子に、豊以外の人間が言葉を失い、眉を潜めている。
「ねぇ、ねぇ、あおりんからの質問。この握り拳の中がどうなってるか、見たいかしら?」
葵からの軽佻な言葉に、答えるものはいない。
その代わりにキリウスが葵の身体を粉砕していた。肉片すら残さずに、葵という存在を消失させる。
けれど……
「もう、外見通りせっかちさんね。イケメンだから赦してるのよ? ぷんぷん」
どこからともなく葵の声が響き渡る。
これには、流石のキリウスの表情にも大きな驚きが浮かび上がっていた。ジャンやリリーも怒りを通り越し、キリウスの背後に立った葵に絶句していた。
「葵君。少し手はず違うようだけど、理由を訊かせてくれるかな?」
豊が微かに目を細めて、葵を見る。
すると、葵が豊の方へと振り返り……にっこりと笑みを浮かべた。
そして、ヴァレンティーネを握り潰した鬼の手が開く。鬼の手の中は空で、先ほど握り潰されたはずの、ヴァレンティーネの姿は無い。
「きっと誰もが、あっさり死んだと思ったことでしょう? でもね、私はそんなあっさり塩味の死なんて望まないの。といっても、ここでお馬さんを倒されるわけにも行かないのよ。だって私のお給金が立たれてしまいますもの。だから、彼女は別の場所に移動させただけの事よ」
鬼の手に乗った葵が口許を隠しながら、目元に笑みを浮かべてきた。
「やれやれだね……」
掴み処がない葵だ。自分が思い描いていた通りに動くはずもない。そういう点においては、葵と慶吾はよく似ている。
「私の周りには、自我が強い人が多くて時々困ってしまうよ」
「あらあら、それはお互いさまではなくて?」
豊と葵が視線をかわした瞬間、葵が鬼の手から木の葉のようにひらりと舞う。その瞬間、音もなく鬼の手から小さな光が現れ、瞬く間にその光が鬼の手を包み消滅させる。
「合図もなしに襲うんですもの。北陸の女は怖いわ」
砂地に体操選手の様に両手を上げて着地した葵が、藤華を見る。葵に見られた藤華は素知らぬ顔だ。
「避ける必要があったんですね? 私的にはちょっとした実験をしたつもりだったのですが」
「それはそうよ。私を不死身とでも思ったの?」
「先ほどのやり取りを見せられれば、誰でもそう思います」
「あら、やだ素敵。私は不死身なんかじゃないわ。人より少し身体が頑丈なだけですの」
威圧を放っている藤華に対して、葵が大袈裟に目を見開いて返事をし、それから因子の熱を上げるキリウスの方へと視線を向けた。
「やばい。私、今……空前絶後の人気振りかも」
手を口許に当てた葵へとキリウスが、斬撃による熱閃を放つ。斬撃が地面を焼き抉りながら、猛スピードで葵へと襲いかかる。
「もう、本当に貴方達も私たちとなんら変わらないわね」
ぼそりと葵が言葉を呟いたのと同時に、先ほど藤華が消滅させた鬼の手が再び現れ、キリウスの斬撃を正面から受けた。衝突した瞬間に凄まじい爆風と衝撃が辺りに広がった。大量の海水が沖へと押され、砂丘が地響きを鳴らしながら砂崩れを起こす。岩が溶け、砂塵が溶け、海が蒸発する。
はは。本当に大した力だね。
爆風に乗りながら、衝撃を受け止めている豊が思わず笑みを零す。
口を開くことはできない。空けた瞬間に空気の熱で肺が死んでしまうだろう。そして、その肩には、身体から血を流し気絶している棗を抱えていた。
慶吾との攻防戦に意識を向け過ぎて、退避を忘れたのか。精神的疲弊が身体の動きを鈍らせたのか。広がる衝撃の速さについていけなかったのか。
棗が重傷を負った理由はわからないが、豊の中に棗を見殺しにする理由は無かった。理由なき殺生を嗜好しているわけではない。ましてや、棗は自分の学園に通う生徒だ。
「……全く。ただここを逃げ出すだけで派手な事をしてくれるね」
衝撃が止み、先ほどまで葵がいた所を見ながら豊が肩を竦めた。そして辺りを見ると、一通りの人間が衝撃を回避していた。
これで、藤華たちが負傷してくれたら有り難かったが、そう上手くは行かないらしい。
もはや、ここで衝突することに意味は失われている。
豊は、自分の懐刀である一番合戦や天宮城の二人に目配せをした。二人が頷き、時臣の後ろへと回り込む。
「逃げるおつもりですか?」
時臣の後ろに回った一番合戦たちを見て、藤華が眉を潜める。
「当主のプライドとして言っておくと、これは逃げじゃないよ。一番のお目当て人がどこかに雲隠れされたからね……探さないと行けないだろう? だから、ここは時臣君たちに任せようと思ってね」
豊が因子を放出するのと同時に、藤華の因子で出来た死の棘が豊へと降り注ぐ。当たれば、豊の身体は滅していたはずだ。
けれど、その棘が豊の身体へと降り注ぐ手前で、豊の姿は光に飲み込まれた。
無事に真紘を救出したフィデリオたちと合流した狼たちは、目をぱちくりと瞬いていた。
「……あら?」
そして、突如としてボートの上に現れたヴァレンティーネも目を瞬いていた。
「えっ、どうしてヴァレンティーネさんがここに?」
狼の言葉に振り向くヴァレンティーネは、まだ驚きの渦中から抜け出せていないような表情をしている。
「いえ、あの……私、お兄様たちと一緒にいて、ウマさんたちと対面していたの。そしたら着物を来た女の人が現れて、大きな手でガバッと掴まれて、気づいたらここに」
「着物を来た女の人?」
名莉が少し眉を顰めて、首を傾げる。
「名前は確か……アオイクンってウマさんから呼ばれていたわ」
「ちょっと、待って。その人って……」
ヴァレンティーネの言葉に、根津が神妙な表情で反応してきた。
「心当たりあるの?」
狼が首を傾げると、根津が少し躊躇いがちに頷いて来た。
「大城家に侵入したときに、あたしたちを座敷牢から出した人だと思うわ。直接訊いた訳じゃないから、あれだけど……霧斗さんがあの女の人を葵さんって呼んでたと思う」
顎先に手を当て、記憶を掘り起こすように根津がそう答えて来た。
その言葉で、狼の脳裏にも大城家の座敷牢から自分たちを出した着物姿の女性の姿を思い出す。
もし、あの人が大城家の人間だとしたら、大城家の当主である時臣と行動していても可笑しくはない。霧斗とも渡り合っていたとなると、実力も高いのは分かる。
だからこそ、狼は葵の存在よりも……
「どうして、理事長がそこに?」
こちらの方が気になる。
自分たちが明蘭にいるときには、豊は先ほどの空母艦にいたはずだ。
それなのに、わざわざ大城時臣たちと合流したのは何故なのか?
「私を殺すためだと言っていたわ」
狼の疑問に、あっさりと答えたのは強張った表情のヴァレンティーネだ。
「……どうして?」
怪訝な表情を浮かべる狼に、ヴァレンティーネが少しだけ息を吐いてから、言葉を続けた。
「お父様やお兄様が行おうとしている『nil計画』を防ごうとしているからよ」
「自分たちの因子を奪われないために?」
訝しげな表情のまま、狼がヴァレンティーネに訊ね返す。するとヴァレンティーネが頭をこくんと頷かせてきた。
nil計画のことは、狼たちも出流や操生などから聞いている。ヴァレンティーネの因子を使用した兵器を使って、アストライヤー側の攻撃を無効化、または壊滅を目論んでいると。
「あのね、ロウ……お兄様たちは世界に復讐したいの。ゲッシュ因子という能力を人間に授けた世界に対して」
「えっ、それって……」
「そう、だからお兄様たちはこの世界からゲッシュ因子を消し去ろうとしている。そうすれば、人間社会における一つの不平等さがなくなる。それが本当のnil計画の全貌よ」
儚げに笑うヴァレンティーネの表情は、凄く寂しそうに見えた。
けれど、残念ながら狼はヴァレンティーネの内心を図り知ることはできない。
確かに、不平等を肯定している豊からすれば、フラウエンフェルト家が打ち出したnil計画は、看過できないものだ。
世界からゲッシュ因子を消し、一つの不平等を失くす。
その言葉の響きには、一種の正しさがある。人に対する慈悲すら感じる。
けれど、狼は何とも言えない感情に苛まれた。
ゲッシュ因子という不平等の象徴を消し去り、平等を確立するのなら……全ての人にそれを与える平等性もあったはずだ。
有る無しという不平等の世界で、どちらかがいなくなればそれは一種の平等だ。
ああ、また僕は……
正しいかも分からない理屈で、小世美が死なずに済んだ世界を想像している。
だからこそ、胸がこんなにも締め付けられ苦しくなっているんだ。
唇を強く噛みしめた狼に、強く海風が吹きつける。
まるで胸の内にある痛みを剥がそうとしているように。そして、狼の視界に、デンメンバーや傷の手当てを受けているフィデリオやセツナたちの姿が映る。
先ほどの幻術で見た世界を思い出す。
人は大切な物を失い、その悲しみを背負って歩いている。
アストライヤー制度ができたのは、戦争という暴力を抑制し、悲しむ人々を少なくするためだ。
今となっては、それが新しい火種となって世界中の戦火となっているのだから、どう仕様もない。ミイラ取りがミイラになったとは、まさにこの事だ。
この世界に絶対的な、唯一無二の敵がいれば……人々は一つになっただろう。
けれど、そんな都合の良い唯一無二の敵など現れはしない。
「私は、お兄様たちの考えは悪い考えだと思いません。けど、だから今すぐに消しましょうっていう気持ちにもなれない。……きっとこれは私の傲慢な執着ね」
今にも泣き出しそうな声で、ヴァレンティーネが狼にそう言ってきた。けれど、ヴァレンティーネは泣かずに、先ほどの様に狼に儚げな笑みを浮かべてきた。
そんなヴァレンティーネの顔を見ながら、狼は情けない表情で小さく呟いた。
「怪獣でも出て来てくれないかなぁ……」
けれど、それはただの叶わぬ夢でしかない。




