混沌領域
うっすらと目を覚ますと、綺麗な木目を描く天井と照明が名莉の視界に映った。
意識がまだぼんやりとしていた。
あの戦いからどのくらい眠っていたのだろう? 起き上がろうと身体を動かすが、妙に動きがぎこちない。
部屋には名莉以外、誰もいない。
「静か……」
名莉が小さく呟く。
あまりにも静かすぎて、自分がたった一人取り残されてしまったような、寂しい気持ちになる。これはただの嫌な夢想であって、現実ではないことは分かっている。
けれど、起きたばかりの名莉はひどく寂寞とした気持ちになっていた。
するとそんな名莉の部屋の襖がそっと開かれた。
自分の灰色の世界に鮮やかな色彩が戻ってくる。
「メイ! 良かった。意識が戻ったんだね……」
「狼……」
襖の奥から、安堵した表情を浮かべる狼の姿を見て、名莉は堪らなく嬉しくなった。
ああ、やっぱり自分の世界に真っ先に色をくれるのは、この人なんだと。
一度名莉の部屋を後にした狼は、心底ほっとしていた。
四日前の駐屯基地での戦闘で意識を取り戻していないのは、名莉だけだったのだ。名莉は大城時臣との戦いの時に、イザナミの認証コードを撃ち抜き、因子を放出していた。
藤華たちの見解によると、十数年の間に放出されずに体内に蓄積されていた因子を放出したことによる過度な負担が身体に掛かったということらしい。
けれど、それでも大城時臣を倒せたわけではなく逃げる隙を作っただけに過ぎなかった。だからこそ藤華も、
「時臣さんに、斬り殺されるよりはマシでしょう」
最後の言葉でそう締めてきた。この結果を見れば、確かにその通りだ。けれど狼は何となく落ちつかない気持ちになっていた。
これによって、また何かが起きそうな気がして、狼の中で不安は残る。
しかし、名莉が意識を取り戻したこと事態は喜ぶべきことだ。
メイに後でお粥とか、食べやすい物を作って持っててあげないと……。
狼がそんな事を思っていると、前から真紘がやってきた。
「あっ、真紘」
「名莉が起きたみたいだな。良かった」
「うん。でも……まだ少し身体の方も痛むみたいだから、安静にはしてて欲しいけど」
「ああ、そうだな。休める内に休んでおいたほうが良い。黒樹の方は、稽古の方はどうなんだ?」
「僕の方は……正直、良く分からないんだ。藤華さんはあまり、良いか悪いかの判断を口にしてこないから」
狼が微苦笑を浮かべながら、正直に自分の心情を口にする。勿論、狼だってすぐに稽古の成果が出ない事は分かっている。それでも狼が稽古の成果を早く掴みたいと思ってしまうのは、焦っている証拠だ。
自分たちが次の戦いに臨むまでに、あとどのくらいの時間があるのかという判断がし辛い状況で、自分は何もできず、指を加えて見ているだけなのはもどかしい。
目の前にいる真紘は、そんな狼の姿を見てゆっくりと口を開いた。
「今の黒樹の気持ちは、俺にも理解はできる。それこそ、俺も皆が戦っている傍らで、動かずにいるというのが苦手な方だ。輝崎の当主としては、あまり褒められたことではないが」
「そんなことないよ。真紘がこういう人だから、僕たちはいつも助かってるんだ」
「……気を使わせてしまったな。だが黒樹の言葉は凄く有り難かったぞ」
真紘が少し困った様な表情で微笑むと、そのまま狼の横を通り過ぎてしまった。通り過ぎた真紘を見て、狼は首を傾げた。
何故、真紘はあんな顔をしたのだろう?
「きっと、真紘にも色々考える所があるんだろうな……」
狼はぼそりとそう結論を吐いてから、友人の葛藤に何も助言できない自分がひどく不甲斐なく感じた。
名莉が起きてから、二ヶ月ばかりが過ぎた。一応、学校の方には無期限の休校届けを出している。
「僕たち、ダブルかもなぁ……」
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと学年末のテストにパスすればいいだけなんだから」
狼が呟いた言葉に、鳩子がケロッとした表情でそう答えてきた。
「えっ、流石にテストだけじゃ無理だろ。既定の授業日数とかもあるだろうし」
「狼君、明蘭を普通の学校と一緒にしちゃダメダメ。明蘭は学年制じゃなくて、単位制。しかも学校が定めるテストに合格すれば、進級はできるわけ。まぁ、言っちゃえば欧米諸国式なんだよね」
「なるほど。何かそれ聞けて少しは気が楽になったかも。今はこんな状態だから学校に行けないけど、やっぱりずっと学校に行かないのも気が引けてたんだ」
「まぁ、その進級試験の問題はかなり難しいけどね」
「……それについては、今は考えないでおくよ」
安堵したのも束の間、鳩子の言葉で顔をどんよりさせる狼。するとそこへ根津たちが部屋へと入って来た。
「あれ、狼? アンタ、今日の稽古は?」
「ああ。それなら……今日は夕方からなんだ。その、九卿家会議があるみたいで……」
「あはっ。そこであの馬鹿理事長を説得できれば楽なのにね」
「僕も心底、そう思うよ」
けれど、それは非常に困難であることも重々分かっている。なにせ豊に過半数の九卿家の当主が賛同しているのだから。
「でも、話合いがもつれて、斬り合いにならないかが心配よね?」
「あはっ。それはもう大惨事でしょ? 九卿家当主同士の争いなんて。それこそ、京都市内が焼け野原になっちゃうって」
「普通に笑えない事言うなよっ!」
焼け野原になった京都市内を想像して、狼は身体を身震いさせた。今もテレビのニュースなどでは国際防衛連盟と軍の衝突により、大打撃を受けたパリ市内の様子が映し出されている。
出流たちからの話によると、この事件にはイギリスのアーサーやフランスのホルシアなども関わっていたらしく、ホルシアにいたってはフランスの代表候補から除名されてしまったと聞いた。そして、この件にも、そして香港で起きた衝突にも、そして先にドイツで起きた衝突も豊が絡んでいるらしい。
アメリカの方でも、怪しい動きはあるらしいが……まだそれについての詳細は分かっていないらしい。
「本当に理事長って、何なのかしら……」
ニュースを見ながら、怪訝そうな表情で根津が溜息を吐いた。
「あの人は、きっと今の状況に善悪なんて考えてない。あの人の頭にあるのは、復讐のことだけ」
「……まぁ、メイっちの言う通りなんだろうね。そうじゃなきゃ、こんな馬鹿な事しないでしょ?」
「あはっ。擁護したいわけじゃないけど、でもあの馬鹿理事長の気持ちも季凛は分からなくないよ」
そう答えた季凛を、狼も含め名莉たちが意外そうな表情で見つめる。けれど、季凛は落ちついていた。
「だってそうでしょ? 季凛があの理事長と対立するのはさ、あいつが小世美ちゃんを殺したかもしれないからだよ。けど、その気持ちって、あの馬鹿理事長が抱いてる気持ちと一緒なんだよね。ただあの馬鹿理事長のそれは、周りを大きく巻き込むくらい際限がなく膨らんでったってこと。本当に迷惑で厄介」
淡々としゃべる季凛の言葉に、狼は思わず俯いた。
季凛の言葉に、今の自分は何も反論する事ができない。狼の中で、豊を許すことが出来ないのも事実だ。
すると、そこに今起きたばかりと言わんばかりの出流が部屋に入って来た。
「お前等、なに朝から葬式ムード全開になってるんだ?」
「いや、葬式ムードっていうか……ちょっと、感情論の話をしてて」
「また、朝からヘビーな話を。むしろ、感情論の話なんてやめとけ。話して行く内に収拾がつかなくなるから」
出流が欠伸をしながらそう言って、狼たちの話合いを切って来た。やや根津は話し足らない表情を見せていたが、狼としては正直、助かった。
この話をずっと続けていたら、それこそ自分の行く道に壁が出来てしまいそうな気がしたからだ。
「アメリカに行ってる、出流の仲間の人からは連絡来た?」
話を少し変える気持ちで、狼が出流に訊ねる。
すると出流が首を横へと振って来た。
「いや、まだないな。むしろ、オースティンの奴……一昨日の夜、楽しんでたみたいだから、まだ状況に変化がないんだろ」
「あはっ。マジか。あのアメリカ人、超余裕じゃん」
「久しぶりの学生生活で心が浮いてるんだろ? ったく、人に品がねぇー、品がねぇー、言ってる場合じゃないよな」
「むしろ、あの人……鳩子たちと同じく学生だったんだ」
「トゥレイターの人って、年齢が上手く読めないわよね?」
「いや、お前等にも言われたくないと思うけどな」
出流が急須に入っていたお茶を飲みながら、片目を眇めさせる。
おかげで空気が和んだが、それも束の間……物凄い勢いで廊下を走り、この部屋に向かってくる足音が狼たちの耳に聴こえてきた。
狼たちが慌ててやってくる大きな足音の方に目を向ける。
「ちょっと――! どういうことよっ!?」
襖を勢いよく開け、そう叫んできたのは欧州のⅪである、ジャンだ。
「いきなり、なんだよ?」
「なんだよじゃないわ! 何で、今日の変な会議にキリウス様が召集されるのよ?」
「さぁ。理由なら俺たちにじゃなくバカ殿たちに訊けよ」
「その子たちが居ないから、訊いてるんじゃない!! もしかして、私のキリウス様を野蛮な奴等の元に晒し者の縛り首とかにするつもりじゃないでしょうね? キリウス様の因子に制限が掛けられていることを良い事にっ!」
「……まぁ、俺的には別にそれでも……」
ガチャッ。
ジャンが鬼の形相で目に見えない速さで銃を取り出し、出流へと突き出す。
「冗談だよ、冗談。むしろ、制限を掛けられてるからって、あのキリウスがそう簡単にやられるわけないだろ? おまえ、愛しのキリウス様の力を侮るなって」
ジャンから銃を突き付けられた出流が、動じる様子もなくむしろ呆れた様子でジャンを見ている。するとジャンも「まぁ、確かにキリウス様はお強いけど……」と言いながら、銃を引っ込めてきた。
朝から発砲騒ぎにならなかったことに、狼もほっと胸を撫で下ろす。
それにしても……何で真紘たちはヴァレンティーネさんのお兄さんを九卿会議に連れて行ったんだろう?
むしろ、そんな大事な所にトゥレイターの実質的トップでもあるキリウスを連れて行くこと事態に驚きだ。
狼がそんな事を悩んでいる間に、ジャンたちの話が別の話へと切り替わる。
「じゃあ、キリウス様に害はないってことで、一旦気持ちを落ち着かせるとして……私、イズルに訊きたい事があったんだけど、いいかしら?」
「なんだよ?」
出流がジャンの言葉に不穏な陰でも見るかのように、煙たい表情を浮かべる。そんな出流の前にジャンが座り込み、両手で頬杖をしながら……
「ミサオとはいつ寄り戻すの? まさか! ミサオを振って、あの阿婆擦れ女を選ぶとかないわよね? あー、でも私とキリウス様の恋路の為には、ヴァレンティーネ様の首も繋いどいて欲しいし……ねぇ、ねぇ、どうなの?」
予想外の質問に、お茶を飲んで咳き込む出流。するとその隙に鳩子と季凛がジャンの隣へとやってきた。
「あー、それ鳩子ちゃんも気になる、気になる」
「あはっ。季凛ちゃんも」
うっふんと言わんばかりのジャンの隣に、ジャンと同じポーズでニヤける鳩子と季凛。
咳き込む出流が横目で三人へ怪訝な視線を送る。
「……お前らさっきまで、肩落として葬式してたくせに。いきなり元気になるな」
「えへっ。やっぱどんな時でも女子高生の心は忘れない的なね。あはっ」
「そうそう。かなりの粒揃いだからね。選ぶのは大変だよねー」
「どの人も綺麗で素敵だと思う」
「いきなり、ピンクまでここぞとばかりに入ってくんな」
「うふっ。もうイズルったら照れちゃって~。可愛いわね。でも安心して。人の気持ちを知るのは好きだけど、誰かに話すことはしないわ」
「ジャン、おまえ面白い事言うな? これだけギャラリーいるのに誰に話す必要があるんだ? 誰にっ!」
「あはっ。まさかの裏ボスで誠さん投入とか、どう?」
「いやぁ、季凛それはかなり混沌領域だから。さすがの鳩子ちゃんでも先読みできなくなっちゃうじゃん」
「お前等は……俺のどんな事を先読みしようとしてんだよ? むしろ、お前等が先読みすべきは、他にいるだろ!」
ジャンたちにジリジリと追い詰められた出流が、危険回避をするように狼へと視線を向けてきた。
「えっ、ここで僕に変なサーブを打つなよ!」
「いや、お前があまりにも『僕には関係ないですよ――』って顔してたから」
「してないよ」
「してただろ。完全に!」
「いや、本当にしてな……い」
出流に反論しようとしていた狼に鳩子、根津、名莉、そしてジャンに季凛の視線が突き刺さってきた。
ヤバい、これは完全に標的をすり替えられた……。
狼はそう思いながら、生唾を飲み込む。
「あっ、そうだ。僕、気分転換に外でも散歩してこようかなぁ……」
うっすら額に汗を浮かばせながら、狼が視線を名莉たちから逸らす。けれど、その瞬間いつの間にか立ちあがった出流が狼の肩を叩き、
「じゃあ、お先に」
と言って、狼を部屋に残し我先にと戦線離脱していった。
「ちょっと、待て。出流! 卑怯だろ!!」
部屋を後にした出流にそう叫ぶが、それで出流が戻ってくるはずもなく……まるで刑事ドラマの被告人のように、訊ねられる質問に小さくなりながら黙秘するしかなかった。




