その影は1
希沙樹は至福の一時を過ごしてた。
場所は、明蘭学園近くにあるカフェのテラス席。東京湾に近いこのカフェのテラス席からは、海が見え、穏やかな時間を過ごせる。
そして希沙樹の目の前には、店の拘りが詰まったダージリンと生クリームとバニラの芳醇な香りの詰まったカスタードクリームを混ぜ合わせたクリームの入ったエクレア。生地の表面には、まろやかな口どけのミルクチョコレートが掛かっている。
希沙樹はしばしの休息を取りたい時にここに来て、この二つを楽しむのだ。
普段の希沙樹は、食べ物を食べる時……大口を開けて食べたりしない。
けれど希沙樹は、大好きなエクレアを食べるときだけは……ナイフやフォークを使わず食べることを好んだ。
なんとなくだが、直接口に運んで食べた方が美味しい気がするのだ。
だから、希沙樹はこのカフェでエクレアを食べるときは、周りに人がいないかを入念にチェックして食べていた。
界隈を見ても、自分が見知った顔ぶれはない。殆どの人々が各々の時間を楽しみ、他人に感けていることはなかった。
今日も、安心して美味しく食べられそうね……
希沙樹はほっとしながら、目の前のエクレアを口許へと運ぶ。エクレアの表面にかかるチョコレートの良い香り。内心でうっとりしながら、そのエクレアを一口頬張った。
口の中に、一気に二種類のクリームが広がり下の上にこの上ない幸せを運んでくれた。
二つの甘みと、カスタードクリームのバニラの香りに包みこまれる。
そして、その幸せをじっくり噛みしめた後……これまた香りの良いダージリンを飲む。
こんな姿を誰かに見られたくはないけれど、この幸せな日課をやめることはできない。
でもこれで、また明日も自分らしく頑張れる。
この時の希沙樹はそう思っていた。
寮の自室にいた季凛はとある一枚の用紙を見て、陰鬱な表情を浮かべていた。
体脂肪率が上がってる……あはっ。マジ意味分かんない。
明蘭では、普通の学校よりも健康状態を診断する事が多い。そのため、この嫌な紙を貰う機会も多いのだ。
前に測定したときよりも数パーセント、上がってる。
もしや、また胸が成長したということだろうか? もしそうだとしたら、最悪だ。これ以上の大きさを季凛は望んでいない。それこそ、貧乳であることを気にしている鳩子たちに分けたいくらいだ。
「よし、見なかったことにして……さっさと燃やしちゃおう」
季凛がソファから立ち上がって、因子を使って診断表を燃やそうとする。けれどそんな季凛に、同室になった黛薫子が止めてきた。
「そういうのは燃やしたり、捨てない方が良いと思いますよ? 人生、何があるかわかりませんから」
やや身を竦めさせる薫子は、可憐な雰囲気の漂う大和撫子だ。使用する武器は短刀なのだが、普段は汎用型の木刀を使用している。薫子いわく、本物の刀は九卿家関係者でなければ使えないらしく、その規則を守っているらしい。
薫子の実力は、二軍の中では上位に入るのだが、根津と同じ理由で二軍落ちしている。
やや口下手ではあるが、特に季凛との衝突もなく良好的な関係を築いている。
「え――、別に大丈夫じゃない? 季凛たち普通の人より頑丈だし。あはっ」
「駄目ですよ。念には念を、です。それにこういうのって誰に見られるものってわけでもないないと思います」
「じゃあ、薫子ちゃんの体脂肪率はいくつ?」
「えっ! た、体脂肪率ですか……?」
顔を赤くして動揺する薫子に、季凛が蠱惑的な笑みを浮かべる。
「そっ。別に女子同士なんだし、教えてくれても良いんじゃない? あはっ」
季凛が薫子に近づいて、薄着姿の薫子の背中をそっと指でなぞる。
すると顔を真っ赤にした薫子が、びくっと身体を震わせ小さく声を漏らしてきた。
「あはっ。薫子ちゃん、やらし――――!!」
笑う季凛にやや泣き目の薫子が、恥ずかしそうに振り返る。
「もう、私で遊ばないで下さいっ」
口ではそんな事を言いながらも、満更でもなさそうな薫子。
「あはっ。前々から思ってたけど、薫子ちゃんってMッ気あるよね? からかわれると嬉しいタイプでしょ?」
「えっ、別に私はそんなつもり、全然なくて……でも、私ってそんな風に見られてるのかな? ああ、何か恥ずかしくなってきました」
「はい、はーい。それでいくつなの?」
「やっぱり、さっきの質問には答えないと駄目なんですか?」
「当たり前でしょ?」
季凛が再び小動物を追い詰めるハンターの視線で薫子を見る。すると、逃げられないと思ったのか薫子が、小さい声でぼそりと答えてきた。
「1……9……%です」
「はっ?」
思わず季凛が薫子の言葉に目を瞬かせる。季凛に見られている薫子は恥ずかしそうにモジモジしながら視線を下げているだけだ。
そんな薫子の身体を季凛がマジマジと見る。形の良い胸はある。推定C。つまり、貧乳でもなく巨乳でもない。ある意味、一番需要があるベストなサイズ。
確かにお尻は小さいが、別にそんなことを気にする輩はあんまりいないだろう。むしろ逆よりは全然、良い。
「やばっ。季凛、なんだか眩暈してきた」
「えっ、えっ、えっ、何でですか?」
「あーー、もうヤダー。季凛ちゃんのモチベーションかなりダウン」
自分のベッドに寝転がりながら、季凛は深い深い溜息を吐いた。すると、薫子が慌てた様子で、必死に季凛を励ます言葉をかけてくる。
あまりにも必死な姿に、もう少しからかいたくなる気持ちもあるが、やめておく事にした。
やや的外れ的な事も言っているが、自分を励まそうとしてくれているのだから。
「まっ、いいや。季凛、お風呂入ってこよーー」
「あっ、私も行きます」
ベッドから立ち上がった季凛が薫子と共に大浴場の方へと向かう。二軍の自室にもシャワーはあるが、やはり大浴場の方が疲れは取れるからだ。
けれど、季凛はこのとき部屋を留守にしたことを心から後悔した。
剣術の稽古を終えたセツナは、自室で身体を解すストレッチをしていた。剣術の稽古が終わった後の日課だ。
「セツナ、ストレッチするのは良いけど……下着姿は止めた方が良いんじゃない?」
ストレッチをするセツナにそう言ってきたのは、机で学校の課題をしているマルガだ。アクレシアは、デトレスからの通信で部屋を出ている。
「どうして?」
「どうしてって、セツナも女子なんだから恥じらいは思った方がいいってこと」
「でも、ここにいるのはマルガとアクレシアだし。ここは女子寮だから大丈夫じゃない? それにどうしてもストレッチをする時って、身軽な格好になりたくなるんだよね」
「もう、そんな事言って……まさか家でも同じ格好をしてたの?」
「勿論! 自分の家だし!」
屈託ない笑みでセツナがマルガにそう答えると、マルガが頭を抱えてきた。
「フィデリオが部屋に来たらどうするの?」
「んー、今までそういう事がなかったから、あんまり深く考えてなかったなぁ」
「もうセツナって、本当に無防備っていうか、警戒心が薄いんだから」
「えへへ」
呆れる友人に、セツナは苦笑を返す。
でも確かにマルガが指摘することは正しい。フィデリオの家とセツナの家は、ほんの二〇〇メートルくらいしか離れていない。両親同士も親しいということもあって、フィデリオとセツナは、基本的にお互いの家に行きき自由という環境だ。
確かに、自分がストレッチ中にフィデリオが部屋に入ってきてもおかしくはない。
それを考えると、私ってマルガの言う通り何も考えてなかったなぁ。
「反省しなくちゃ……」
「あ――――――!! セツナ!!」
反省の表情を浮かべていたセツナを、マルガが驚いた顔で指差してきた。けれどマルガの視線はセツナの顔ではなく、別の所に向けられている。
「マルガ? 何、見てるの?」
首を傾げながら、セツナが自分の身体を見る。けれど可笑しい部分はない。それなのに、どうしてマルガは驚きながら自分の事を指差しているのだろう?
「ちょっと、セツナ! 分かんないの?」
信じられないと言わんばかりの表情で、口許をワナワナとさせているマルガ。そんなマルガにセツナがコクリと頷く。
「もうっ! セツナのパンツの腰の部分! 虫食いみたいな穴空いてる!!」
「ああ、これ? いつの間にか空いちゃったみたいなの。でも穴も小さし。腰の部分だから大丈夫かなって。それに誰にも見られないし」
「全っ然、大丈夫じゃないっ! どこの世界に穴の空いたパンツ穿いてる女子高校生がいるのよっ!」
「えーっと、ここに?」
セツナが苦笑しながら自分を指差す。すると椅子から立ち上がったマルガがセツナの元に近寄って来て、額にデコピンしてきた。
「地味に痛い……。そんなに怒らなくてもいいのに」
「あのね、物を大切にするのは良いけど……パンツに穴が空いた時点で、それは壊れたも同じなの。どうしてもそれを穿きたいなら、穴を隠すとかしないと」
「裁縫とかって苦手だからなぁ……」
「だったら、新しいのを買う。ちゃんと自分の身に着けるものに気を使わないと! こんな様子を見られたら、フィデリオとかマヒロに幻滅されちゃうから」
「ええっ!?」
セツナが口許に手を当てながら、愕然とする。その所為で、マルガが小さく呟いた「まぁ、あの二人だったら気づかないかもしれないけど」という言葉も聞き逃してしまった。
セツナはもう一度、穴の空いたパンツを見る。
誰にも見せるわけじゃない。そう思って、まだまだイケると思っていた。
でも、フィデリオやマヒロにこの下着を見られたら……
自分を幻滅したように見る二人の姿を想像して、セツナを身を震わせた。
「確かに、駄目だね」
「分かった。じゃあ……その穴空きパンツは今日でさよなら(チュース)だからね」
「うん、うん。そうする!」
セツナは頷いて、この穴空き下着と決別する決意をした。
でも、やっぱり捨てると言っても洗ってから捨てた方が良いよね? そう思いながらセツナは通話を終えて戻って来たアクレシアと共に、部屋着を着て大浴場へと向かった。勿論、穴の空いていない下着を持って。
まさか、この穴空き下着が後で、とんでもない事態の火種になるとも知らずに。




