求められる当主①
自分の父である忠紘の死を目の当たりにしたのは、奇襲を受けた日の夜が明けた次の日だった。血だまりの中で倒れる忠紘の姿は、今でも脳裏に焼き付いて離れない。
そして、その日に真紘は輝崎の家督を継いだ。
もちろん、満場一致の意見として真紘が当主に選ばれたわけではない。分家の中には、真紘の年齢では、まだ当主になることは不可能だと言い切る者もいた。
分家の中には、真紘よりも経験を積んだ者がいる。けれど、本家の人間は頑なな態度で真紘が家督を継ぐことを押し切った。
本家の立場からすれば、分家に地位を奪われるのが釈然としないからだ。
けれど、自分の尊敬する父の死から真紘は、まったく立ち直れていなかった。日々が目まぐるしく過ぎ去って行く。学校にも行けない日々が続いていた。まず、当主が変わることを公家や、関係者たちの元へ、顔見合せということで色々な所へと出向かなければいけない。
真紘は忠紘を失った傷を負いながら、そんな日々を過ごしていた。
真紘が考えるのは、あの時自分があの場所にいなければ……という深い悔悟だ。考えてもそこに何の意味はないと分かっていても、考えずにはいられない。
「ご安心ください。真紘様……私は貴方の懐刀です。どんな事からも貴方をお守りします」
意気消沈していた自分に誠がそう言ってくれた。そして、そんな誠に自分は縋りつくように、彼女を抱いたのだ。
最低な事だとは思った。けれどあの時の自分はひどく弱っていて、誰でも良いから誰かの温もりを欲していた。いや、ただその頃の自分は、誠やそれこそ左京に強いシンパシーを感じていた。彼女たち二人も、自分と同じ日に父親を失ったのだ。だからこそ、二人といる時は、心が幾分落ち着いた。けれど二人も自分たちの家の事がある。この時ばかりは真紘の所にずっと付いているわけにもいかなかった。
一カ月が経っても、真紘取り巻く環境は依然として変わらない。
周りはせかせかと焦り、自分はただその急流に呑まれていくだけだ。自分の意思などまるでない。どこで出せば良いのかも分からない。
本当にこんな自分が忠紘の後を継いでいいのか、ずっと苦悶していた。
俺は父のようになれないかもしれない。
この不安ばかりが真紘の頭を苛む。けれどその苦しさを吐き出すことが、出来なかった。
「真紘様、次に向かう場所は、輝崎家と長く親交のある梨園の家です」
「ああ、わかった」
父の代から補佐を行っている男が、真紘に次の予定を簡単に説明してきた。真紘はただそれに頷く。時間は全てこの男が用意した通りに動く。
この通りに動けば、真紘は間違いを犯さずに済む。
車は一件の屋敷の前に停まった。門先には輝崎の当主である自分を出迎える者たちが列になっていた。
「よく起こし下さいました。真紘様」
真紘に最初に頭を下げたのは、この家の妻である女性だ。その横には自分より幼い少年がおり、その横に姉らしき少女の姿があった。
二人とも行儀良く、律儀に自分へと頭を下げてきた。
真紘も軽く反応を取り、招かれる通りに門をくぐった。家の前にはよく手入れの息届いた日本庭園があり、黒松や赤松、椿などが植えられている。
真紘が通された部屋は、そんな庭がよく見える客間だった。座敷に通されるとすぐに、美しい挙措で抹茶を茶筅で立て、真紘の前にそっと茶碗を差し出して来た。
「厚かましい質問ではございますが、御家の方は少し落ち着きましたか?」
などと、皆同じ質問を訊ねてくるのだ。
もう何度目になるか分からない質問を、これまた何度目になるか分からない答えを繰り返す。
ふとそれを考えたとき、真紘は少し味気ない感覚に教われた。だから、いつもとは違う答えを返そうと思った。
「はい、今は先週までよりは大分落ち着きました。ご心配ありがとうございます」
いつもなら、「まだ家の方は立て込んでおりますが、直に治まると思います」という受け答えだ。だからこそ、今の真紘の答えを聞いた、補佐役の男が鋭い視線を真紘に投げて来た。けれど真紘はそれに動じず、素知らぬ顔で出されたお茶を口に含む。
「左様でございますか。なら、もし御当主様が宜しければ、今晩はこちらにお泊まりになられたらいかがでしょう? 是非、御当主様に私どもの舞台を見て頂きたいですし」
「いえ、そちらは……」
「是非、そうさせて頂きます。楽しみです」
割って入ろうとした補佐役の男の言葉に重ねるように、真紘が奥方の言葉に頷いた。
繰り返される動きに反旗を翻せたことに、真紘は微かに喜びを感じていた。これが単なる我が儘だとしても、真紘は繰り返しの行動に飽き飽きしていのだ。
まだ若いとはいえ、真紘は本家が認めた輝崎の当主だ。
そのため、当主が決めたことを、補佐役だからといって覆すことはできない。それが真紘に提案を出して来た奥方も分かったからこそ、喜びの表情を浮かべている。
まるで最高の観客を招き入れ、手柄を上げたような様子だ。
おかしな話だな……。
歓喜する奥方を見ながら、真紘はふとそんな事を思った。
九卿家の当主は、確かに大きな権限を持っている。この権限は公家から直々に与えられた物であり、例え内閣府の人間であろうと安易に反発することができない立場だ。
とはいえ、この家は由緒ある梨園の家だ。つまり歌舞伎の道を極める家であり、九卿家と繋がった所で何の得にもならないと思っていた。
しかし、この喜び様だと何かしらの恩恵があるのかもしれない。
まだ、真紘は輝崎の当主が持つ影響力を熟知しているわけではない。だからこそ、大人たちの見せる反応がいまいち、分からなかった。
「御当主様、この部屋にずっとおられるのも退屈でしょう。どうぞ、稽古場の方もご覧になって下さい。不束ながらご案内させて頂きますので」
「ええ。是非」
微笑んで来た奥方に、真紘も微笑んで返した。
今の自分を取り巻く状況から逃げられるとは思わない。けれど、少しでも今の状況から目を背けたいという淡い思いが真紘の中にあった。
輝崎の当主である自分が、逃げたいと思うのは愚かな事なのだろうか?
いや、きっと愚かであるに違いない。
真紘は自分の中で、そう結論に至る。もちろん、表情にはおくびにも出さない。出しては行けない。自分は輝崎の当主として冷静でなくてはいけないからだ。
真紘は奥方に進められるまま立ち上がり、家の敷地内にあるという稽古場の方へと向かった。
稽古場近くになると、中から舞台の練習をしているらしい物音や声が聞こえてきた。
「今は菅原伝授手習鏡の寺子屋という演目です。ご覧になったことはございますか?」
「はい、一度だけ」
真紘はそう言いながら、稽古場内に視線を向けた。稽古場には十歳になるか、ならないかくらいの少年が着物を来て、松王丸の一人息子である小太郎を演じている。
確か、この演目は三兄弟で唯一、管丞相の敵である藤原時平に仕える松王丸が、敵に付いたことを報いるため、自分の息子を源蔵の息子である秀才の身代わりに殺させるという話だ。
真紘は、この演目を初めて見たときは理解に苦しんだことを覚えている。
松王丸の勝手で首を切り落とされた小太郎が不憫だとさえ思った。
しかし輝崎の当主となってみて、ほんの少しだけ松王丸の気持ちが理解できてしまったからだ。
本当は、自分の息子を身代わりなどにはさせたくなかっただろう。けれど松王丸は様々な葛藤の末に、小太郎を身代わりにすることを決めたはずだ。
自分が妹である結納を一条家への養子に出すことを決めたときのように。
あの時から結納は、自分の家族ではなくなった。妹ではなくなった。
自分が離れへと会いに行く度に、心底嬉しそうにする妹の顔はもう見られないのだ。けれどそれは自分に対する当然の報いだとも思っている。
なにせ、自分の所為で父である忠紘は命を落としてしまったのだから。
忠紘の死について、誰も真紘を責め立てる者はいなかった。むしろ、真紘も被害者であること、皆が首を揃えて頷いてくる。
けれど、真紘自身はそうは思えない。あの場にいた自分だからこそ、そう強く思う。
俺が父を、殺したのも同然だ。
だから、本当は俺が輝崎の当主になるべきではないんだ。
真紘は自然と握り拳を作り、きつく握っていた。
気がつけば、演目の稽古は終了していた。真紘は、奥方の進めで先に風呂に浸かり、夕食を取った。
部屋に布団が敷かれ、真紘はすぐに横になる。
けれど一向に眠りは訪れない。部屋の外では季節外れの強風が庭先の木々を揺らしていた。障子越しに、暗い影が映る。
真紘は思わず息を呑んだ。
忠紘が殺される直前、障子越しに映った人影。驚くほど残忍な光を放つ刃。全てが真紘の脳裏にこびり付いている。
父ではなく俺が殺されるべきだったんだ。
真紘の中で、この思いはあの日からずっと心の中に蠢いている。自分が生きていることが呪わしい。
けれど、どんなに自分の事を呪わしいと思った所で、自分が生きているという現実が変わるわけではないのだ。
真紘は布団から身を起こし、部屋を出た。
特に行きたい所があったわけでもない。けれどあの場でじっと寝ていることが出来なかった。だから、ほんの少し外の風に当たるつもりで、外に出たのだ。
不快な気持ちにさせる強い風も当たってしまえば、そうでもない。
真紘が部屋を出て、縁側に無心のまま立っていると……奥の方で微かに物音が聴こえてきた。真紘ははっとして、物音が聴こえた方へと視線を向ける。
心臓が妙に早く鳴った。
真紘の中であの時のことが、否が応でも想起される。
ここは自分の家ではない。輝崎の家を奇襲した者がやってくるはずがない。そう自分に言い聞かせながらも、真紘は物音がする方へと足を進めていた。
どんどん物音がする方へと足を進めて行くと、行き着いたのは風呂に入る前に見た稽古場だ。
誰かが稽古でもしているのだろうか?
真紘はそう思いながら、そっと稽古場の襖をそっと空けて覗き見た。
するとそこには、着物を来た少女が演目の練習らしきことをしていた。光の加減で、少し青っぽく見える紺色の髪が、動きに合わせて揺れている。身体の動きはしなやかさで、丁寧にその演目の役を演じていることが一目でわかった。
きっとこの少女は芝居が、本当に好きで、好きで堪らないのだろう。
しかし歌舞伎の舞台に女性は出られないはずだ。
だから、少女が演目の稽古をした所で意味はない。
それにも関わらず、何故あの少女は演目の練習をしているのだろう?
真紘は稽古場で一人、練習する少女の姿に純粋な興味と疑問を抱いた。
「何故、こんな夜遅くに一人で稽古している?」




