使えない下僕
メリーヌも口を噤んだまま、視線を下げて俯いている。
「メリーヌ、そんな悲しげな顔は君に似合わないぜ? ほら、何事も上手く行くようにどんな時でもスマイルっていうのは大切だ」
席から立ち上がったベルバルトが顔を下げるメリーヌの頭を優しく撫でる。するとメリーヌが顔を上げて、小さく笑みを浮かべてきた。
「そうだ。いいぞ。さて、と……もうそろそろ移動するとするか」
「移動? どこへ?」
「勿論、国際防衛連盟にさ」
再びメリーヌの表情が不安の色に染まる。ベルバルトはそんなメリーヌに優しい声音で告げた。女性にこんな顔をさせてはいけない。特にメリーヌのような愛らしい女性には。
「安心してくれよ。まさか俺だって元とはいえ、あそこに正面からの出入りはちとキツイ。だから正面から行くようなことはしないからさ」
「それじゃあ、国際防衛連盟に潜入するってこと?」
「ああ、そうだ。丁度向こうに俺の間抜けな下僕も手配させておいたから、忍び込むのは簡単だと思うぜ」
不安げな表情のメリーヌにウィンクを飛ばし、ベルバルトは歩き始めた。まだベルバルトの方に準備が整ったという連絡は入っていない。
あの野郎、やっぱ鈍いぜ。
ベルバルトは少しずつ暮れ始めている空を見ながら、気持ちを辟易とさせた。
アーサーが目を覚ますと、洋間のような部屋で椅子に座らせられ、腕を後ろに手錠を掛けられていた。もしや……と思いアーサーが腕の方に因子を流す。
……因子が消されているわけではないが、うまく因子を流すことができない。これが噂で聞いたゲッシュ因子を抑制する兵器なのだろうか?
正直、英国紳士の自分からするとあり得ない待遇だ。しかし先ほどの戦闘で開けられた胸の傷は、促進剤でも打たれたのかすでに塞がっている。
だがそれもそのはずだろう。ガスパール率いるフランスの国際防衛連盟は、自分を暴徒化した敵を静めるための交渉材料にしているのだから。
ここでずっと縛られたまま座っているわけも行かないが、これはチャンスでもある。
「さて、テロリストの対面する前に……私も準備は必要だな。君もそう思わないか? ホルシア?」
アーサーが部屋の壁際に立っていたホルシアに声を掛ける。
するとホルシアが厳しい表情をしながら、ゆっくりとアーサーへと近づいてきた。
「……不毛なことを訊く。私を恨んでいるか?」
「私が君を恨んでいるように見えるかな?」
「いや……。だがこの状況では恨んでもらった方が良かった」
ホルシアが自分から視線を逸らし、そう言ってきた。苦虫を噛み潰したようなホルシアにアーサーが肩をすくめさせる。
「では一つ、君とメリーヌとの間に何があったのか……それを教えて欲しい」
アーサーの質問にホルシアが沈黙する。
やはり、ホルシアはメリーヌとの事を口外する気はないらしい。アーサーの中で何とも釈然としない気持ちになる。
今のこの状況は、ホルシアが望んでいるものではない。それくらい分かる。ホルシアはあの夜、涙を流していた。
自分に助けを求め縋るように肌を重ね、泣いていた彼女は、フランスの代表候補のリーダーでもなければ、国際防衛連盟の副隊長の妹でもなく、普通の少女だった。悩み苦しむ少女だった。
できるなら、ただ純粋に思い悩む少女であるホルシアを救いたいと思った。
ベルバルトではないが、目の前で泣く女性がいるなら涙を拭うのが紳士的だろう。
「ホルシア、君に一つだけ言っておきたい。私は君を信じているよ。君自身で決めた君の決断を」
無言のまま部屋を出て行こうとしていたホルシアの背中に、アーサーが言葉を掛ける。するとホルシアが少しだけ足を止め、
「憶えておく」
と言って部屋を去ってしまった。
ホルシアが去った後、一人部屋に取り残されたアーサーに大袈裟な溜息が聞こえてきた。
溜息が聞こえたバルコニーが見える窓の方へとアーサーが振り返る。
「君に溜息を吐かれるような事をした覚えはないと思うが?」
「溜息を吐きたくなるだろうが。他の男が女を口説いてる現場を見せられたら」
「口説いているつもりは、ないけどね」
「冗談言うなよ。俺の耳にはどう聞いてもおまえがホルシアを口説いているようにしか思えなかったけどな」
「君たち兄弟は、本当に思考がそっくりだ」
「俺を兄貴と一緒にすんなよ。俺はあいつより教養が備わってるんだからな」
片手を広げながら、窓横の壁際から出てきたイタリア代表候補のバリージオを見て、アーサーは短く息を吐いた。
「それで? お兄さんより教養の備わっている君は、これからどうする気かな?」
「そんなもん決まってんだろ。まずは……」
バリージオが鼻歌を歌いながら、アーサーへと近づき情報端末に搭載されているカメラで写真を撮り始めた。
「こんな素晴らしい光景を、写真に収めるに決まってんだろ?」
本当にこの兄弟は、碌でもないことをよく考えるものだ。
「紳士的じゃないな。いや、もう呆れるしかないレベルだ」
「へっ。何とでも言えよ。……ああ、そうだなぁ。この素晴らしい写真を『生贄』っていう名前で美術展に出品するっていうのもアリだな」
先ほど撮った写真を見ながらバリージオがせせら笑いを浮かべてきた。さすがのアーサーもこれには、怒りが込み上がってくる。
もし、腕に嵌められている手錠がなかったらバリージオごと情報端末を破壊していたことだろう。
自分を見ながら笑うバリージオも、アーサーが放つ殺気に気づいているはずだが、動じる様子はない。むしろ楽しんでさえいる。
「まったく、君たちと手を組むことが今の私にとって最大の不運だと思うよ」
「あー、俺だっておまえと手を組むなんてやりたくねぇよ」
「じゃあ、どうして君はここに来たんだ? まさか兄の言う事を聞くような男ではないだろ?」
「当たり前だろ。俺は俺の責務を果たしに来ただけだしな」
「君に責務?」
割と真剣に首を傾げさせる。バリージオとの間に生まれた少しの沈黙の間に、アーサーはバリージオの責務を考えてみる。
「……すまない。女性を口説くこと意外で君たちの責務というものが全く想像できなかった」
「てめぇ。このまま椅子ごと切り刻むぞ」
本当に苛立ったのか、空気中にバリージオの因子の気配が混ざる。けれど焦る事はない。その気配もすぐに止んだからだ。そしてそれと同時に、自分の腕に嵌められていた手錠が跡形もなく粉砕されている。
「どうやら、君に貸しを作ってしまったみたいだな」
手錠ごと腕を切り落とされていないかを確認する。しっかりと腕はついている。ただ動脈が通っている丁度真上が切れているのは、完全に故意的なものだろう。
素直に人を助けないところが、しっかりとしている。
「君の得意なその糸で、この部屋の外に誰かが来ないか見張っていてくれないか?」
「俺に指図すんじゃねぇー。てめぇが何をしようとしているかは知らないけどな……俺にもてめぇにもここで悠長なことをしてる暇はねぇーんだからな」
バリージオの投げやりな言葉の意味が分からず、アーサーが怪訝な表情でバリージオを見る。
「イギリス、フランス、アメリカの参加国の軍がシェア開発した新型兵器が、ここパリで試験運用される。パリの国際防衛連盟の標的にな」
「新型兵器だと? アムステルダムで使用された物か?」
「いいや、それよりももっと大きい物だよ。噂によるとその兵器一発で軽く500人は殺せるらしいぜ?」
口調はあっさりだが、さすがのバリージオの顔にも剣が宿る。そして話を続けた。
「さっき部屋を出て行ったホルシアもそっちに向かったんだと思うぜ?」
「なに?」
一瞬、アーサーの顔に困惑の色が浮かび上がる。そんなアーサーにバリージオが片眉を上げた。
「なんだ? おまえ……ここがパリの国際防衛連盟だと思ったのか?」
「……ああ、そう思っていた。違うのか?」
未だに信じられず再度、訊ね返す。するとバリージオが頷いてきた。
「ここは、パリから一時間くらいの所にあるラヴァル家が所有する別荘だ。お前が意識を失った後、ホルシアがおまえをここに連れてきたんだ。それこそ、巻き込みたくなかったんだろ。どこぞの間抜けな貴族を。自分の兄の目を欺いてまで。まっ、兄貴は死んでも良い判定されたみたいだけどな」
冗談混じりで笑うバリージオを横に、アーサーは言葉を失っていた。
まさか、ホルシアが……そんな思いしか浮かばない。ホルシアは自分に厳しい。だからこそ、任務に私情を挟むことはなかった。ホルシアには騎士としての誇りがある。
彼女の誇りは遠い過去の負い目からなのかは分からない。しかし、彼女は理想の騎士を目指していたのは確かだ。それこそ確固たる決意で。
けれど彼女の確固たる決意は揺らいだ。揺らがせてしまった。アーサーはアーサーなりにホルシアの決意を知っている。
心の奥底からホルシアに対して、申し訳なさが積もる。しかしアーサーはその気持ちを、静かに噛み潰す。
「行こう。このままだと彼女を助けることができなくなりそうだ」
バリージオが横目でアーサーを見る。そして再び視線を逸らして……
「おまえに言われなくても行くっつーの。むしろ、俺の責務は健気なホルシアを下品な軍と不甲斐ない英国貴族から助け出すことだ」
「なるほど。納得したよ」
アーサーが険しい相好を崩して笑みを浮かべる。
もうこの男が言うように迷っている暇はない。いつまでも愚図愚図と迷っているなんて紳士さに欠ける。
笑ったためか、先ほどまで胸にあった物が軽くなっている。これなら、大丈夫だ。自分はいつもの自分で戦える。
口許に静かな微笑みを浮かべながら、アーサーが先に歩くバリージオに向けて声をかける。
「さっきの貸しは、この戦いが終わったときにでも返すが……一つ聞きたい」
「なんだよ?」
「君は何故ここがラヴァル家の別荘だと知っている?」
アーサーがそう訊ねると、一瞬動きを止めたバリージオが口笛を吹きながら自分の質問を誤摩化し始める。
やれやれ……どうやら兄弟揃って嘘が苦手なようだな。
我が物顔でホルシアの別荘を歩くバリージオを見ながら、アーサーは前に下がった髪を後ろに払った。




