自分の方針
雨生の技が決まった瞬間……万姫は息を飲んでいた。
浩然が縊鬼を習得していたことにも驚きだったが、その技を凌駕した雨生の強さにも驚いたからだ。雨生が見せた鳳凰を見た瞬間……全身が震えた。
けれどその震えは徐々に収まりつつある。雨生が足を失い倒れた浩然へと近寄る姿を見て、万姫を別の緊張が支配したからだ。
自分たちの関係を歪めたあの事件の真相を雨生は浩然から訊き出そうとしていることがわかったからだ。
万姫は、横に横たわり小さな呼吸を繰り返している紫薇を見た。
唇をぎゅっと噛む。不思議なことに万姫の中で紫薇に対する怒りはない。もちろん、裏切られたという痛みはある。けれど怒りが出てこない。
ただその痛みの中に、これまでに中国代表候補として戦ってきた記憶が脳裏を掠める。
心のどこかでほっとしていた。気持ちが複雑に絡み合っていた。こんなに多くの感情が入り乱れるとは思わなかった。怒っていたのに、敵だと思ったのに、許さないとおもったのに。
それなのに、自分は涙を流してしまいたいほどホッとしているのだ。
でもまだ涙は流さない。まだ自分には知らなければならないことがあり……これから中国代表となる武万姫なのだから。
「その時は、精々……アンタにも付き合ってもらうわよ。紫薇」
横たわる紫薇にそう静かに言葉を吐き捨て、万姫は早足で雨生たちの元へと向かった。
万姫が雨生たちの元に向かうと、雨生が因子の熱で浩然の傷口を焼いて止血していた。傷口を焼かれているとき、微かに浩然が痛みで表情を歪めている。意識はまだあるようだ。
「念のため聞いておくが……この期に及んで舌を噛みちぎって死ぬってことはしないだろうな?」
雨生が浩然の上半身を支えながら訊ねる。すると浩然が疲労感を滲ませた表情を浮かべてきた。
「ご安心を。今の私には舌を噛みちぎる程の体力も残っていません。体力の消耗が激しい技を連発して使いましたから」
「では舌を噛めない間に、俺の質問に答えてもらう。まずおまえと雪華の関係は本当に兄妹なのか? 俺は雪華から兄がいるという話を聞かなかったが?」
「本当です。私と雪華は正真正銘の兄妹。ただ私たちが物心つく前に、雪華は周家に養子縁組として出されてしまい、お互いの存在を知ったのは、私が武家の門下生になってしばらく経った頃でしたが……」
浩然が表情に深い寂寥感を滲ませてきた。そんな浩然を見て、万姫がふと思ったことを口に出してしまった。
「もしかして、雪華姉さんのことを愛していたの?」
一瞬だけ浩然が驚いた顔をして、失笑を零してきた。そして首を振ってきた。
「もし、宋家と周家から雪華との関係を知られなければ……その可能性はあったかもしれません。雪華は自分の妹とは思えないほど、綺麗だった。けれどその淡い気持ちが確信に変わる前に、私と雪華は宋家と周家から自分たちの繋がりを告げられました。きっと私が雪華の話を両親にしたことで、話すことを決めたのでしょう。雪華はそれこそ心底、喜んでいましたよ。まさか自分に兄がいるなんて……と。私も雪華ほど大喜びは出来ませんでしたが喜びました。私たちは、自分たちの関係を大切にするべく、色々な事を話しました。その時に、私は雪華から雨生様との御関係も聞いていたのですよ。勿論、武家が進めていた煌飛様との婚約話が進んでいたことも……」
「つまり、アンタはあたしが雪華姐さんの話をしたときにずっと芝居を続けていたわけね」
万姫が浩然を睨むと、浩然が苦笑を返してきた。
「今回の事件のためには、飽く迄私は貴方方と関係の薄い門下生でいたかったですから」
万姫にそう答えた浩然が少し話疲れをしたかのように、一息吐いた。けれど浩然は話す事止めたりはしなかった。
雨生へと向いて、浩然が口を開く。
「雨生様は自分たちの関係を煌飛様たちに打ち明けようと進言したそうですね。そして雪華もそれを承諾した」
「ああ、そうだ。本当は煌飛と万姫に関係を雪華と打ち明けるつもりだった」
万姫が雨生を一瞥する。すると雨生は肩をすくめさせてきた。
「でもあたしは雪華姐さんから、一言もそんな話されなかったわ」
「出来なくなったのです。元々、煌飛様と雪華を婚約させるという談笑話が本格的に進み始めたので。周家は武家と深く繋がっています。それに、その話を煌飛様や万姫様が喜ばれていると知って、雪華は思い悩んでしまった。雪華は……煌飛様のことも、万姫様のことも愛していましたから」
「そんなの、そんなの……雪華姐さんの言い訳よ! だって、そんなの……あたしたちの所為で姐さんが自殺したってことでしょ? 嫌よ! 別にあたしも煌飛兄さんも雨生とのことなんて知らないし、あの人を自殺に追い込みたかったわけじゃないもの!!」
憤りのままに、万姫は声を荒げさせた。婚約を喜んでいた自分が道化師みたいだ。そしてそんな道化師になっていた自分が彼女を自殺に追いやっていたなんて……そんなの惨めすぎる。
けれどそんな万姫を擁護したのは、意外にも雨生だった。
「いや……万姫たちだけの所為じゃない。俺も悩む雪華に気づけなかった。死に近づく彼女の気配に気づけなかった。それは俺の落ち度だ。そして……もう一つ理由がある。それは彼女自身の弱さだ」
雨生が眉を顰めさせる。すると、浩然が堪え切れなかったのか苦笑を零してきた。
「雨生様、私は常々思うのです。貴方と雪華が会うタイミングが早すぎた。せめて、雪華と煌飛様が公式的に婚約なさった後ならば、こんな結末にならなかったと。そうすれば、雪華が貴方に惹かれようと、その思いは成就せずに終わっていたはずです」
今度は雨生が黙ったまま苦笑を零した。
しかし雨生が次に言葉にしたのは、『もしも』についてではなかった。
「もう一つ訊きたい。何故、雪華は武家の宝剣で胸を突き刺していたんだ? あれは、煌飛が所持しているはずのものだ。それについて何か知っているか?」
「あれは、煌飛様が雪華に対する気持ちの象徴として渡していたのです。皮肉なことに雪華はその剣で自ら命を断ってしまいましたが。信じ難いかもしれませんが雪華が自殺したのは、事実なのです。私宛に雪華から遺書が送られてきましたから。
雪華が私宛に残した遺書には、こう綴られていました。
『私は今まさに分離している。過去と今が自分の中で戦っている。私はそれによって、大切な人を失うのを恐れる。だからこそ、逃げ出そうとも思っている。ごめんなさい。浩然大哥(兄さん)。私は決して煌飛や万姫を憎んでいない。だって私はあの人たちを本当に大切に思っているから。それこそ、自分の家族であるかのように思っているし、もう一人の私も嬉しく思ってる。でも……もう一人の私は雨生を心の底から愛している。だから、私はこの道を選ぶ他ない』と。
私はこれを見たとき、雪華がどんなに貴方方を思っているのかが垣間見れた気がしました。だからこそ、私としては許せなかった。雨生様が反逆組織に身を置いているという事が。雪華は、そんな貴方を見たいはずがないと。だからこの手で貴方を殺そうと思ったんです。
万姫様と一緒に行動を共にしていたのも最初は、豊様の指示で南寧市にある軍基地を破壊することでしたが、あそこで貴方の姿を目撃して今の混乱を利用しようと思い立ったわけです。最後は死ぬこともできず、失敗に終わりましたが……」
浩然の独白を聞きながら、万姫はなんともいえない遣る瀬無さでいっぱいだった。
もはや誰かを責めることができない。なにせ一番責めるべき相手が不在なのだから。
「まさか、こんな形で雪華の件が終わると思っていなかった。正直、俺は雪華を殺したのはおまえだと思っていた。白状すると、俺はずっと万姫とおまえを南寧市に入る前から尾行してたからな。だから、おまえたちの会話も聞いていたし、南寧市でおまえが俺に姿を変えていたのを見て、もしや……と思った。でもまさか……彼女が自殺していたとはな」
雨生の言葉には悔しさが滲んでいるような気がした。
雪華姐さん、何で死んだりしたのよ……?
夜風に髪を揺らされながら、万姫が暗い空を仰ぎ見る。空には厚い雲が見える。台風が近づいているのかもしれない。
気づけば浩然は力尽きたように意識を失っていた。残されたのは行き場のない気持ちを抱えている万姫と雨生だけだ。
するとそこへ……
「万姫、今の状況を説明するんだ」
「煌飛兄さん……」
表情を険しくさせ身体の至る所を負傷している煌飛がやってきた。
その隣には同じく負傷する右京という男がいる。
「雑魚を相手にしていたら、大物がひっかかってな」
右京が肩をすくめながら、雨生へと口を開く。すると煌飛が辟易とした溜息を吐いてきた。
「なに、軍の犬と共に下等なテロリストを片付けようとしたまでだ」
「片付けられなかったようだがな……雨生、今回の事は後でちゃんと埋め合わせしてもらうぞ。それから、中国軍は南シナ海駐屯基地で数百本ほどの弾道ミサイルを準備していたようだが……既にそこは壊滅状態になっていた」
右京が煌飛を一瞥したあたり、そこの駐屯基地を壊滅させたのは煌飛なのだろう。そしてそんな煌飛は、万姫を見てから次に足を失った浩然と雨生へと視線を向けた。
「煌飛兄さん……ここで王雨生に戦いを挑んだりしないでよ。兄さんはまだ知らないと思うけど、この男は本当に雪華姐さんを殺したりはしてなかった。姐さんは自殺してたの」
やや空気を張り詰めさせた煌飛を万姫が先に制した。
そして万姫は、煌飛に先ほどまでの話を話した。所々、言葉が詰まって何回も沈黙してしまったが、それでも何とか話し切った。
「……本当なのよ。だからもうこの男といがみ合う必要なんてないの」
いがみ合う理由なんてないのだから。
「確かに、もう雪華のことでいがみ合う必要はなくなった。だが俺はテロリストに身を投じたおまえを見逃すわけにはいかない」
「ちょっと、兄さん何言ってるのよ? 今はそんなことどうだって……」
「焦るな、万姫。俺はここで王雨生と決着をつけるつもりはない。なにせ、そいつは手負いだ。手負いの男を討ちとっても面白くないからな」
「随分と傲慢な余裕だ。今、このときを逃したことを後に後悔するなよ」
雨生が明後日の方向を向きながら、煌飛へと言い放った。するとその時、雨生の情報端末が光り、雨生が通信に出る。
すると端末画面に、どこかで見た事ある男の顔が表示された。
「よぉ、雨生! 俺だ、世界一の色男……ベルバルトだぜ」
「見ればわかるさ。それで今は?」
「俺は今、花の都パリにいる。つまり、淑女の宝庫……フランスだ。これから面倒なことをとっとと終わらせて、美女の恋人をつれて帰ってくるから。待ってろよ〜」
アホ顔の男がそう言ってウィンクすると、通信を切ってきた。確実にどこかで見たことはあるのだが……いけない。まったく思い出せない。
けれどきっとその程度の男なのだろう。雨生が通信を切って、自分たちの横を通り過ぎてきた。
「右京、俺たちは行くぞ。ここは武家に任せよう」
「ちょっと、あたしに一言も無しなわけ?」
「……もう話す事はないだろ?」
卑怯だ。そう言われてしまったら何も言い返せないではないか。煌飛も特段、雨生に言葉を掛けるような真似はしない。
万姫は視線を下げて、自分の中にある引き出しを探るが何も出てこない。
すると雨生が引き出しの中に、一つポンと物を置いてきた。
「自分の方針は自分の目で見て、信じた方向に進んだ方が良い。つまりお前は色々と見て知った方が良い」
万姫にそう言うと雨生は右京と共に、屋上から飛び降り、どこかへ去ってしまった。
「何よ? 偉そうに……」
去っていった雨生の方を見ながら、万姫は中国の内情を見て、そして……事態の中心となっている日本に向かうことを心に決めた。




