乱されるペース
万姫は雨生の表情も右京の言葉も気にせず、自分を狙ってきた愚か者にいきり立っていた。
そんな万姫に自分と同じく代表候補である李雪麗からの通信が入った。
「雪麗? どうかした?」
『ご機嫌斜めね? 万姫ちゃんは』
「ちょっとね。それで何?」
『ついさっき、九龍地区の方で武家の門下生の数名が死体で見つかったって情報があったのよ。丁度、彌敦道付近に到着したところだから、現場に直行するところ』
雪麗の報告に万姫と、音声だけを聞いていた雨生たちが一気に顔を顰めさせた。そして、雨生が声を出さず、口の動きだけで「殺され方は?」と伝えてきた。
『万姫?』
読唇していた万姫に、モニターに映る雪麗が不思議そうに首を傾げてきた。そのため、万姫が視線を雪麗に戻し、口を開く。
「雪麗、その門下生がやられた詳しい場所と殺され方は?」
『え、ええ。現場は彌敦道に近い公爵街よ。そこに立つマンションの一角で鋭利な物で首を切られて死んだみたい。第一発見者は近くに住む一般市民。香港警察も大きく動いてる。情報操作士に頼まずとも、これくらいの情報だったらネットのSNSなんかでも、すぐに調べられたわ』
「そう、わかったわ。あたしたちは今、湾仔にある飛行場にいるの。すぐにそっちに向かうわ。別の動きがあったら、即座に連絡して」
『はい、はーい』
雪麗がいつもの緩い返事すると、万姫との通信を切ってきた。
万姫が通信を切って一息吐く。これは先ほど煌飛が言っていたことが本格的に動き出したということだろう。
それにしても、九龍の目抜き通りである彌敦道の近くで殺すなんて……強行にもほどがある。いくら夜とはいえ、まだまだ人通りは多い時間帯だ。
「何か企んでのことかしら?」
「いや、まるで企みかのようで企みではない殺人、だな」
ふと呟いた万姫の言葉に雨生が妙な言い回しで答えてきた。
「ちょっとそれって、どういうこと?」
万姫が目を眇めて訊ねた瞬間、万姫たちをタクシーが眩しいくらいのライトの光りで万姫たちを照らしてきた。
どうやら、万姫が雪麗と離している間に右京が呼んだらしい。
やってきたタクシーの前座席に右京が乗り込み、後部座席に雨生と万姫が乗り込む。タクシー運転手に右京が流暢な広東語で「中環から上環を通るルートで旺角地区に向かえ」と言っている。
「ちょっと、何でわざわざ遠回りするのよ? 紅隧は混んでるとしても、高速フェリーをチャーターすれば良いじゃない」
「高速フェリーって……武家が所有している奴か?」
「そうよ」
万姫が腕と足を組みながら、きっぱりと言い切る。すると雨生が呆れたように肩を揺らし、
「俺は、武家のフェリーに乗ったばかりに、おまえとヴィクトリア湾の海上で蜂の巣にされるのは御免だ」
「な、なんですってぇえ!!」
「車内で騒ぐな。雨生に噛み付くフリして構って欲しいなら、向こうについてからにしろ」
座席の背もたれから上半身を起こして雨生に殺気を放っていると、前に座る右京からそんな一喝が飛んできて、万姫が思わず顔を赤らめさせた。
「ば、馬鹿じゃないの!! あたしがこの男に構って欲しいって何!? 莫名其妙!!(わけわかんないっ!!)」
けれど、そんな万姫の動揺っぷりを見て右京の隣にいるタクシーの運転手の男までニヤニヤとバックミラー越しに笑っているのが見えた。
さすがの万姫でもただのタクシー運転手相手に殺気を放つことはできない。
むしろ、それどころではない。
隣にいる雨生は、自分は無関係とばかりに窓の方へと向いて多くの高層ビルが立ち並ぶ金鐘の景色をぼんやりと眺めている。
自分が妙に気恥ずかしい思いをしてるというのに、ビルなんか眺めてるんじゃないわよっ!!
けれどこのタイミングで雨生に文句を言えない。もしかしたら、自分を黙らせるためにあえて言ったのかもしれない。もしそうならかなり悪辣だ。
万姫は言葉にならない声を漏らしながら後部座席に深く座り、視線を外の景色へと移した。
道路は流れ金鐘から中環へと移動している。香港のネオンサインは夜に来て煌々と光り輝いていて、窓越しに万姫の顔を様々な色に染めていた。
車内では沈黙が続いている。そのため先ほどまでの気恥ずかしさも消え、現場に急行しようという気持ちも失せてしまっている。
雪麗からは新たな通信が入ってこない。まだ新しい情報が入っていないということだろうか? まぁ、いい。事態に変化がないのなら、必死こいて現場に向かう必要もないということだ。上環から西隧に入り、すぐに香港島から九龍の方に渡る。
香港島だと路面電車だったが、九龍では二階建てバスに乗り看板の海を走り抜けて行く。
万姫たちは旺角に向かうため、西九龍公路を北に進んで行く。
この調子で進めばすぐに目的地に着くだろう。
けれどそんな万姫の内心を挫くように、雨生がタクシーの運転手に途中で降ろすように指示を出した。
「悪いが、目的地変更だ。佐敦道の路肩で俺たちを降ろしてくれないか?」
「別に構わないが……旺角地区はもうすぐだけど、いいんですか?」
「ああ。問題ない」
「ちょっと、また勝手に!」
けれど万姫の言葉を聞入れず、雨生が運転手に運賃より多めのお金を渡してしまっている。
雨生からお金を渡されたタクシー運転手は少し躊躇うような仕草を見せながら、口許は微かに綻んでいるのがわかった。
今、万姫の手元にお金と呼べる物はない。なにせ、南寧市にいるときに浩然に預けてしまったからだ。そのため、この運転手に対して万姫が雨生よりも優勢に立てないということだ。
手持無沙汰の自分がひどく恨めしい。
タクシーは雨生が指示した通り西九龍公路を出て、すぐの一般道路の路肩で止まった。万姫より先に降りた雨生にタクシー運転手がニコニコと愛想よく振舞っている。
雨生はそんな運転手に微笑を浮かべてから、未だタクシーに乗っていた万姫に声を掛けてきた。
「万姫、おまえはこのまま乗っていたいならそうすれば良い」
「冗談言わないで。あたしはアンタたちを監視するためにいるんだから」
雨生に鼻を鳴らして万姫がタクシーから降りる。その瞬間、万姫ははっとした。
……誰かに狙われている。
距離的には遠い。そして湾仔の飛行場で自分たちを狙っていた奴だろう。確かに雨生たちが言っていた通り、軍人じゃない。自分たちと同じ因子持ちだ。
万姫は敢えて周りを見回すことなく、雨生を鋭く睨んだまま口を開く。
「こんな道の途中で降りて……まさかそこにいる奴に香港観光させようって気じゃないでしょうね? もしそしたらアンタたちの背中を後ろから青龍偃月刀で突き刺してやるから」
「安心しろ。俺たちはおまえに後ろを取らせるような隙は見せない。確かに、そうだな……右京はゆっくり香港を見たことがなかっただろうし、現場に向かいながら香港の街を歩くのも悪くない」
万姫にそう言いながら雨生が右京に視線を向ける。すると右京はにこりとも笑わず肩をすくめさせただけだ。
まったく、さっきのタクシー運転手とは正反対に愛想の欠片も無い男だ。
しかし愛想のない右京を雨生は気にしてない素振りで、ビルの間をブラブラと歩く市民や買い物袋を携える観光客のように、猥雑とした道を歩き始めた。
道を東に行けば行くほど人が賑わってきた。香港の九龍の中でも賑やかな繁華街、佐敦地区に近づいたためだろう。
露店が多く立ち並び、人で賑わう道を歩きながらも万姫は気が抜けなかった。
ずっとだわ。
背中に感じる狩人の視線。
きっとこの視線の者は、公爵街で門下生を殺した人物の一派だろう。
香港の土地勘を熟知しており、人目を憚らず万姫をいつでも殺せるように付け狙っている。そして、雨生たちもその視線に気づいたからこそ、タクシーを降りたのだ。
「雰囲気は似ているが、人は変わってるな」
ぼそりと右京が呟くように言葉を吐き捨ててきた。万姫は右京を一瞥してから深く溜息を吐いた。
「馬鹿げてるわ。もうそろそろ、この観光ごっこを続けるのは限界なんだけど?」
「武万姫は絶対に、諜報員には向かないな」
前を向きながら雨生がそう言ってきた。
「当然よ。諜報活動なんて、この武万姫に相応しくないわ」
「じゃあ、そんな諜報に向いていない万姫に一活躍をしてもらうとするか」
雨生の意味深な言葉に万姫が立ち止まった瞬間。
「ちょっと! いきなり何すんのよ!」
雨生が万姫の身体を抱き上げてきたのだ。そして万姫の叫びも訊かぬまま、頭上に広がる看板群へと跳躍し始めた。
近くにいた人々が驚きの歓声が上がる。けれど万姫を抱えて跳躍する雨生とそれに続く右京は素知らぬ顔だ。
ピンクや黄色、緑など実に様々な看板たち跳び駆ける。
「珍しいな。万姫がギャンギャン騒がないなんて。さっきまでの威勢はどうしたんだ?」
「煩いわね。ほっといて」
雨生の言葉を万姫が突っぱねる。自分でもらしくないとは思うし、こんな経験はかつてしたことがなかった。
こんなにも意見が通らず、こんなにも他人のペースに持っていかれるなんてことは。
何故、自分のペースを乱されているのか? 万姫は可及的にその答えを見つけ出したかった。そうしなければ自分はこのまま、ペースを乱され続けることになるのだから。
流れる光の景色を見ながら、万姫は考える。
ペースが乱されたのはいつからだろうか?
最初にジェット機を墜落されたとき? それとも南寧市で足止めと奇襲を受けたとき? 雨生と再開したとき? 香港で自分の命が狙われてると気づいたとき?
考えれば考えるほど、自分の思い通りになっている時がないと感じる。なにせ、万姫は北京に来いと呼び出されたときから、不満があったのだから。
けれど自分のペースが大きく乱される所を考えると、やはり行きつく先は……
万姫は自分を抱える雨生を一瞥した。
悔しいが、この男にあるのだろう。自分が昔から敵わないと思っていた男だ。
どんなに自分の中で「違う」と否定しても、感情の片隅にはそれが深く刻まれている。だからこそ、万姫は自分の中の齟齬に歯噛みしたくなる。
しかし万姫に歯噛みしている暇はなかった。
看板を跳躍する自分たちへと後方から銃弾が襲ってきたからだ。




