象徴の不自由
世界の至る所で、衝突という旋律が鳴り響いている。けれどそれを耳にする者は、何十億人という人口の中で、ごく一握りだろう。
しかし旋律は、誰の心にも微かな不安を与えていた。
世界が変わるかもしれない予兆。
いつだって、どんなときだって、世界は個の望みでは動きはしない。だからこそ人は世界の変化を、気づかぬフリをし、また恐怖する。
ただの市民からすれば、この抗争は内部分裂として捉えられているかもしれない。アストライヤーと軍の違いなんて、戦いから遠い人間は知らないのだから。
『慶吾、やっぱり君は彼に対して何の補佐も行っていないのかな? 私的には不測の事態を想定して、彼の補佐をして欲しいんだけどね』
慶吾に豊からの疑問が投げられる。慶吾はそれを失笑して返した。
「うーんそれは無理だと思うよ。彼が俺の手を取るタイプじゃないと思うし」
『はは。それもそうだ。でも彼に手を差し伸べる気もなかったんじゃないのかい?』
「おや? それはどうして? 一応、俺の立場は彼の仲間的位置にいると思ってるんだけど」
『とりあえずの位置はだろう? 正直、私からすると君は第四勢力のような存在だと思ってるよ。単体ではあるけどね』
豊の言葉に慶吾は再び失笑した。
「俺は貴方と戦おうなんて、思ってもないよ」
『それは君が……』
豊が何かを言いかけて、再び口を閉ざしてきた。豊はまだ京都の宇治駐屯基地に近い場所で真紘たちと戦っている。
一体、何を言いかけたのだろうか?
ただ自分の胸中を見透かしているような口ぶりだった。
『まったく、嫌なものだね……』
せっかく言葉の続きを待っていたのに、豊から漏れたのはただの呆れた溜息だけだった。
『私も君みたいにどんなことにも、心を痛めない人間になりたかったよ』
「ひどい言い様だね」
『君は他人から悪魔の子、って指差されても平然と手を振れるだろう?』
「それは貴方もでしょう?」
『違いないね。やっぱり蛙の子は蛙ってことかな?』
「だろうね」
軽く慶吾が豊に言葉を返すと、豊の言葉が途切れる。再び戦いの方へと意識を集中させたのだろうか? しかし慶吾がそう思った矢先……豊が言葉を返してきた。
『ただ子だからと言って、君は私とは別の個体だ。だからこそ、君は私を見離すことも、そして私が君を殺すこともできるんだよ』
「決意の表れってことでいいのかな?」
『君がそう捉えたのなら』
「でも残念。貴方が思い描いている道筋に人は動かない。だから……俺は生きるよ」
『いいね。親としては実に喜ぶべき言葉だ。ありがとう。では地獄でも生きてみようじゃないか』
愉快に笑う豊の言葉は、それきり聞こえなくなった。
自分が手を下すべき、相手を捕捉したのだろう。
「はぁっ!」
真紘の横をセツナが駆けた。手にサーベル剣を構え、低姿勢のまま綾芽へと疾走していた。
疾走するセツナを綾芽が目を細めて見る。口には笑み。
セツナの因子の熱が爆発する前に、綾芽の因子が空中で爆発した。セツナが爆風に絡め取られそうになる。けれどセツナは持ちこたえた。
剣を地面に突き刺し、爆風に呑まれるのを堪える。
しかしそんなセツナへ綾芽からの追撃が襲いかかる。速く、重い綾芽の足刀が身を低くしていたセツナへと振り下ろされる。
綾芽の足刀を受け止めた刃から轟音が響き渡る。
「全力を尽くさぬ者に興味はない。失せろ!」
怒りのまま綾芽が吠える。
しかし真紘はそれを無視して、真紘の刃が綾芽の次なる攻撃を捉えていた。斬りかかる。
貫手を繰り出そうとしていた綾芽の腕が、反射的に引っ込められる。その瞬間、真紘の頭突きが綾芽の顔面を強かに打った。
「全力は出せないと言いましたが……反撃しないとまでは言っていませんから」
頭を強打された綾芽が不満げな表情を浮かべる。
やはり、肉体的攻撃は接種型には通用しないか。
真紘はセツナへと目配せし、綾芽の両脇に立つ。セツナと息を合わせて綾芽を挟撃する。
二つの刃が一点に向かって刺突を繰り出す。片方は炎を纏い、片方は風を纏う。綾芽がその二つを真上に跳躍し、回避する。
そして真上へと跳躍した綾芽が片足を突き出し、セツナへと一瞬の内に突貫した。地面から砂埃が一気に辺りに立ち込める。おかげで綾芽の姿もセツナの姿も見なくなってしまっている。
「ヘルツベルト! 押し返せ!!」
真紘の叫びが檄となり、セツナの炎が勢いよく吹き出す。そして舞い上がった砂埃に粉塵爆発を引き起こさせた。
だがそんな爆発から綾芽が脱け出しているのが目視できた。
真紘が地面を蹴り、綾芽へと剣先を突き出す。
大神刀技 志那都比古
イザナミが因子の刃を纏い、長く伸びる。そして長く伸びた穂先が綾芽の胴の肉を裂き千切るように掠めて行く。
自分が微かに放出した因子の気配に勘付かれ、胴を突き刺すはずだった攻撃をかわしたようだ。綾芽が手刀の斬撃を真紘へと放ってきた。
真紘が跳躍して回避する。その間にもセツナが綾芽へと炎を帯びた斬撃を放っている。
綾芽がその斬撃を足で蹴り返す。反撃の姿勢を取った綾芽が再びセツナへと向かって行く。
二手に離れたのは失敗だったか。
真紘は内心で臍を噛んだ。セツナへと綾芽が向かう理由ははっきりしている。
セツナを完膚無きまでに痛めつけることで、真紘の怒りを挑発させようと考えているのだ。だからこそ、綾芽は未熟だとわかっているセツナに連続攻撃を加えるのだ。
案の定、綾芽からの拳打や蹴りが容赦なくセツナへと降り注いでいる。セツナも自分なりに精一杯の力で綾芽の攻撃を防いでいるが、ダメージは蓄積しているのは間違いない。
真紘がセツナの後ろへと駆け、セツナの背後から綾芽への斬撃を放つ。しかし真紘の放った斬撃の意図を知っているためか、綾芽はそこから離れようとせず……右腕で真紘の斬撃を受け止めた。斬撃を受け止めた綾芽の腕からは、紅い血が流れ出る。
けれど綾芽の動きは止まらない。真紘が来たことにより油断したセツナの顔を容赦なく綾芽の拳が殴り飛ばす。
セツナの身体が地面をボールのようにバウンドする。
「ヘルツベルト!」
「これ、よそ見をするでない」
下段に構えていた綾芽の左拳が真紘の鳩尾に深く入り込む。しかし真紘は痛みに表情を歪めるよりも先に、綾芽へと刃を走らせていた。
真紘の切り返した刃が綾芽の身体に斜めの斬線を描く。その線は血の赤に染まる。
刃を瞬時に切り返す真紘の速さに、さすがの綾芽も目を瞬かせている。
しかしその瞬間。綾芽が手で自分の身体に付いた傷痕をなぞり、肩を震わせて大きな声で高笑いをしながら、真紘へと反撃を開始する。
高速な貫手が真紘へと襲いかかる。もはや因子で強靭な膂力を持った綾芽の貫手は、目で追って避けられるものではない。
もはやこれまでの実戦で培った感覚だけで避ける他ない。
綾芽の貫手が身体を掠めただけで、痺れが真紘の身体を襲ってくる。けれど無視できないほどではない。真紘は冷静に連続攻撃を仕向ける綾芽への反撃の機会を窺う。
だがそんな真紘に綾芽が不意に口を開いてきた。
「のう、輝崎。何故……貴様たちは奴と対立する道を選んだ? 奴のやろうとしてることは、それほどまでに愚行か?」
「無論です。力のある者が弱者を上から押さえつける世など、上手く行くはずがない」
「そうか。だが可笑しな話ではないか? いつだって人は屈強な象徴を求めるというのに。自らの上に立たれることに反発するとは。本当に象徴なんて物は、はずれくじにもほどがある」
刃と拳が交叉し、衝撃が生まれる。
「貴方が象徴となることに、深い嫌悪を抱いているのは知っています」
「そうだ。妾は父達のようになりとうない。だったら公家に変わって宇摩たちが象徴となればよい」
「けれどそうした所で、公家がなくなるわけではありません。貴方が家の呪縛から逃れることも出来ないでしょう」
真紘の刺突が突き出された綾芽の拳を貫く。綾芽の表情が不愉快そうに歪められた。
「だからこそ、愚弟が必要なのだ。奴を妾の代わりとすれば、妾は今よりも自由になれる」
「やはり奴に固執する理由はそういうことでしたか。ですがそれは叶わない夢でしょう。一度籠から抜け出た鶯が戻ってこないように、奴も戻りはしない。どんなに絶対的な力を持った宇摩が象徴となったとしても、戦いは生まれます。個々で戦えなければ束となり脅威となって。国防軍がアストライヤーに牙を向いたように。俺たちが今こうして刃を向けるように」
綾芽の膝が真紘の顎先に向かってくる。真紘が腕でその膝を受け止める。受け止めた衝撃で微かな血飛沫が腕から吹き出した。
けれどそれと同時に綾芽の首筋からも血が流れる。片手で払った真紘の刀の穂先が綾芽の首の皮を斬りつけたためだ。
「では、やはり妾の望む自由を手に入れるためには、戦うしかないのだな」
「つまりは……そういうことですっ!」
先ほど綾芽に殴り飛ばされたセツナが、真紘の肩に片手をつきながら綾芽に飛び蹴りをくらわした。
予想外だったのかセツナの蹴りを受け止めた綾芽の顔に驚愕の色が浮かび上がる。
「まさか妾の攻撃から立ち上がり、隙を突くとは……。輝崎、貴様が稽古をつけたかいがあったではないか」
真紘の一歩前に着地したセツナを見て、綾芽が妙に納得したといわんばかりに首を頷かせる。
「えっ、それってつまり……少しは私も強くなったってことでいいのかな?」
綾芽の言葉を聞いたセツナが、若干嬉しそうに頬を緩ませている。
「あ、ああ。そういうことだろう」
一瞬だけ流れた緩い空気に真紘が面を喰らいそうになる。
だがその気分はすぐに払拭された。
ごく一瞬だけ空気の中に混ざった、強烈な因子の気配に真紘の背中が粟立つ。それは真紘だけではない。目の前に立っているセツナも顔を強張らせ、綾芽が周囲を見渡し始めた。
だがその因子が誰の者なのか、真紘はもうすでに知っている。
キリウス・フラウエンフェルトの因子の気配だ。キリウスは京都市街にいるはずだ。しかしさっき感じた因子の気配はキリウスで間違いないだろう。
「さっきのは、なんだったの?」
未だに表情を怯えさせながらセツナが真紘に訊ねる。
だが真紘は答えられなかった。何故ならキリウスの因子に触発されてか綾芽が一気に因子の熱を上げ始めたからだ。
「面白い。面白いではないか! 妾たちも勝利たちに負けてはおられん。さぁ、続きだ!」
綾芽が声高らかに言葉を発しながら、真紘たちへと手刀の斬撃を放ち始めてきた。真紘が身体を強張らせるセツナの前に出て、手刀の斬撃を受け止める。
しかしその時には、綾芽が第二撃を放とうとしていた。
そんな綾芽に真紘もイザナミに因子を流し、鎌鼬を放つ。鎌鼬が綾芽の身体に牙を立てる。
だがその牙が綾芽に穿たれることはなかった。
「九条君、非常に名残り惜しいけど……今はしばし撤退しないといけないようだ」
という言葉と共に綾芽と真紘の間に入った豊が、鎌鼬を往なしてきたからだ。




