行動開始
京都市右京区にある嵐山。
狼たちは引き続きタクシーに乗って、齋彬家へと到着した。そして齋彬家の女中の人に案内され、広い純和風の家の中を案内されていた。庭には小さな滝まで存在していて、狼は目を疑ってしまう。
勝利たちが待つ部屋へと狼たちを案内してくれている女中の人が、丁寧な口調で庭先の説明をしてくれていた。廊下は一枚板で良く磨かれている。
そして狼たちが案内された部屋は、一部屋だけでも三〇畳ほどの広さがある和室だ。
「御当主はすぐこちらに来られますので、どうぞごゆっくりお過ごし下さい」
にこりと笑って、厚みのある座布団の上に腰を下ろした狼たちの前に温かい抹茶が運び込まれてきた。抹茶の横には、綺麗な菊や紅葉などの形をした生菓子が添え置かれる。
なんか、調子狂うなぁ。
目の前に置かれる抹茶と生菓子を見て、狼は思わず片目を眇めさせた。
ここに着いたら、すぐに宇治に行くと言われていただけに、もっと緊迫した重々しい空気が流れていると思っていた。しかし予想に反して、空気は決して重くなく、むしろ上品なお香の匂いで、気分が弛緩してしまう。
狼の横に一列で座るデンメンバー、操生、ヴァレンティーネの表情が甘い和菓子に、温かいお茶でほっこりさせている。
狼と同じように少し戸惑っているのはマイアだけで、出流でさえ眠たそうに目を細めさせている。
狼がそんな事を考えながら手持ち無沙汰になっていた所で、齋彬家当主である勝利がやってきた。狼が勝利に軽く頭を下げる。
すると勝利が頷いて返答してきた。それから、勝利も狼たちと少し開いた、床の間の近くに敷かれた座布団へと腰を下ろした。
「少し時間が掛かっていたが、何かトラブルでもあったのか?」
「トラブル……と言ったらトラブルなんですけど、自業自得というか……僕が因子を少し暴走させちゃって」
「そうか。確かにそれはゾッとしない話だが……そちらは私が持とう。貴様は雪村の当主との鍛錬に集中してくれればいい。それと先ほど少し話をした通り、これから二手に別れて宇治の方に向かって欲しい。向かうのは……」
「すみません。あの、その話しなんですけど!」
狼が勝利の言葉に割って入る。すると勝利は不思議そうな表情で狼を見てきた。
「何だ?」
「さっき、藤華さんが僕に戦わなくてもいいって言ってましたけど、僕はその選択を取ることはできなくて……戦いになったら皆と一緒に戦いたいです」
拳を強く握り、狼がもう一度頭を下げる。
「駄目だ。私では認可できん。それは貴様と雪村の契りのはずだ。私がどうこうできるものではない。それに、だ。もし私が雪村の当主だとしても、それを許すことはしないだろう」
頭を下げた狼の言葉を勝利がばっさりと切り捨てた。もう答えに迷う余地なしといわんばかりに。狼が頭を上げると、真摯に狼を見据える勝利の目と目が合った。
その目が狼にこれ以上、異論を認めさせないという意思を伝えてくる。鳩子から事の真実を明かされたというのに、自分は動く事が出来ない。もどかしい。けれど勝利の考えを論破できるとも思えない。
ここで止まってはいられないのに、どうして言い返せないんだ?
そんな自分が、歯痒い。
「では話を元に戻す。宇治に向かう者は、ここに残る者以外だ。つまり黒樹狼、ヴァレンティーネ・フラウエンフェルト、黒樹、雪村、そして私だ。それ以外の者は全て宇治の方に行って貰う」
「つまり、私たちと杜若教官たちと真紘……輝崎の当主ってことですか?」
確認として、そう訊ねた根津に勝利が頷く。
「実は輝崎の知人も先にこちらに到着していてな。彼らと共に向かうと言っていた」
真紘の知人?
狼が少し首を傾げた瞬間、名莉の横にいる季凛がぼそりと
「あはっ。なんか嫌な予感がする~」
と呟いているのが、聞こえてきた。
季凛の言葉を聞いて、狼の頭の中にも人物像が浮かびそうで浮かび上がって来ない。
あともう少し、あともう少しなんだけど。
そんな狼のモヤモヤを解消してくれたのは、横にいる名莉の呟きだ。
「希沙樹……」
あっ、そうだ。真紘の知人で季凛が微かに嫌がる素振りを見せる人物。それに該当するのは希沙樹くらいしかいないだろう。
腑に落ちた狼が再び勝利の方に向くと、丁度そこで真紘がやってきた。
「話は大方、済んだようだな。では早急に宇治の方へと向かうぞ。俺は左京たちと希沙樹たちと共に基地の西側から回り込む。そちらは反対側から回り込んでくれ」
デンメンバーや出流たちにそう言った真紘が次に狼の方に視線を向けた。
「黒樹、黒樹がここに来てくれたことに感謝する」
「いや、別に感謝なんて……僕は自分の意思でここに来ただけだから」
「そうか。なら良かった」
真紘がそう言って、少し嬉しそうに笑みを浮かべてきた。きっと真紘も自分の事を気にかけてくれたということが、すぐにわかった。そこに友人に対しての有り難さを感じる。
けれどそんな狼の意識は、すぐさま別の事に移った。
真紘の後に続いて、藤華が入ってきたからだ。
狼が藤華を見ると、藤華も狼を見ていた。そのため、少し気まずい気持ちにもなったが、視線は逸らさなかった。鍛錬する前から相手に怯んではいけない気がしたからだ。
しかしそんな狼の気持ちが無意味だったように、藤華があっさりと狼から視線を逸らし、こちらを見ているようで、見ていないという様子で真紘の横に立っている。
「宇治に向かわれる方に、念を押させて頂きます。くれぐれもこちらに被害が来ぬよう、お願いしますよ。こちらの集中力が切れますから」
傲慢な態度とも取れるが、そんな藤華に対して誰かが口を出すことはない。こちらに軍にしろ、豊にしろ、来させる状況にさせてはいけないと、誰しも分かっているからだ。
そのため、藤華を横目で見る真紘の表情に「言われなくとも」という雰囲気があるように見えた。
「まっ、俺たちが向こうに行く頃には国防軍と宇摩の衝突が始まってるかもしれないけどな。宇摩側も来てるんだろ? ここに」
肩をすくめる出流の言葉に真紘が肯定の意として頷いた。
「ああ。その可能性は大いにある。だが今の所はまだないようだ。宇治基地への物流も止まっているらしい」
「なるほどな。搬入が完了したのか宇摩の動きに警戒して停めたかだろうが、まっ、どっちにしろ行けば分かるか」
出流がそう言って立ち上がる。そんな出流に続いて操生が立ち上がった。
「じゃあ、行こうか。ここでずっとお茶を頂いているわけにもいかないからね」
操生がデンメンバーに向かってそう言った。するとそんな操生たちに続いて根津たちが立ち上がる。
「では、行くぞ」
真紘が一言、そう言って先に部屋へと出て行く。それからすぐに出流が真紘に続く。
デンメンバーたちもそれに倣って、部屋から出て行く。そのときに狼の背後で鳩子が立ち止まり、耳元で囁いてきた。
「何かまた分かったら連絡するからね」
「わかった」
小声で鳩子に頷き、デンメンバーの背を視線だけで見送る。
「では、狼さん。私たちもすぐにでも始めましょうか。貴方は運が宜しいですよ。黒樹家当主、黒樹重蔵様がいらっしゃりますから、体術の強化も一緒に行えます。もしそれが成功すれば……貴方は己の強運に頼らずとも、これからの行く先を切り開くことができるのですから」
「そうですね。もう僕も……失いたくありませんから」
藤華にそう言って、狼はすくっと立ち上がった。
つくづく、移動手段というものに自分たちが恵まれていたか、この状況になって良く分かる。
出流たちは齋彬家から、数台の車で送り届けられた場所。それは宇治駐屯基地……などではなく、東本願寺、西本願寺に程近く、京都タワーにも近い京都の玄関口。京都駅に下ろされていた。
「おい、なんで俺たちを下ろす場所が駅なんだよ? 普通に考えて宇治まで連れてけよ!」
アウディS8を運転していた、運転手に出流が不満を口に出すと、運転手が咳払いをして、
「御堪忍を」
と言ってきた。
正直意味が分からない。どうせ車出すなら近くまで乗客を乗っけて行くのがセオリーのはずだ。だが運転手は一言いってから、車を軽やかに走らせて行ってしまった。
「仕方ない。宇治へと続く道全てで軍独自の検問が行われている。検問を回避するには公共の乗り物を使うのが一番だ」
自分と同じ様に不満を持った様子で鳩子が真紘に通信を入れたのだ。そしてその真紘はというと、輝崎が仕える一条家の周りで怪しい動きがないかを調べてから向かうということで、ここにはいない。
しかも丁度、夕方から夜になるこの時間帯で、駅の人通りはかなり多い。しかも自分と操生は黒いスーツという姿で、他の連中は明蘭の制服姿。スーツと制服の組み合わせは地味に目立つ。しかしこれから、戦うということを考慮するとこの格好以外の選択肢が取れるはずもない。
ああ、齋彬家を出る時にやたら腕に絡まってくる、誠たちの友人という齋彬家の懐刀から軍資金を受け取った時に、気づくべきだった。
この軍資金は、自分たちに対する労いというわけではなく、交通費も込みで入っていたということを。
「これだったら、俺がマイアの代わりにあっちに残るんだった」
「はは。そんなぼやく必要もないよ。良いじゃないか。夜の京都駅。中々風情があるよ」
「あるか。駅はただの駅だ」
「出流は風流ってものがわかってないね」
操生の言葉に一息吐いてから、狼といつも一緒にいる情報操作士の鳩子に声をかけた。
「ここから宇治だとどんくらい、かかる?」
「二十七分くらい。宇治駅から駐屯基地までは少し距離があるけど、因子を使えばすぐに着く距離かな」
「そうか。ちなみに宇摩の動きは追跡してんのか?」
出流がそう訊ねると、鳩子があからさまに表情を曇らせてきた。
「してますとも……かなりウザいジャミングは掛けられてるけどね」
「ウザいジャミング? まぁ、いい。でもとりあえずは追えてるってことでいいな?」
「当然。あっちは悠々と車で御移動なさってるから基地に着くのはあたし達の方が先だね。確実」
皮肉っぽい口調で鳩子がそう言ってきた。




