出発
どのくらいの時間、自分は泣きじゃくっていただろう?
よくわからないが、もう自分の背後には新しい陽の光が顔を覗かせていた。泣きすぎたせいだろうか? 自分の中身が空っぽになったような、そんな錯覚を感じる。
けれど、その空っぽさは狼にどこか清々しさを感じさせていた。
ああ、僕は痛くても立ち上がらないといけないんだ。
ふいに狼はそう思った。
泣いて、叫んで大切な少女の死を乗り越えたわけじゃない。そんな簡単なものではない。けれど、それでもおぼつかない足で立ち上がることは出来ると思った。
いや、立ち上がるべきだと思った。
「メイ……ありがとう。僕は、立ち上がれる」
狼の言葉に、名莉が目を見開いたのがわかった。その瞳が微かに揺れている。空を赤色紫色に染める光が名莉の目をきらきらと輝かせている。
まるで泣いているようにも見えた。けれど名莉の目からは涙は零れなかった。そのため、名莉が悲しいのか、喜んでいるのか、それともどちらでもないのか、分からなかった。
確かにわかるのは、ずっとみっともない自分を優しく抱きしめていてくれたということだけだ。
狼は感謝の気持ちを込めて、名莉を抱擁した。抱擁した彼女の身体はひえて冷たくなっている。こんなふうに身体を冷たくしても、自分のためにここにいてくれた少女に、狼は有り難い気持ちと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
けれど、狼はなにも言葉には出さなかった。
ただ冷たくなった名莉の身体を抱きしめることで、自分の気持ちが伝わるような、そんな気がしたからだ。
「行こう。きっと……皆が待ってると思うんだ」
身体を離して、狼が名莉へと微かに微笑む。すると名莉は、気のせいではなく本当に涙ぐみながら、頷き返してきた。
そして名莉と共に狼が家に戻ると、玄関の前にデンメンバーが立っていた。
「言っておくけど、ずっとここで待ってたわけじゃないからね」
少しむすっとしながら、玄関の壁に寄り掛かる根津だ。しかしそんな根津の鼻は赤く染まっており、しばらく外にいたというのが見え見えだ。
そしてそんな根津の隣でしゃがみ込む、鳩子も根津と似たような表情を作り、白い息を吐きだしていた。
「あはっ。ちゃんとここに戻ってきたっていうことは……狼君、覚悟決まったんだ」
少し離れた所で立っていた季凛が、横目で狼を見ながら訊ねてきた。
最後の確認のように。
狼はそんな季凛にゆっくりと頷いた。
「うん、決めた……。ちゃんと立ち上がろうって。きっとずっと僕が座り込んでたら、それこそ小世美が気にすると思うから。これ以上、小世美にカッコ悪いところ、見せるわけにはいかないだろ」
「わかった。ならもう季凛は何も聞かない。ちゃんとした狼君の返事を聞けたから。他の二人はどうか分からないけど」
季凛がそう言って、根津と鳩子の方へと視線を移す。すると座り込んでいた鳩子がすくっと立ち上がった。
「じゃあ狼……あたしのお願い聞いてくれる?」
「うん。僕にできることなら」
狼はできるだけ、鳩子から目を逸らさずに答えた。すると鳩子がほんの一瞬だけ不安げな表情を浮かべてから、すぐさま顔を引きしめさせた。
「あたしと一緒に小世美の所に行こう」
鳩子の言葉に、狼の身体が一気に強張った。小世美が死んでから、狼が家にいれなかったのは、眠る小世美を見ていられなかったからだ。
嫌な現実が狼の意思とは関係なく、いやそれを無視して入り込んでくるようで。
けれど……立ち上がると決めたなら、小世美と会わないわけにはいかない。たとえ、彼女から『おかえりなさい』という言葉が貰えなくても。
「そうだね。行こう、鳩子」
狼が慎重にしっかりと答える。そんな狼の元へと鳩子がやってきた。
「狼、小世美と会ったあとで凄く大事な話があるの。本当に大事な……」
「それもちゃんと聞く。大丈夫。鳩子が言う大事な話を聞き流したりなんて、絶対にしないから」
鳩子の表情が感極まったものに変わる。けれど鳩子はそれをぐっと堪えて、狼に背中を向けてきた。
「……じゃあ、行こう。ちゃんと小世美に『行ってきます』を言わないと、夢でふくれっ面されそうだからね」
「確かに、何も言わずに居なくなったら小世美は怒るかもしれないけど……僕たち、これからどこに行くか決まってるの?」
昨日から家にいなかった狼は、真紘たちの意向など知る由もない。だからこそ、鳩子の言葉に首を傾げる。
もしかして、鳩子が言う大事な話というのは、それについてだろうか?
狼がそんな事を考えていると、鳩子が狼へと顔だけ振り向かせてきた。
「大丈夫、それについても話すから」
「あー、うん。わかった」
もということは、また別の話みたいだ。
玄関の扉を開けて家の中へと入って行く鳩子を追って、狼も家の中へと入る。不思議だ。玄関の扉を抜けた瞬間。外とは違う、懐かしくて落ち着く匂いを感じる。
そして今にも奥の居間から小世美がひょっこり顔を出してきそうな気配があって、少しだけ狼は玄関で立ち止まってしまう。
しかし待った所で小世美が狼を出迎えることはない。
厳しい現実が何回でも狼を痛めつける。狼は何度か呼気をして、それから家へと上がった。そして古い木板の廊下を真っ直ぐ進み、一番奥の襖を開ける。
襖を開けると、そこは日当たりの良い和室になっていて、いつもは使われていない八畳ほどの客間の一つだ。家族が三人しかいないのに、無駄に広い家には使われていない客間が幾つかある。
まさか、この部屋がこんな風に使われるとは思ってもいなかった。
和室の真ん中に布団が引かれ、そこで小世美が眠っている。
顔に汚れなどなく、綺麗な寝顔にも見える。
「小世美、ごめんね。あたし、ずっと小世美の所来れなくて……」
鳩子がそう言って、小世美の側に座り込む。微かに鳩子の肩が揺れていた。狼は鳩子の反対側に行き、静かに腰をおろして小世美の顔を見た。
どうして、こんな綺麗な顔で眠っているんだろう?
これでは、本人を目の前にしても死んでいると思えない。ただ小世美がお澄ましして眠っているようにしか、見えないのだ。
あんなに、泣いたというのに、狼の目元から再び涙がこぼれ始めた。狼は両方の手で拳をつくり、強く握りしめた。
小世美を死なせてしまった自分への悲憤と、不甲斐なさを噛みしめる。それでも、小世美にちゃんと言わなければいけない。
「小世美、僕……また皆と一緒に立ちあがるからさ。ちゃんと見てて欲しいんだ。もしかすると、小世美に心配かけるようなこともあるかもしれないけど。ちゃんと僕は立ち上がるから」
途方もない幾星霜の話だ。けれどきっと小世美なら笑って頷いてくれるような気がする。そこに狼は勝手な寂しさを感じる。けれど小世美は頷くのだ。自分のために。
「なんか、変なの。昨日まで小世美よりも死んだ顔してたのに。あたしが見てない間に、生まれ変わった?」
小世美に話しかける狼へと、鳩子が目を眇めさせてきた。狼は涙を手で拭い、苦笑を浮かべる。
「うーん、どうかな? 小世美の前だから強がってるだけかも」
「ほほう。じゃあ季凛とかあたしに言った言葉も強がり?」
「かもしれないし、そうじゃないかもしれない。なんか、僕自身、区別がつかなくなってるかな。ぶっちゃけて言うと」
狼の言葉を聞いた鳩子が一息吐きだす。
「だよね。昨日の狼はすごくおっかない顔してたもんね。あんなの女の子に見せる顔じゃないと思いまーす」
「いや、そんな事言ったって、仕方ないじゃないか。僕だってあの時はいっぱい、いっぱいだったんだ」
「冗談……でもないけど、そうしとく」
「……なんか、妥協された感、凄いな」
目を細めて狼が複雑そうな表情を浮かべる。すると鳩子が何故か嬉しそうな笑みを浮かべてきた。さっきまで、すぐにでも泣きだしてしまいそうだったのに……。
そんな狼の気持ちを読んだかのように、鳩子が得意げな顔で口を開いてきた。
「この場でこれを言うのも、あれだけど……やっといつもの感じに戻れた気がする。何かそう思ったら、自然に笑っちゃうもんじゃん?」
「はは。そうかもね。僕も鳩子もシリアスが似合うってタイプでもないからね」
「いや、鳩子ちゃんだって可憐な乙女だし。シリアスになるときだってあるから。たまに思うけど、狼ってあたしのこと女子扱いしてないでしょ?」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
狼が生返事をすると、鳩子がジト目で狼を一睨みしてきた。鳩子に一睨みされて狼が黙っていると、和室の襖が開いた。
「あはっ。どんな状況? てか何で鳩子ちゃんが狼君を睨んでるの?」
根津や名莉と共に和室に入ってきた季凛が、微笑を浮かべながら首を傾げさせる。
「いや、狼があまりにも失礼だから」
「あはっ。狼君が女子に対して失礼ってことは、前から分かってたことじゃん」
「そうよ、鳩子。今さら直せるものじゃないわ」
三人からの散々なことを言われながらも、狼は不平も漏らすこともできない。三人が狼のために平然な態度を取ってくれていることがわかるからだ。
「みんな、昨日はごめん」
狼が部屋にいる四人の顔を一瞥して、頭を下げた。
きっと、僕が謝らなくても四人は気にしないんだろうけど。
そう思ったのだが、ちゃんと昨日のことを謝らなければ自分の気が晴れない。すると狼の元に根津がやってきて、狼の額を指で弾いてきた。
突然のことで、痛みよりも驚きの方が勝る。そのため狼は額を手で押さえながら、目をぱちくりと瞬かせて、根津を見上げた。
「狼に謝られたら、あたしたちも謝らないといけないでしょう? それに勘違いしないの。昨日の奴は喧嘩じゃないわ。ちょっと口調の荒い話合いよ」
「いや、確かに喧嘩じゃないと言われればそうなんだけど、話合いっていうのも微妙に違くないか?」
狼が呆気に取られながらも、根津に首を傾げる。
「いいえ。話合いよ。狼があたしたちに謝ってくるまではね」
まるでアンタが謝ったから『喧嘩』という名目になったと主張する根津に狼が、頭を垂れる。すると頭の上で、根津の愉快そうな笑い声が聞こえてきた。
「なんてね。あたしたちもごめんなさい。狼ほどじゃないけど……あたしたちも感情的になって、怒ってたのよ。まっ、季凛ほどじゃないけどね」
そう言って、根津が季凛を見る。
すると季凛がばつが悪いようにそっぽを向いた。
「季凛、悪いこと言ってないし。ウジウジしてた狼君がいけないんじゃない?」
「本当に季凛もへそ曲がりなんだから」
呆れた様子で根津が溜息を吐く。それから再び狼へと視線を移した。
「狼、これからあたし達は京都に行くわ。さっき聞いた話によるとまた面倒なことが起きそうなのよ」
「……そっか。だからさっき鳩子が小世美に『行ってきます』を言うって言ったのか」
その言葉を肯定するように鳩子が頷いてきた。
狼は立ち上がり、黙ったままデンメンバーの顔を見、それから綺麗な寝顔で眠る小世美を見た。狼は眠る小世美の顔を見つめながら、噛みしめるように言葉を口にした。
「行ってきます」




