何もできなかったからこそ、
狼はぼんやりと暮れいく、海を見つめながら立ち尽くしていた。ここは小さい頃、嫌な事があるとよく小世美と来ていた場所だ。
確かな喪失感はある。けれど実感はない。そのためだろうか? 一瞬自分が何を失ってしまったのか、分からなくなる。
だからだろうか? 涙がまったく出てこない。あるのは気怠さと疲労感と遣る瀬無さだけだ。
顔を俯かせながら、自分の手の平を見た。空虚な手だ。なにもない。今まで大切なものを握っていたはずなのに。それがもう失われている。
脳裏に小さく笑った小世美の笑みが浮かび、それがすっと溶けてなくなってしまう。
どうすれば、良かったのだろう?
どこをやり直せば、小世美は笑っていられただろう?
そんなことをぐるぐると途方もなく考える。答えなどはなくて、でも誰かに訊こうとも思わない。訊いた所で、どうなる? 何も変わらないじゃないか。
ああ、駄目だ。自分の頭の中が、絡み合って取れない糸みたいだ。意味のない自問自答ばかりが浮かんできて、行き詰まる。
行き詰まって、抜け出そうとも思えない。こんなに、自分の中が空っぽになったのは、初めてだ。空しくて、寂しくて、信じられなくて。
今自分がどんな顔をしているかも分からない。改めて狼は自分が弱いことを思い知った。自分は弱い。弱いからこそ、何の行動もおこせずに、呆然と立ち尽くしている。
目の前の海は、自分の気持ちなど無視して、綺麗な夕日に海面を染め上げ、空は青紫色から藍色へと変化していく。すでに藍色になった空には、一番星が皮肉のように綺麗に光っていた。
狼がこの時間帯にここに来ると、リプレイ再生された動画みたいに、この景色がいつでも見れた。こんな時くらい、別の景色を見せてくれてもいいのに。
この場所の風景や時間は、小世美がいようといまいと関係なく流れていく。
「小世美、僕はこれからどうすればいい?」
口の中が異様に乾いて、掠れた声が出た。
そんな狼の声を掻き消すように、海からの細波の音が耳朶を打つ。
行き場のない気持ちが、狼の中で衝突し、破裂し、静かになる。そしてまた衝突するのだ。
そしてその衝突する気持ちから、目を逸らすように、狼は目を閉じ、思い出を頭の中で反芻させた。
根津は名莉と鳩子を残して、一人家の外へと出て、目の前の小さな砂浜に立っていた。有り難いことに、ここには誰もいない。
ずっと今まで息が詰まりそうだった。まるで自分らしくない。けれど悲しみが胸の中で渦巻いている。
あたしは、小世美の友達で、デンの部長なのに。
根津は、自分の不甲斐なさに打ち拉がれていた。皆が悲しんでいるからこそ、自分がしっかりしないといけない。そう思うのに、自分自身すら叱咤することができない。
目を閉じて動かない小世美……そしてそれを抱える狼の姿。そして、衝撃と爆発。根津の中で三つの光景が瞼裏に、何度も思い浮かぶ。
その度に、目元に涙が浮かぶ。
誰かの前で泣くのは好きじゃない。だからこそ、人がいる前で泣きたくはなかった。それが今自分に出来る虚勢だった。けれど一人になった今……もうその虚勢を張っていることは出来なかった。
涙が頬を伝う。涙が空気に振れ、ひんやりとした冷たさを帯びる。けれど根津の内側は、異様な熱を帯び、口許は無様に揺れていた。
口許を手元で抑えながら、その場に座り込む。引きつった口から咽び泣く声が漏れた。
その瞬間、根津の腕についていた情報端末が光り、一人の名前が映し出される。
「なんなのよ……こんなときにぃ……」
でも……情報端末に映る、名前の人物だけには意地でも、落ち込んでいる所を見せるわけにはいかなかった。根津は目元の涙を拭き、一度息を吐く。
「なによ?」
できるだけ泣いていたことが、バレないように素っ気なく通信に出た。
通信のモニターには、陽向の顔が映し出される。その顔は不機嫌そうに歪められていた。
「あんたの不機嫌な顔を見るために、出たわけじゃないわ」
「どうして、俺がこんな顔してると思う?」
「知らないわよ。今、そんなこと考えてる暇なんてないもの」
「黒樹の妹のことは聞いた。だからこそ、今のおまえの態度が癪に触る」
「それこそ、あんたに関係ないじゃない! なんなの? あたしを怒らせるために、わざわざ通信してきたの?」
声を荒げながら、根津はすごく涙を流したくなった。どうして、こんなに悲しいときに、怒らなければならないのか?
「そんなわけないだろ!」
陽向が根津に負けないくらいの声で、怒鳴ってきた。そんな陽向に一瞬、根津が目を丸くさせる。
「誰が、落ち込んでる奴にそんなことするか! 俺はそんなことしない。そんな悪趣味は持ってない。ただ俺は……腹が立っただけだ」
「別に。あたしはアンタを怒らせるようなことしてないじゃない」
「いいや。してる。おまえは俺に見栄をはった。それが気に入らない」
「はぁ? あたしは別に見栄なんてはってない。あんたが勝手に言ってるだけでしょ?」
そう言い返しながら、図星を突かれたことに根津は、内心で動揺していた。
「どうせ、おまえのことだ。一人になって泣いてたんだろ?」
「どうして、そんな事言えるのよ?」
涙を拭いて一瞬見た自分の顔は、泣いているように見えなかったはずだ。それなのに、何故陽向は自分が泣いていたことに気づいたのだろうか?
「わかるに決まってる。俺はずっとおまえのこと見てきたんだからな」
いつもの陽向なら、こんな言葉絶対に言わない。ましてや、根津の目を見ながらなんて、絶対に。けれど今の陽向は、根津から視線を逸らさず、しっかりとした口調で言い切ってきた。
そういう気持ちに疎いと言われる根津でも、陽向が言った言葉の意味くらいわかる。だからこそ、次になんて言葉を言えばいいのかわからない。
「別に今は、何も言わなくていい。俺が言いたいのは……無理に気を張る必要なんてないってことだ」
「……そういうわけには、いかないわよ。だって、あたしは……何もできなかった」
最後の言葉を言ったとき、本当に自分自身が情けなくなって、また泣きたくなった。狼や小世美のために、自分は何ひとつとして、できなかった。それが悔しくて、悲しくて堪えられない。
根津の言葉をただじっと聞いていた陽向が、微かに眉間に皺をよせてきた。それを見て、根津は胸が締め付けられる気分になる。どうしよう? デンの部長であるくせに、何もできなかった弱さに失望されてしまったのかもしれない。
根津がそんなことを思っていると、陽向がゆっくりと口を開いた。
「何もできなかったのは、それこそ……おまえだけじゃない。いや、誰も何もできなかったからこそ、今の現状になってるんじゃないのか?」
陽向の静かで的確な言葉が、根津の心を揺さぶった。
「だったら、おまえを責める権利は誰にもないだろう。俺はおまえに悲しむなとは言わない。けど自分を責めるなとは言う。それに、自分が何かすれば何とかなるなんて、自惚れすぎだ」
陽向がそう言って、片眉を上げながら苦笑してきた。
「なにそれ? あんた、遠まわしにあたしが弱いって言いたいわけ?」
「ふん、前から言ってることだ。おまえは弱いって。だからおまえは……すぐ強がろうとするんだ」
「そんなのあたしだけじゃないわ。そう、あたしだけじゃ……」
言葉を切って、根津の頬に再び涙が流れた。
悔しい。まさか陽向に泣き顔を見られるなんて……
「泣いて……おまえがおまえらしくなるなら、俺はそれでいい」
「……本当に、今日のあんたらしくないわね。でも、今はお礼言っとく」
「当然だ。有り難く思え」
やっといつものような陽向の態度に、根津が……
「あと、あたしアンタのこと嫌いだからね。そのこと忘れないでよ」
と冗談めいて言うと、少し陽向が目を見開いてから、陽向がぶっきらぼうにそっぽを向いてきた。
「おまえに、嫌われてるのは今に始まったことじゃない。だからそんなこと言われたくらいで、俺がめげるか」
だったら、態度を改めなさいよ。内心でそう思ったものの、根津はその言葉を飲み込んだ。
「あっそ。じゃあ、あたしはやること思い出したから、通信切るからね」
「なっ、おいっ!」
少し慌てた様子の陽向を見て、口許に笑みを作った根津はそのまま通信を切った。慌てる陽向の姿を思い起こすと、おかしくて笑いそうになる。
いや、向こうに戻ったら、バカにしてやろうと思った。
だから、その前に……沈みきった空気を、デンのメンバーを、狼を一喝してやろうと心に決めた。
「鳩子……」
名莉がそっと、部屋の隅で膝を抱え俯いている鳩子の肩に手を置いた。すると微かに身体を揮わせただけで、鳩子からの返事はない。
今、この部屋にいるのは名莉と鳩子だけだ。ついさっきまで、根津もいたのだが、外の空気を吸いに行くと言って、出て行ってしまっている。
そのため、名莉の言葉が部屋の静けさに押し潰されるのに、そう時間はかからなかった。鳩子は沈黙を続けている。鳩子から聞こえるのは、微かな呼吸だけだ。
無理もないのかもしれない。名莉は顔を俯かせたままの鳩子を見ながら、そう思った。
小世美が死んだ瞬間、狼とやり取りをしていたのは鳩子だ。
だからこそ、鳩子が抱える辛さは名莉にはわからない。いや、自分以外の感情を他人が計り知ることなんて、どんな人物にもできるわけがないのだ。
けれど、その痛みを計り知ることはできなくとも、知ろうと努力することはできる。そのために、やれることをしよう。
「鳩子、聞いて。私……ずっと小世美には敵わないって思ってた」
そう切り出しながら、名莉は鳩子の肩から手を離し、力を込めて握った。
「夏のとき、狼に自分の気持ちを言ったの。狼を困らせることになって、言ったこと……後悔したりもしたけど。でもそれでも私は、狼の傍にいたいって思った。だから私は、例え自分の気持ちが狼に受け入れてもらえなくても、一緒にいようって決めた。けどやっぱり、一緒にいればいるほど、狼の気持ちが見えてきて……その気持ちを守ろうって思った。でもその気持ちになったのは、どこかで小世美に敵わないって諦めてたから」
名莉は、一度きつく自分の唇を閉じた。
自分は決めた。狼の大切なものを守ろうと。その決意は名莉の中で決めたときから、強固な誓いにも似た気持ちだった。
自分の大切な人の大切な人を護る。
なんて滑稽な綺麗さを持った言葉だ。聞く人にとっては美談だと思うかもしれないし、偽善者だと思うかもしれない。そして後者の意見が真実に近いと名莉は改めて、思った。
自分を自虐しているわけではない。名莉が決意したときに、『友人である小世美を護る』ではなく『大切な人の大切な人を護る』という事を思った時点で、そこに一種の純粋さはないように思う。
狼というフィルターを通さなければ、小世美を護ろうと思えなかった自分に嫌気がさす。
そもそも、小世美を護ろうとしたのも、狼と一緒に居るための都合のいい口実だとしたら? だとしたら、なんて自分は嫌らしく、浅ましいのだろうと思う。
ずっとそんな自責の念が名莉の胸の中に漂っていた。
けれど小世美の死を目の前にして、ある意味、その自責の念が消え去った。彼女の死に対して、これまでに感じたことない、悲しい気持ちが名莉の中に溢れてきた。それこそ、自分の気持ちが受け入れてもらえなかったよりも。
「小世美は絶対に敵わない相手……でもそれと同時に私にとってすごく大切な友達。小世美を大切だって思った気持ちに嘘なんてない。それは、鳩子も同じでしょ?」
名莉がそう訊ねると、ゆっくり鳩子が顔を名莉の方へと上げてきた。その目は赤く腫れていて、それでも涙が流れている。
名莉はそんな鳩子を見て、目頭が熱くなった。
「あたし、あたし、小世美が死ぬのを、ただBRV越しに感知するしかなかった。でもわかるんだ。その時の情景が。そこにいるみたいに。当たり前だよね? あたし情報操作士なんだから。あたしの因子を通して、その場の空気、熱、臭い、全部自分に伝わってくるんだから。でも、それなのに、あたしはただそれを見てるだけ。見てるだけなんだよ! 小世美が死ぬ前に、手を握ってあげることもできやしない!」
膝を抱える鳩子の手が再び強く、握られる。それを見ながら、これは情報操作士の苦しみでもあるような気がした。
もしかしたら、自分たちが戦ってそれをサポートしている鳩子が、いつも思っていることなのかもしれない。
「鳩子、苦しいんだね……でも、私たちには鳩子が必要。いつも私もみんなも鳩子に助けられてるから。だから、見てるだけなんて言わないで。鳩子は見てるだけなんかじゃない」
名莉は手に力の入った鳩子の手を握り、そして涙を流した。




