人間の定義
それから、フィデリオとエトヴィンは彼が所有する青のランボルギーニのアヴェンタドールに乗り込み、彼の私有の飛行場まで車を飛ばす。エトヴィンの家から約三十キロ離れた所に彼のジェット機が置いてある飛行場がある。道はフィデリオが帰ってくるときよりも空いている。そのため、エトヴィンは鼻歌混じりにビールを飲みながらどんどん速度を上げて、車を走らせている。
フィデリオも彼に続いてビールを飲むが、彼のように鼻歌を歌いながら飲める気分ではなかった。エトヴィンには、もうすでに大方の事情は説明してある。けれど彼は肩を竦めながらフィデリオにこう言ってきた。
「確かに。弟が殺されるかもしれない時に気持ちが落ち着かないのはわかる。けどな、フィデリオ……今から気を張ってても仕方ないだろう? 前に敵がいるわけでもない。それにおまえが何も出来ず止まってるわけでもない。なら、敵がいない間くらい肩の気を抜いたらどうだ? 敵を前にすれば否が応でも気なんて張ることになるんだ。ほら、飲め、飲め。今のドイツの若者はビール離れしてるとか言われているが、俺からしたら悲しいくらいだ。ビールの本場はドイツ。それは世界中の奴等が認めてる。例え近くに種類が豊富のベルギーがあったとしてもだ。それに中国にある青島にビールを伝えたのも俺たちドイツだ。それなのに、若者がビールから離れるなんて、ドイツの文化から離れているようなもんだ。おまえもそう思わないか?」
後半は少し愚痴っぽくなっていたが、確かにそうだとフィデリオは思った。目の前に敵がいないのに、気を張っていても、意味はない。気を張っていたら普段見えているものが、急に見えなくなることだってある。もしかしたら、今のフィデリオも気を使って見えなくなっている物があるかもしれない。
「今、俺が見落としているものって何だろう?」
溜息を吐いてからフィデリオはビールを飲む。口の中にビールの濃くが広がり、喉の奥へと押し込む。するとさっきまで口の中に充満していた濃さが嘘のように消え去り、後にはあっさりとした後味しか残らない。
ドイツビールは、ドイツ国内でも実に様々な製造法がある。その製造法は州によってことなっていて、その基準を満たしていないとビールとして認められない。
「基準を満たしていないビールはビールとして認められない、かぁ……」
頭でふと思い浮かんだ言葉を口に出して呟くと、夜の田園風景の中にある道を快調な速度で走らせているエトヴィンがその言葉に反応してきた。
「何か引っかかることでもあるか?」
「あ、いえ……別に引っ掛かったわけじゃないんですけど、ふと口に出してて」
「そうか」
フィデリオの言葉を短い言葉でエトヴィンが切る。それからエトヴィンは沈黙になった。さっきまで歌っていた鼻歌ですら歌わない。何か考え事をしているようにも見えたが、何を考えているのかまではフィデリオには想像がつかない。
そうしていると、エトヴィンが今まで真っ直ぐに走っていた道から少し細い道へと曲がった。それから細い道から少し速度を落として走行し、エトヴィンが所有するHimmelburg飛行場へと入った。その飛行場の中にある一つの倉庫の脇に車を止めた。
「よし、こっちだ」
エトヴィンに手招きされ、フィデリオはその後についていく。倉庫には白塗りの大きなシャッターの横に人が出入りするための扉がついており、エトヴィンはその扉の鍵を慣れた手つきで開けた。
暗い倉庫内に入ると、微かに砂埃の様な匂いがフィデリオの鼻をくすぐってくる。そしてそう思った瞬間に倉庫内の電気が、何かが弾けたような音を上げ点いた。
電気が点いた倉庫内には、二台の小型ヘリと一台のジェット機が威風堂々と停まっている。その圧巻な面持ちにフィデリオが茫然としている間に、エトヴィンが倉庫のシャッターを開き始め、フィデリオをジェット機の方へと呼んできた。
「フィデリオ、何してる? 早く来い」
「はい」
返事をしながらフィデリオはエトヴィンがいる所まで行くと、エトヴィンがニィッと笑みを浮かべてきた。
「こいつなら一時間もかからずに、ハンブルクまで着きだろう。さぁ行くぞ」
エトヴィンの言葉にフィデリオも笑みを浮かべながら頷いた。
そしてすぐにパイロット席へと乗り込み、エトヴィンがエンジンを始動させ、すぐにハンブルグ国際空港へと通信を始めた。その間にもエトヴィンは機体を倉庫から外の滑走路へと移動させ、離陸をするための準備を始めている。
フィデリオがハンブルク空港とのやり取りをしているエトヴィンの方を見ると、エトヴィンが手でグッドポーズをフィデリオに向けてきた。
これを見る限り、ハンブルク空港への着陸許可が取れたらしい。きっとこんなにすぐに空港への着陸許可が取れたのも、エトヴィンが元ドイツ空軍で名の知れた人物だからだろう。
エトヴィンは操縦桿を握り、エンジンの回転数を上げていく。するとエンジンモーターの音が今までよりもさらに大きくフィデリオの耳に聞こえてきた。
そしてその音が聞こえきたのと同時に、機体のタイヤが滑走路の地面を滑る音を鳴らし、機体移動速度がどんどん上がって行き……機体は躊躇いなく滑らかに地面からの離陸を成功させた。
機体は多少、揺れながらも的確に高度を上げ、飛び立った飛行場がミニチュア模型のようになってしまった。そして雲を抜けると、エトヴィンが機体を平行にさせた。
平行した機体は驚くくらいに揺れはしない。さっきの離陸の操縦といい、やはりエトヴィンが技術のある空軍の軍人だったことは一目瞭然だ。それはきっとビールを大量に飲んでいようと、飲んでなかろうと変わらないだろうと、フィデリオは思った。
「こんな安定して、機体を操縦できるなんてエトヴィンさんはやっぱり凄いですね。感服しました」
「そうか? なら良かった。そういえば……初めておまえの父親を乗せたときも、素晴らしい操縦技術だと褒められたよ。あの時、俺はおまえたちのような特別な力を持った奴らでも感心することがあるんだと思ったけどな」
「それはしますよ。あんな滑る様に機体を離陸させることも、こんな風に微塵も揺れを感じさせない操縦なんて俺や父さんじゃ出来ませんから。もし、操縦を教わって機体を動かせたとしても、まずこんな凄い操縦は出来ない。だから父さんも何かあるとエトヴィンさんに頼むんだと思います」
フィデリオがそう言うと、エトヴィンが前を向きながら口許だけ笑ってきた。
「そう言われると、本当に思い知るよ」
「思い知る? 何をですか?」
「おまえと俺では何も変わらないってことだ。それは年齢とか見た目とか人生経験とか素質とか特殊な因子を持ってるとかの違いじゃない」
エトヴィンの言っている意味が分からず、フィデリオが少し首を傾げる。上げられた例以外でエトヴィンが自分と何で比較したのかが分からない。
そんな疑問符を浮かべるフィデリオに回答を返すように、エトヴィンが口を開く。
「俺が言いたいのは、人間の根本の話だ。さっきおまえは言ったな? 基準から外れたビールはビールとしては認められないって。でも俺は思うんだ。人間の基準って何だ? 他の動物と違って秘密を作ることか? 嘘をつくところか? 言葉を使うところか?」
「俺には、よく分かりません」
エトヴィンの言っていることを踏まえてフィデリオは少し考えてみたが、考えれば考えるほどよく分からなくなっていく迷路のように思えて、フィデリオは考えることを諦めた。
「まぁ、きっとこれらを研究している奴等からすれば、色々意見があるんだろうが……断定した定義ってないだろ? だから俺はこう思うんだ。人間っていうのは、自分以外の誰かのために怒ったり、泣いたり、笑ったり、感動したり、認めたりすることが出来るのが人間だと思ってる。動物は自分本位で喜んだり怒ったりは出来るが、他者のためにっていうのは、出来ないものだろう? まぁ、つまりそれを出来る俺やおまえは因子を持っていようと、いまいと人間だってことだ。でもそれを俺が分かったのも、空軍を止める少し前だけどな」
「…………それが分かる前は、エトヴィンさんは俺たちみたいな人をどう見てたんですか?」
少し訊くのを躊躇ったが、フィデリオは素直に訊ねてみることにした。自分の中で知っておいた方が良い様な、そんな気持ちになったからだ。
「そうだな、俺が今の考えに至る前は、はっきり言っておまえたちの事を良く思っていたかっていうと、そう思っていなかった。むしろおまえらは生きた兵器なんじゃないかとさえ思ってた。だってそうだろ? おまえたちみたいな奴等と俺たちが戦っても、勝てる見込みなんて低いんだ。それはどんなに兵器の火力を上げても、銃弾数を増やしても、なんら変わらない。だから俺はできるものなら、そんな兵器と関わりたくないと思ってたんだ。きっとそう思ってるのは俺だけじゃない」
「そう、ですか」
大体の予想はしていたつもりだが、いざ言葉にして聞かされると、胸に重い物が圧し掛かったようになる。自分たちが人間と思われていないという事実が、フィデリオやフィデリオの周りにいた人間の努力を全て否定してきたような、そんな感じに思えた。
フィデリオがアストライヤーになりたいのは、ゲオルクが国の為に色々と頑張っている姿を見て、感動したからだ。自分もあんな風になりたいと思ったからだ。
でもそれなのに……
「エトヴィンさん、正直な所……俺頭が混乱してます。すみません。自分から質問したのに。けど今は初めて知ったことに、どんな言葉を並べて、解釈して、受理すればいいのかわからないんです」
「だろうな。それをするには、おまえはまだ若すぎる。ただ一つこう言っておく。人の見方なんて、少しのきっかけで変わるもんだ。そう俺がおまえの父親やフランツと話して変わった様にな。だからもし、おまえが今のままで良くないと思うんだったら、変えてみろ。そして今おまえがやることは、その一歩に繋がるかもしれないぞ」
「エトヴィンさん……」
フィデリオが少し目を見開いてエトヴィンの方を向くと、エトヴィンが照れたように肩を竦めて
「もうすぐで、ハンブルクだ。着陸するぞ」
と言ってきた。




