アウトサイダーとインサイダー
「母さん、ただいま。父さんとは連絡ついた?」
家に帰り、濃い緑色のソファーに座りながら頭を抱えていた母親であるレアにフィデリオが訊ねると、母親が頭を頷かせてきた。
「ええ、さっき。もうドイツで起こってることは近隣諸国の間でも大きく取り上げられているそうよ。ゲオルクたちもオランダでの事を早々に切り上げて、飛行機でこっちに戻ってくるって」
「そっか。母さん……犯人たちから送られてきた動画だけど、俺にも見せてくれる?」
フィデリオがそう言うと、レアはテーブルに置いてあったパソコンを開き、一件のメッセージに添付されていた動画を開いた。
動画の内容は、ニュースで流れていた物と同じだ。けれどその動画に映っている人質を注視してみると、前の方に座らされているフィリックの姿が見えた。傍にいるレアは動画を見ないように顔をパソコンの画面から逸らしている。
フィデリオは目を細めながら、この動画の中に場所が特定出来そうな物が映っていないかを探す。動画を見る限りでは、何かの建物の地下のように見えるが、場所が特定できそうな物は映っていない。
そして映像を見ながらフィデリオは、犯人の言葉から滲み出ている頑迷さに辟易とした怒りを感じた。彼等は、人質を捕ったというわりに、誰に対しても要求をしていない。それを考えれば、この事件は無差別殺人に近いように感じる。けれど無差別殺人と違う点は、わざわざ殺す時間を設定し、その予告を家族に向け発信している点だ。
この二つを考えてから、犯人たちの行動を思料すると、ドイツに対して何かを訴えようとしていて、その見せしめの為に、捕まっている人たちを殺すという事で納得する。
けれど彼等が何を訴えようとしているのか? 全体主義? 偏狭な民族主義? 頭で色々考えるがどうもしっくりと来るものがない。
顔を顰めさせながらフィデリオが黙考していると、フィデリオの情報端末にデトレスからの通信が入った。
『フィデリオ、今一つだけこの事件に関与している人物の目星がついた』
「本当に? それは誰?」
『カリン・ゲーリング、あのゲーリング家の血縁者だ。しかも、俺たちは一度海でその女と会ってる。直接的なやり取りはなかったけどな。その女はトゥレイターのナンバーズだ』
デトレスの言葉を聞いてフィデリオは、ふと日本で過ごした夏のことを考えた。
あの中に、今回の件の主犯格がいる。
「一緒に夏を楽しんでる場合じゃなかったな」
『確かにな。でも今はそれを悔悟している場合じゃないだろ? 奇数な偶然とはいえ、俺たちはあそこで今回の主犯格を逃してる。だったら、俺たちがやるべきことは、捕まっている人たちを誰ひとり欠けることなく救出して、罪を改めさせる。絶対にな』
デトレスが強い決意の籠った視線をフィデリオに向けてきた。フィデリオもそんなデトレスに力強く頷く。
「まずはどこに捕まっている人たちがいるかを探し出さないと」
『ああ。フィデリオ、何か怪しい目星とかあるか?』
「うーん、そうだな……俺的にはハンブルグとかが怪しいと思う。最初はベルリンも怪しいかな? って思ったんだけど、今デトレスは国際防衛連盟のベルリン支部にいるんだろ? でもデトレスからはベルリンで変わったことがあったって言わなかったし、それを考えたら前からトゥレイターの支部があるんじゃないかって噂されてたハンブルグの方が、犯人たちがいる可能性は高いと思う。主犯がトゥレイターのナンバーズとなったら、尚の事ね」
『確かにそうだな。奴等のアジトだったら人質を隠す必要もないし、ハンブルクだったら万が一のことが合った場合、水路を使った脱出ルートも確保できるからな。よし、じゃあ俺はこれからすぐにハンブルクに向かう。フィデリオ、おまえはどうする? さすがに車だと距離がありすぎるだろ?』
目を眇めたデトレスがフィデリオにそう訊ねて来た。確かにバンベルクからハンブルクまでは結構な距離がある。バンベルクがドイツ南部に位置しているとしたら、ハンブルクは丁度真上のドイツ北部にあり、ベルリンからアムステルダムに行くのと、そう変わらない距離がある。
けれどだからといって、行かないという選択肢は勿論ないし、ハンブルクに向かうのに時間を費やすこともできない。
「よし、ちょっとエトヴィンさんに頼んで、自家用ジェット機を出してもらうよ。確実にそっちの方が速い」
『なるほどな、確かにエトヴィンさんのジェット機だったらかなり早く着くな。それじゃあアルスター湖に付近で待ち合わせな』
「わかった。それでいい。じゃあデトレス、また後で」
デトレスとの会話を切り、フィデリオはソファーに座って不安げな表情をしているレアへと向き直る。
「ちょっと今から出てくる。心配しないで。フィリックは俺が必ず連れて帰るから」
フィデリオがそう言うと、レアが頷き、精一杯の笑みを作って来た。
「わかったわ、フィデリオ。いってらっしゃい。私も自分のやれることはやるつもりでいるけど。貴方がフィリックを連れて、無事に帰ってくるのを待ってるわ」
「ありがとう。母さん」
そう言って、フィデリオはゲオルクの知り合いで元ドイツ軍空軍に所属していた、今は私営の航空会社を立ち上げているエトヴィン・ダーヴィットの家へと向かった。
エトヴィンは、バンベルクに流れるレグニッツ川の川沿いに住んでいる。フィデリオの家は街の少し高い場所に位置しているため、フィデリオは家にある広い庭へと出て、レアがいつも手入れをしている花壇が植わっている庭を抜け、そこから見える下の街へと一気に飛び降りた。そして坂の下にある家の屋根に着地し、そのまま跳躍して、エトヴィンが住む家まで向かう。
エトヴィンの家はオレンジ色の屋根に白塗りの壁で一階部分はそのまま船で川に出られるような作りになっている。
フィデリオはレグニッツ川を間に挟んで向こう岸に建っているエトヴィンの家に、川を一気に跳躍で飛び越えて行く。フィデリオが跳躍しているレグニッツ川は川岸に建っている家の明かりが水面に反射していて、そう幻想的な美しさを醸し出しているが、水の流れは速い。しかも今はもう午後の七時。大きい都市とは言えない、この街の店は早々に閉まっており、辺りは閑散とした雰囲気に包まれている。そのため川の流れる音が昼間よりも増幅して、フィデリオの耳に届く。
そんな川の音を聞きながら、フィデリオはエトヴィンの家へとたどり着き、力強く玄関をノックした。
すると、すぐに扉が開かれ、短く切られた金色の髪が少し薄くなり、顎には立派な髭を生やしたエトヴィンがフィデリオを出迎えて来た。ドイツの気候は元々、セツナがいる日本のように暑くはならず、八月を過ぎた頃は、外気の温度が二十度を下回るのだが、エトヴィンは少し肌寒くなってきた外の気温に対抗するように半袖のシャツを着ており、体つきも前に見たときよりも少しお腹が大きくなっているような気がする。
「何となく……来る気がしてたよ。それで用件は?」
「話が速くて助かります。あの、エトヴィンさんにジェット機を出して欲しいんです。ハンブルグまで。理由はハンブルグに向かいながら、言います」
真剣な表情のフィデリオがそう言うと、エトヴィンが目尻にある皺を濃くしながら笑って来た。
「少しせっかちな所は、父親譲りだな。ゲオルクは冷静な癖にせっかちな所がある奴だからな。まぁ、いい。今、車の鍵と景気付けの代物を持ってくる。少しだけ待ってろ」
フィデリオが何かを言い返す前に、エトヴィンは踵を返して家の中へと入って行く。エトヴィンの家は気の板張りになっていて、玄関のすぐ前には、ニスが綺麗に塗られた木製の階段、そしてその階段の横にダイニングに続く細い廊下があり、その廊下にはエスニックな模様が入った絨毯が敷かれている。
フィデリオはエトヴィンが戻ってくるまでのしばしの間、その絨毯を眺めながら今も恐怖に怯えているであろう、フィリックのことについて考えた。
今フィリックがどんな状態にいるのかはわからない。フィリックが感じている恐怖すらフィデリオには、予測の範疇でしかない。勿論、何回か父親と共にトゥレイターの者たちと戦って、戦場での生々しさを経験したことはある。フィデリオが初めてそれを味わったのは、十三くらいの時だ。あの時は、初めて人から信じられないほど流れる血や、匂い、断末魔を聞いて恐怖に思ったのを覚えている。
けれどこのときの恐怖は、今フィリックが感じている恐怖とは種類が違う。フィデリオは直感的にそう思っている。あのとき自分が感じた恐怖がアウトサイダー的だとしたら、フィリックが感じているのはインサイダー的な恐怖だと思っている。そうフィデリオの時と今のフィリックの場合では、何もかもが違う。あの時のフィデリオでも、身を守るくらいのことは自分自身で出来たし、逃げることもできた。そうゲオルクや周りにいる大人たちに補助されながら、戦場に立った。そしてそれは大人たちから守られながら、戦場の厳しさやそこで感じる恐怖を学んだに過ぎない。しかしフィリックの場合は違う。フィリックはフィデリオのように大人たちに守られているわけではない。自分で自分を守れるわけでも逃げられるわけでもない。そんな状況でフィリックは、攻撃的な恐怖に教われている。
それを考えるとフィデリオは胸が苦しくなった。自分が今こうしていることすらもどかしい。
「随分、苦い顔をしてるじゃないか? それに手にも力が入っている」
家の奥から戻って来たエトヴィンが、車の鍵と二本のビール瓶を持ちながらフィデリオに声をかけてきた。
「すみません、少し考え事をしてて……」
「俺に謝ってどうする? ほら、若いうちから顔に皺なんか寄せてないで、さっさと俺の車に乗れ。ついでに俺所有の飛行場に着くまでの間、ビールでも飲もうじゃないか。勿論、飲まないとは言わないだろ?」
フィデリオが下げていた視線をエトヴィンの方に向けると、彼はフィデリオの重い気持ちを軽くさせるように、茶目っ気のあるウィンクをしてきた。
「ええ、是非いただきます」
フィデリオはエトヴィンにそう返して、苦笑をこぼした。




