悩む乙女と実の父親
おかしい。
何かがおかしい。
鳩子は部室内に流れる妙な空気を感じ取りながら、部室にあるパイプ椅子に跨る形で座りながら唸っていた。
今は根津が考えた訓練メニューを終え、寮に帰る前のちょっとした休憩時間だ。
最初はまったく備品という備品がなかったこの部室も少しずつ備品を揃え、今ではけっこう快適に過ごせるようになった。
そして、唸る鳩子の前では狼と名莉に、今ではデンと一緒にいる事がお馴染みの顔となった小世美が、皆の飲み物やちょっとしたお菓子を用意して、テーブルに並べている。
この光景を見ている分には、別におかしいことはない。
そう、ないはずだ。
けれど鳩子は妙に何かが引っ掛かる。
「ハトちゃん、どうかした?」
鳩子が唸っていると、テーブルに飲み物などを並び終えた小世美が、きょとんとした表情で鳩子の顔を覗き込んで来た。
自分の顔を覗き込んで来た小世美に、今鳩子の中にあるモヤモヤとしていることを言ってしまおうか?
鳩子は一瞬そう思ったが、口元でグッと堪えた。
なんか……今それを言ったら、上手くはぐらかされてモヤモヤが大きくなるか、この場の空気が凍り付くかのどちらかになるような気がする。
「別に~。ただ、ネズミちゃんの訓練メニューが前よりパワーアップしてるなぁと思って」
「なによ、それ? 唸ってると思ってたら、あたしに対する不満だったわけ?」
鳩子が話を根津の訓練メニューへの不満に切り替えると、根津が心外といわんばかりに目を細めて鳩子を見てきた。
「えー、だってほら、夏休み明けで身体もまだ本調子じゃないんだし、最初からハードな訓練って、嫌でしょ」
「本調子じゃないからこそ、早く身体を本調子に戻らせるんでしょうが。直に体育祭もあるんだし」
鳩子の言葉に根津が正論を吐き、そっぽを向きながら用意してもらった飲み物を口にしている。
「でも、やっぱり夏休み明けは、なんか身体が怠けちゃうよね。私、運動は苦手な方だし」
小世美が苦笑笑いを浮べながら、短く舌を出した。
鳩子はそんな小世美に頷きながら、名莉と普通の会話をする狼と、飲み物を飲みながら口を開けない季凛を見た。
なんだろう?
やっぱり物凄く鳩子の中で引っ掛かる。
まるで歯と歯の間に、何かが詰まったときのようだ。
早くすっきりしたいのに、中々すっきりできない。
そんな嫌な引っ掛かりが鳩子の中をグルグルと回っている。
根津は変な所で鈍感なため、今のこの妙な空気に気づいていないかもしれないが、唯一、鳩子と同じように、この変な空気に唯一気づきそうな季凛が、口を開いてこないというのも、どうもじれったい。
鳩子はパイプ椅子をガタガタと揺らし、唸る。
普通にだけど、どこか虚構っぽい。
そしてそれを醸し出しているのは、それとなく会話している狼と名莉の二人だろう。
二人に対して何かあった? と訊いてしまえば話は早いのだろうが、それをこの場で聞く勇気が、悔しいけれど今の鳩子にはない。
まさか、メイっちが狼に告白したとか……
……大いにあり得る。
けれどもしこの考えがあっていたら、鳩子にとってかなりリスキーな事だ。
多分、隠れて付き合ってます的な、まさかの超絶展開はない……とは思う。本当に多分。
鳩子が自分の考えを否定してみたところで、やはりその否定に断定的な確証はない。
もしかしたら、この場に居るメンバーに気を遣って、付き合っているという事実を隠して、今まで通りの接し方をしているのかもしれない。
いやけれど、名莉も狼も変に律儀な所があるため、付き合ったら皆に言ってきそうな気もする。
ならば、もし名莉が狼に告白したと仮定して、狼たちが変な律儀さを出すのだとすれば、今のこの状況は、名莉がフラれたという憶測を立てる事もできる。
けれどそれなら、何故、名莉と狼は普通に会話ができるのだろうか?
鳩子は今まで誰かを好きになったこともなければ、告白した事だってない。だから、もし自分の気持ちを断られた後、その相手とどうなるのかは、鳩子は一般常識の範疇でなら知っている。
相手に断られても、普通に接する事が出来る人がいるのも知っている。
けれどそう類の人は、恋愛の場数をそれなりに踏んだ人でないと出来ないと鳩子は思う。
きっと鳩子自身、狼にフラれたら、そのまま話さなくなるというのは無いだろうが、それでもやはりフラれた直後は、気まずくなってしまうと思う。
初めて異性を好きになって、その恋が破れると言うのは、きっと今までに体験したことのない衝撃だというのが予想できる。
だからこそ、鳩子は狼にまだ自分の想いを告げる事は出来ない。
まだ名莉が告白したという事が確定していないというのに、もしもの事を考えただけでこんなにも頭が痛くなってしまう。
鳩子がそんな事を黙考している間に、メンバーの会話は月末にある学校の体育祭の話になっている。
後頭部の体育祭は学年対抗のため、体育祭の時の学年毎の一致団結は凄まじいらしく、今の高等部は誰が呼んだかは分からないが、均衡の一年、特殊な二年、力の三年と呼ばれていて、学年カラーが三学年ともかなり出ているらしい。
しかも明蘭の体育祭は、一般的な競技にBRVと因子を組み合わせた競技になっているため、リレーはリレーでも、対抗選手を意識して対策を練らないと、相手からの妨害を受けたり、相手を妨害したりすることが出来ず、チームの勝利へとは貢献できないシステムだ。
そのため、学校のBRVを使った授業は、体育祭を意識した授業内容で、力の三年にどう動くか、特殊な二年への対処法などが課題として出されている。
誰がどの競技に出るかは、今度の一軍と二軍の一年合同の作戦会議で決定されるため、自分がどの種目に出ることになるのかを、今の時期の生徒の間での話題として持ち出される。
けれどそんな話は、今の鳩子にとって、どうでも良い話だ。
基本、情報操作士は競技に出ると言うよりは、その選手のサポート係として動くことになるため、競技の心配は皆無だ。
ただ情報操作士のサポートは、選手にとっても重要であることは変わりないため、情報操作士は情報操作士だけの話し合いが、別に設けられていて、別に気楽に過ごせるわけでもない。
鳩子はそんな明蘭学園の体育祭の話を聞きながら、溜息を吐いた。
今の鳩子には体育祭よりも重要な案件がある。
だが現実的な音声での会話は、体育祭についてしか話されていない。
「鳩子も、ちゃんとやる気出しなさいよね?」
鳩子がぼーっと話を聞き流していると、根津が目を眇めながらそう言ってきた。そのため、鳩子が肩をすぼめて反応を返すと、根津が脱力するかのように息を吐いた。
「まったく、鳩子は……。アンタ、この前のWVAの試合で、結構みんなから期待されてるんだからね?」
「へぇー、やっぱり皆、鳩子のサポートに期待してるんだ。なら、鳩子も良かったじゃないか。なら、頑張らないと」
「まぁ……ね」
狼が根津の言葉を聞いて、鳩子にへらりと笑ってきた。
そんな狼の顔を見て、鳩子は短く答えながら、どこかやる気を出してしまいそうになっている自分に気づいていじらしく思う。
しかも、狼に笑った顔を向けられただけで、さっきのモヤモヤ感がどうでもよくなってしまうから、恐ろしい。
「あたし、顔が汗でベタベタする気がするから、水道で顔を洗ってくる」
狼の笑顔一つで、考えなくてはいけない事も軽く流してしまいそうな自分の危うさをリセットするために、鳩子は勢いよくパイプ椅子から、立ち上がり部室の外へと出た。
鳩子は部室の外に出て、そのまま校舎近くの水道まで走った。
「危ない、危ない。あの笑顔に流される所だった……」
鳩子は額の汗を手で拭い、それから水道の水で顔を洗った。
冷たい水を顔に感じ、さっきよりは頭の中が冷静になった気がする。
あたしとしたことが、危うく一人で頭をパンクさせちゃう所だった。そうだ、ここはもっと冷静に状況判断をしないとね
冷静になった思考で鳩子が自分にそう言い聞かせていると、一つの影が鳩子に近づいて来た。
鳩子がそちらに視線を向けると、明蘭ではない制服を着た少年が立っていた。
そして少年は一度、辺りを見回してから再び鳩子へと視線を戻し、口を開いてきた。
「貴様に聞く。大城晴人の息子はどこにいる?」
「大城晴人の息子はどこにいるって、いきなり訊かれても、分からないし……むしろ、君は誰ですか? って感じなんだけど」
鳩子が偉そうに変な事を訊いてきた少年にそう答えると、少年は何故か呆れた様に溜息を吐いた。
「初代アストライヤーである人物を知らないとは……宇摩の御当主もどんな教育をしているんだ?」
少年は苛立たしそうに顔を顰めている。
その間、鳩子の存在などまるで気にしていない様子だ。
この傲慢な態度……何か腹立つ。
鳩子が自分の事を丸無視してくる少年にじんわり怒りを感じて居ると、そこに袴姿の真紘が目を丸くしてこっちへと向かって来た。
「大城雄飛。貴様、ここで何をしている?」
真紘が鳩子と少年の間に入り、厳しい視線で少年を睨みつける。
すると少年は、そんな真紘に眉を顰めた。
「輝崎の当主か。貴様なら話は早い。大城晴人の息子を連れて来い」
「それはできない。それにこの学園は部外者の立ち入りは禁止だ。去れ」
「何?」
冷たい口調で言い放つ、真紘に少年が不服そうに殺気を放つ。
「もう一度だけ言う……さっさとこの場から去れ」
少年から殺気を放たれても、真紘に動じる様子もなく、淡々と言葉を吐く。
「輝崎、この件は大城の問題だ。なら、早く貴様はこっちが求めている物を差し出し、こちらの話に首を挟まない方が利口だと思わないか?」
「同じことを言わせるな。俺は貴様の話に乗りはしない」
「強情な奴だ。なら俺は俺で捜し出す。大城晴人の息子をな」
「させはしない」
「黙れ。貴様に俺の邪魔などさせるものか」
真紘に吠える様にそう言った少年は、踵を返してどこかへ行ってしまった。
「あれって、誰? 真紘の知り合い?」
少年の姿が消えた後で鳩子が真紘に訊ねると、真紘は顔を顰めたまま頷いてきた。
「まぁな。あの者は大城雄飛。九卿家の一つである大城の家の者で、現当主の息子だ」
「なるほどね。それで? 大城晴人って人の息子の居場所を教えろ的な感じだったけど、それが誰だか知ってるの? しかも初代とかなんとか、言ってたけど」
鳩子がそう言うと、真紘が首を縦に動かした。
「ああ、大城晴人という人は、俺の父や理事長と同じ、初代アストライヤーで……」
真紘の言葉を遮るかのように、夏の風が鳩子と真紘の間に強く吹き荒れる。
けれど、真紘の言葉はしっかりと鳩子の耳に届いた。
「黒樹の実の父親だ」




