家族の秘密
狼と名莉の様子を小世美が少し離れた所で見ていた。
そして胸がチクチク痛んで、その痛みが小世美の気分を重くさせる。
「あれ? おかしいな……」
小世美は自分の頬が涙で濡れているのに、気づいて、手で頬をなぞった。
「私が泣くことなんてないのに」
今本当に泣いているのは、さっき狼に想いを伝え、それを受け取って貰えなかった名莉の方なのに、何故かそれを見ていた自分まで泣いている。
この涙は、決して名莉に同情して泣いている物ではない事を小世美はわかっている。
これは名莉の為に流しているものではない。
もし自分が泣いている理由が、名莉が泣いているからそれに共感しての物だったのなら、どれだけ純粋な良い子なのだろうか?
けれど小世美はそんな良い子ではない。
むしろ、名莉が狼に対して自分の想いを、言葉の節々に入れて話しているのを見て、小世美は目をきつく閉じたくらいだ。
「どうしよう? 私、きっとほっとしちゃってるんだ」
狼が名莉を断って、自分と狼の二人だけの世界が守られて。
嫌な子だな、私。
小世美は自分の素直に気持ちに気づいて、眉を顰めた。
自分と狼の世界が壊れるとき、それはどんな時だろう?
やはり、狼が自分以外で特別な誰かを見つけた時だろうか? それとも狼が狼の中にある矛盾と目を向き合ったときだろうか?
狼は自分が変わる事は恐れるが、人の変化は素直に受け入れ、喜べる。
そう、自分は変わりたくないと叫んでいるのに、人には変われと叫んでいる様な物だ。
どうして、狼にそんな矛盾が生まれるのか?
答えは簡単だ。
狼は今の自分に満足していると思い込んでいるからだ。
いや、そう思いたいのかもしれない。
でも、そんなのは小世美だって同じだ。
今の関係を壊したくない。
けれど、今の関係とは小世美が一番に願っている関係ではない。
狼と小世美は家族だ。
そうであることを、狼も小世美も望んでいる。
けれど小世美の中にある狼への気持ちがそれを、強く拒もうとするときがる。
既存の家族では、新規の家族にはなれない。
既存は既存で継続するだけだ。何一つ、中身自体は変わらない。
でも今の狼にとって、大切なのは既存の家族だ。
もちろん、友人だって大切だろうが、狼の中ではやはり、家族という物に拘っている所がある。
そしてそんな狼の気持ちを、小世美は痛いほど知っている。
自分が狼と家族になった日。
あの時、小世美と狼はずっと強く手を握っていた。
隣にいる狼は泣いていた。
自分の代わりに、自分の両親の死を狼が泣いていた。
それを見て、小世美はぼんやりとしていた。
隣で同じ年の男の子が自分の為に泣いているのに、自分は涙の一滴すら出てこない。
他の人から見れば、泣くのを堪えているのだろうと見る人もいれば、薄情な娘だと見る人もいた。
そんな大人たちの言葉を聞きながら、小世美は狼に訊ねてみた。
「どうして、オオちゃんはこんなに、ないてくれてるの?」
すると狼は、涙で濡らした顔を小世美へと向け、咽ながら何かを話しているが、到底言葉にはなっていなかった。
それを見ながら、小世美は狼の事を小さい腕で抱きしめた。
「オオちゃん、オオちゃんはなかなくてへーきだよ」
小世美がそう言うと、狼はコクコクと何度も頷いてきた。
そんな狼を一生懸命抱きしめながら、その時初めて小世美は胸が痛んだ。
「オオちゃん、わたしね、まったくへーきだよ? だってこれからはわたしとオオちゃんは、家族になるんでしょう? だったらへーき。へーきだよ」
小世美は狼に言い聞かせる様に優しく言った。
前に狼の母親から、泣いている男の子がいたら優しく声を掛けてあげるのよ。と教えてもらったことがある。
だから小世美も、出来るだけ優しく、優しく声を掛けた。
すると泣いていた狼が顔を上げ、不安そうな顔のまま顔を頷かせてきた。
不安そうな顔をしながらも、狼は小世美の服をしっかり握っている。
そんな狼を見て、小世美は自然と笑みを作っていた。
嬉しさが込み上げていた。
やっと自分は、自分を自分として見てくれる家族ができたんだ。
そう思えて、小世美は嬉しくて堪らなくなった。
不謹慎と言われれば、そうかもしれない。
けれど、小世美ははしゃぎ出したいくらいに嬉しかった。
蝶の蛹が殻を破ったとき、こういう気持ちだろうとさえ小世美はその時思った。
だからこそ、その嬉しさを与えてくれた、実感させてくれた狼の事が大好きになった。
最初は、ほんの少しの淡い気持ちが、年を重ねるごとに大きくなるのがわかって、少し怖く思ったこともある。
けれど、そんな気持ちは家族を大切にする小世美にとって、秘めておくべき気持ちだ。
こう思ってしまうのは、小世美の中にある強い臆病風の所為だろう。
自分の中にあるこの気持ちを無視して、忘れてしまえばどんなに楽だっただろう?
そうしてしまえば、名莉や他の子たちの気持ちを素直に応援できたのかしれない。
もしかしたら、好きな子を作らない狼に、お説教の一つでも言っていた可能性だってある。
「そんな余裕が私にあったらいいのに……」
幾らそう思っても、小世美の中に狼への気持ちがある限り、それを持つのは不可能だ。
どう頑張っても自分の気持ちが障壁になってしまう。
そう考えた瞬間、小世美は自分の涙の意味が分かってしまった。
ああ、悔しいんだ。
どんな結末だろうと、自分の気持ちを狼にぶつけた名莉が羨ましくて、仕方ない。
今、石段の上で座っている狼はきっと、自分が名莉の気持ちに答えられない事に対して、すごく辛い気持ちになっているだろう。
でももし、小世美が名莉の様に自分の想いを狼に伝えたら、その先に何があるのだろう?
狼が小世美と同じ想いだったのなら、話は簡単に済む。
けれど狼が小世美の気持ちと同じではない場合、狼の事を一番苦しめるのは自分だ。
小世美は狼を苦しめることだけは、どうしても避けたい。
大切だからこそ、狼には苦しんで欲しくない。
狼を苦しめるくらいなら、狼が小世美以外の誰かと幸せになって欲しいとも思う。
『それって、ただの言いわけに過ぎないと思うよ?』
この言葉は、WVAでデンのメンバーと共に狼がイギリスの選手と試合をしているときに、慶吾から言われた言葉だ。
あの時、狼がみんなと頑張って試合をしている所を小世美も、観客席から一生懸命応援していた。
ただその時、自分が何故ここにいるのだろう? と一瞬考えてしまった。
小世美は皆の様には戦えない。
狼や皆が持っているようなBRVを持っているわけでもない。
ただ、自分の通っていた学校が破壊されて、宇摩理事長の言葉で明蘭に来ただけだ。
だから、ここに居ても小世美が狼の為に出来る事は皆無に等しい。
そんな自分が凄く惨めに思えて、小世美は頭を少しだけ下げていたのだ。そして丁度その時、空いていた席に、二年生の條逢慶吾がやってきて、小世美に訪ねてきた。
『小世美ちゃんは、黒樹くんの本当の妹じゃないよね?』
涼しい顔でそう言われ、小世美は少しだけ身構えるように身体を縮ませたのを覚えている。
『どうして、そう思ったんですか?』
『いや、きっと俺だけじゃなくて皆が思ってるよ。黒樹くんを好きな子たちならね』
小世美は沈黙した。
やっぱり、分かるものなんだ、と。
別に小世美も狼も兄妹ではないことを隠していたわけではない。
ただ“どんな関係? ”と誰かに尋ねられれば、“兄妹です”と答えていただけだ。
『それで、君は彼の事が好きなんだろう? だったら、それを伝えなくていいの?』
『……確かに好きですけど、兄妹だから』
『血の繋がりなんてないのに?』
『うん。それでも兄妹だから』
『ふーん。じゃあ誰かにとられちゃっても良いんだ?』
また小世美は顔を俯かせながら沈黙した。
どうして、こんな涼しい顔でこんな事を聞いてくるのだろう?
小世美は素直に、慶吾が飽きてどこかに行ってしまう事を切に願ったが、慶吾の様子に居なくなる気配はまったく見えなかった。
『だんまりは、君と彼の処世術?』
『いいえ。そうじゃないですけど……』
『いやいや、別に俺は黙る事を責めてるわけじゃないよ。ただ、純粋な質問として聞いただけ。それに誰にだって言いたくないことくらいあるしね』
『なんか、疲れちゃった……』
別に慶吾に対して言った言葉ではない。
けれど形的には、小世美が慶吾に向かって言った感じになった。でも別にそれでも構わないと小世美は思った。
隣に座っている慶吾は、どこか人を見透かしているかのような笑みを浮かべている少年だ。
何を考えているのか分からなくて、だからこそ少し怖く思ってしまうのかもしれない。
『君は……本当はどうして自分がここに来させられたのか、理由を知ってるんじゃないの?』
視線だけを小世美に向けてきた慶吾が、口元を綻ばせながら聞いてきた。
『いえ、私は知りません。本当に理事長さんにここに来て良いよって言われたから、来ただけ……です』
『なるほどね。じゃあ君が彼の為に出来る事も知らないわけだ』
『え?』
慶吾の言葉に小世美は思わず眉間に皺を寄せながら、首を傾げさせた。
『あるよ。ちゃんと君が彼の為に出来ること。ううん、違うな。彼だけじゃなくて皆にできることが』
『それって一体、何ですか?』
見ているだけしか出来ないと思っていた自分に、何か出来る事があるならやりたい。小世美は強くそう思い、慶吾の方へと身を乗り出した。
するといきなり乗り気になった小世美が可笑しかったのか、慶吾がクスクスと笑ってきた。
『一生懸命な事は良い事だよね。彼も君がこんな感じだから好きなんだよ』
『……意地悪言うのは、やめて下さい』
『どうして? 俺は本当の事を言っただけだよ。君は君自身で思っているよりもっと純粋だと思うしね』
『そういうのは、いいですから』
小世美が困り顔で弱々しくそう言うと、慶吾が小世美の頬に手を添えてきた。
『君は謙遜すべきじゃない。つまり、自信を持てってこと。……だって、君には彼の持つイザナギにあるリミッターの解除と、もう一つ……因子の増幅及び量産することができるんだよ』
『そんなこと、私に出来るんですか? だって私、ここに来たとき言われたんですよ? その因子って奴が、他の人よりも少ないって』
『うん。まぁ、君自体が持っているのはね。でも君の持っている因子は特殊だから因子を作り出す事が出来るんだよ。つまり、因子がない人には、因子を与える事ができるし、持っている人からしてみれば、因子の量が増えるってこと。もし、元々から因子の量が多い黒樹くんになら、それこそ通常では考えられないくらいの量を持てるってことだよね? しかも君がイザナギのリミッターを外せば、莫大な量の因子でも扱う事が可能になるし。彼にとっては良い事尽くしだね』
『確かにそれが本当なら、すごい事って事ですよね?』
『これは本当の事だよ。だってイザナギの開発にあたった君の両親が、君の因子の特質を見抜いていたからこそ、イザナギの認証コードチップを君に埋め込んだんだから』
慶吾の言葉を聞き、小世美は身体のどこに入っているのかもしれない認証コードのチップを感じるかのように、胸に手を当てた。
『そんな事、まったく知りませんでした』
小世美が小さくそう言うと、慶吾が笑いながら肩をすぼめた。
『まっ、小さい頃の事だろうしね。どんなに嫌な事でも忘れる時は忘れるよ。さて、君はこれを聞いてどう思ったの? きっと彼は君が間接的だとしても、戦いに関わるのは嫌がると思うけど?』
『確かに、オオちゃんだったら嫌がると思います。私がそういう事に関わるって事は、変わるってことだから』
『そうだね。じゃあ君は彼が大変な事になっても、彼が関わらないで欲しいって言われたら、関わらないことにするのかな?』
微笑んで聞いてくる慶吾を見ながら、小世美は少しむっとした。
『そういうわけじゃないです……けど』
『けど?』
『私が関わったら、オオちゃん、きっともっと大変になる。私をそういう事から守ろうとして』
『だろうね。じゃあ君はどうする? どうしたい?』
『私は……』
慶吾からそう訊ねられ、小世美は返事に迷った。
狼を困らせたくはない。
けど何もしてあげられないのは、すごく嫌だ。
狼に置いて行かれたくない。
どうすればいいのだろう?
小世美は内心で慶吾に聞き返してみたくなったが、それは喉元で堪えた。
目の前に居る慶吾に答えを求めても、意味がない様に思えたからだ。
そして慶吾は答えを迷っている小世美の頬から手を話し、徐に席から立ち上がった。
『焦らなくても大丈夫。俺は君からの答えを焦って聞きだしたいわけじゃないからね。むしろ、君が答えを出した時、それは行動として現れる物だから』
慶吾は小世美にそう言うと、一度優しく微笑んでからどこかに立ち去ってしまった。
この事を言われてから、ずっと小世美は考えていた。
自分はどちらを選ぶべきなのか? と。
けれど今、名莉と狼のやりとりをみて、自分の選びたい選択が定まった気がする。
「もう私、逃げたりしないよ」
小世美は一人、そう呟き流れていた涙を強く手で拭った。




