妹の常識
広々とした皇居内の一室で、上座に結納、下座に真紘。そして、真紘の後ろには左京と誠。結納の後ろには、着物を着た女中がいて、外では皇居内で通常警備を行っているSPたちが部屋の前で待機していた。
そして、綺麗な若草色をした畳の上で真紘と結納は真摯に目と目を合わせていた。
「なんど言ったら御理解頂けるのでしょうか? 兄上」
「理解しろと言われても、俺にはまだその気がない」
頑として真紘は、結納の言葉を一蹴した。
本来なら和睦したといっても、真紘と結納の立場は変わらない。真紘は護衛対象の一条様の御息女として、結納に敬意を払わなくてはいけないのだが、結納がそれをよしとしなかった。
真紘が皇居に着いた際、結納とは礼儀にかなった挨拶を交わしたのだが、部屋に入ると結納がきっぱりとこう言って来たのだ。
「今回は、呼び出したのは本当にただの私情の事です。なので、ここでは輝崎の当主としてではなく、私の兄としてお話し下さい。そして異論は認めません」
きっぱりとした結納の強気な姿勢に、嫌な予感を感じながら真紘は不承不承に頷いた。
そしてこの話題だ。
「兄上は、確かにまだお若いです。ですが、もうそろそろ妻となる方を決めては如何です?」
真紘はまだ考えたくもない事案を結納に言及され、頭が痛くなった。
「しかし、結納。俺はこの前の事でまだまだ未熟という事を知った。そんな未熟な俺が人一人を幸せにするということは、まだ難しいとは思わないか?」
「未熟という言葉では、逃げてはいけません。私の周りのお世話をなさっている方に聞きました。夫婦とは、未熟ながらに二人で成熟していくものだと。ならば、早めに妻を取ることは、兄上にとっても、その奥方になる方にとっても、輝崎の家にとっても、これ以上の事はないと思うのですが?」
まったく、こんな余計ない事を結納に吹聴したのは、一体どこの誰なのか? 真紘は溜息ながらにそう思う。
まさか……
真紘ははっとそう思い、後ろにいる左京へと目を走らせた。
すると、真紘の意図を察したのか、左京が自分は潔白だというように、静かに首を横に振った。
自分の的が外れ、再度真紘は溜息を吐いた。
「兄上、沈黙していてもこの場は何も進展致しませんよ?」
「……そうかもしれないが、俺はやはり誰かを娶るというのは、考えていない。それに今はやっと、この様に話せるようになった妹を大切にしていきたい」
真紘も結納に負けじときっぱり結納の顔を見ながらそう言うと、結納は少しの間押し黙り、そして口を開いた。
「なるほど……兄上はいつもこの様な事を女性の方々に言い放ち籠絡しているのですね?」
「なっ」
「はい。真紘様のいつもの手口です」
先ほどの真紘から濡れ衣を着せられた事を根に持っていたのか、左京が素知らぬ顔で結納の言葉を肯定してきた。
「何を言っているんだ? 左京!」
思わぬ謀反を起こされた真紘が、慌てて左京の方に振り返るが、左京ははて? という顔を浮かべている。
確かに、先ほど自分は勝手な決めつけで左京を疑ってしまったのは事実だが、こんな事でやり返しをされるとは思っていなかった。
思わぬ伏兵だったな。
真紘はできるだけ表情を崩さない様に、一度咳払いをした。
「結納、先ほど左京が言ったのは冗談だ」
「いえ、事実です」
咳払い一つ。
「左京も何かストレスが堪っていたのかもしれない。きっと冗談の一つでも言いたくなったんだろう。それに、俺はそんな女子を垂らし込むような事をした覚えはない」
「結納様、真紘様の女生徒の間での二つ名は。『必殺、天然乙女殺し』です。ならば、わかるでしょう?」
何がわかるのか?
真紘はそう思ったが、何故か結納は左京の言葉に納得して頷いてしまっている。
分からないのは自分だけなのかと思い、真紘が左京の隣に座っている誠の方に視線を向けると、誠は少し気まずそうに、視線を横へと逸らしてしまった。
やはり、左京の言葉の意味が分かっていないのは自分だけということだ。
だがしかし、何故自分が女子の中で『必殺、天然乙女殺し』という二つ名で呼ばれているのかが、わからない。むしろ、そんな呼び名が就いていた事に驚きだ。
そして、その呼び名はどこか嫌なニュアンスが含まれている気がしてならない。
真紘がそんな事を考えていると、結納が呆れた様に溜息を吐いてきた。
「兄上、確かに兄上のお気持ちは天にも昇る思いで嬉しく思います。ですが、この結納が「兄上、ずっと私の傍に居て下さい。他の女性の所に行っては駄目です」と、世の中の妹の方々みたいに私が兄上に言うと御思いですか? 残念ですが、それはありえません。私は心を鬼にしても、兄上には立派な女性と夫婦になって欲しいのです」
「いや、世の中の妹でもそういう類の事は言わないと思うぞ」
「そうなのですか? 私はそうお聞きしましたが?」
「誰にだ?」
「? 私の身の回りの世話をやってくださる方に」
またか!
真紘は益々、結納に間違った常識を教えている女中の正体が気になった。
周りから少し普通の人と常識がズレていると言われる真紘でも、さすがにそれがおかしなことくらい分かる。
だが結納の場合、皇居での生活で一般的な感覚が今一つ掴めていない結納は、素直にその事を信じたのだろう。
その内容が下らないだけに、純粋な悪意ではないとは思うが……
それをどんな気持ちで結納に教えているのというのは、気になる。これも危険因子という分類ではなく、ただ純粋に人として非常識の事を当たり前化の様に話す人物が気になった。
「もしや……私は何かおかしな事を言ってしまったでしょうか?」
真紘の沈黙に、結納が自分の言った事がおかしいという事が雰囲気で伝わったのか、気恥ずかしそうに俯いている。
「いや、そんな恥ずかしがるな、結納。ごくまれにそういう類の人もいるかもしれない」
これ以上結納に、恥ずかしい思いをさせてはいけないと、真紘が結納を庇う言葉を言うと、少しは結納の気休めになったのか、ほっとしたような表情になった。
「さて、閑話休題です。脇道に逸れた話を元に戻しましょう」
結納も少し気を落ち着かせるように、一回咳払いをした。
「では、質問の方向を少し変えて……兄上は気になる異性の方は居ないのですか?」
結婚しないのかという直球のボールが駄目とみて、変化球を投げてきた結納に真紘はしばし面を喰らってしまった。
気になる異性の女性?
胸中でその言葉を復唱しながら、真紘が黙考していると
「ささ、真紘様、躊躇わずズバッと気になる異性の女性の名前を申し上げて下さい。私と佐々倉はそれを全力で支援致しますので、どうぞ大船に乗ったつもりで」
「なっ、左京。勝手に私まで」
後ろからやや興奮気味の左京と、それに狼狽えている誠の声が聞こえてきた。
「さぁ! 兄上。今こそ俗に言う恋愛話という物を致しましょう!」
極め付けに、結納まで少し身を乗り出して、そんな事を言ってきた。
こんなにウキウキとしている結納を見るのはいつぶりだろうか?
結納が楽しそうにしている事は良い事なのだが、それが素直に喜べないのは、話題が自分の色恋沙汰の話だからだろう。
はっきりいって、真紘はまともにこういう色恋沙汰の話をしたことはない。しかもそんな話を伴侶はまだ見つからないのか? と訊いてくる妹とだ。
「言ってしまえといわれても、正直……困る。俺はまだそういう事を深く考えた事がないからな」
真紘が正直にそう言うと、結納が目を眇めてから諦めたように溜息を吐いてきた。
そしてそれは、後ろに居る左京と誠からも聞こえてきた。
「兄上の事なので、そんな事だろうとは思っておりましたが、予想通り過ぎます……では、本当に兄上には気になる女性がいないのですか?」
「それも、よく分からない。そもそも気になるというのは、どういう事なんだ?」
「そうですねぇ……」
真紘が“気になる人”の定義について質問すると、結納も少し顎に手を当て、考え始めた。
そうだ、そもそもそこの部分が真紘には、よく分かっていない。
人を気にするというのにも、色々と種類はあるはずだ。
だが、その中でどういう物が異性としての気になるに値するのか、その基準が真紘にはよく掴めていない。
今まで父の様に強くなることを目標にしてきた真紘は、まったくそういう事を気にしていなかった。
それを考えるなら、自分には気になっている女性はいないとも思うが、それをいないと断言してしまうには、喉に何か引っかかるような物がある。
この妙な引っ掛かりは何なんだ?
真紘が喉に手をあて、そんな事を考えていると結納が口を開いた。
「やはり、それは……兄上がずっと一緒に居たい、大切だと思える方ではないでしょうか?」
そういう結納の口調もどこか不安げだ。
きっと結納も考えに考えて答えてくれたのだろう。
「そうか。そうかもしれないな」
真紘は自分の質問に、結納なりに必死に考えてくれた事に、嬉しさを感じながら笑って頷いた。
だがそんな真紘に、どこか釈然としない様に結納が不満そうな表情を浮かべている。
「どうかしたのか?」
「いえ、私もよく知りもしないで、答えてしまったが故に兄上に適切な返しをできなかったと思いまして」
「いや、そんなことはないぞ。それにこの問題は少し難解だからな。そうだろう? 人の気持ちなんてものは、誰も知らないし、俺みたいに自分の気持ちが分からない者もいるんだからな」
真紘が結納を慰めるように、柔らかい口調で諭す。
すると、結納も柔らかい笑みを浮かべ頷いてくれた。
そして和やかな雰囲気が辺りに流れた所で、再び結納が口を開いてきた。
「ですが、兄上……だとしても、きっちり素晴らしい奥方を見つけてもらいますよ?」
「なっ」
さっきの言葉を聞いてくれて、少しは諦めてくれると思っていたが、意外にも結納は引き下がってはくれなかった。
さて、どうするか?
真紘がどう結納に引き下がって貰えるかを考えていると、後ろにいる左京が口を開いた。
「結納様、僭越ながらこの場で真紘様に答えを言わせるのは困難だと判断しました。なので、幾分かの猶予期間を与えてもらえないでしょうか?」
最後の最後で左京からの助け舟が出され、真紘が黙ったまま結納の言葉を持つ。
「仕方ありませんね。少し私も戯れが過ぎました。なので、私も譲歩致します。猶予は、そうですね……明蘭学園を卒業するまで、というのは如何でしょう?」
「ああ、それで構わない」
結納の言葉に真紘が頷くと、結納が軽く肩をすぼめた。
「私もまだまだ兄上に甘いですね」
真紘はそんな結納の言葉に首を傾げたくなったが、止めておいた。結納なりに譲歩してくれたのだから。
「それに……私も少し安堵しました」
再び口を開いた結納の言葉に真紘も、首を傾げるのを止めなかった。
自分の言葉に首を傾げる真紘を、愉快そうに結納が笑ってから、優しい声音で
「当然です。今しばらくは、兄上の一番は私ですから」
と言ってきた。
結納にそう言われた真紘も思わず、苦笑を溢してしまった。
「ああ、そうかもしれないな」




