正妻闘争
「あの二人、やってくれるじゃない」
そう呟いたのは、たまたま根津たちの近くのアリーナ席でドイツ対日本の試合を見ていた万姫だ。
万姫の視線の先には、目を開けることが出来ない程の強風で、沈静化し焼き焦げたグランドに横たわるフィデリオと荒い息を整えている真紘の姿があった。
試合結果は、フィデリオ及びドイツ選手全員が戦闘不能により、日本の勝利が決まった。
判定が下った後、観客中からの拍手と喝采が溢れている。
根津自身も、自分の目の前で繰り広げられる高レベルの戦いに息を呑んでしまったくらいだ。真紘とフィデリオが互いに、最後の技を出したとき、あまりにも強力な風と炎の熱がアリーナ中に広がっていたため、観客席には透明の防壁フィルターが作動し、そのフィルターも所々、熱で溶けたり、強風でフィルターが割れたりなどしている。その様子から戦っていない自分にも生々しく、二人の戦いの激烈さが感じられた。
そして根津と同じ事をこの会場にいる誰もが分かったはずだ。
だからこそ、周りにいる観客たちが興奮しきっている口ぶりで、二人の事を称賛している……はずだが、根津の隣にいる万姫は不服そうな表情を作っていた。
その表情に根津は小首を傾げた。
万姫は昨日の試合で、ドイツに負けている。
その事が関係しているのだろうか?
そう思ったが、根津はその考えを払拭した。
試合が行われている際に、万姫はときどき興奮したように前の客席に片足を乗せ、騒いでいる場面はあったものの、しっかり二人の戦いを分析して、実力を認めているような言葉も吐いていた。
だから、自分を負かした相手が称賛されているからといって、不満に感じるという事はないように思う。
でもやはり、隣にいる万姫は不服そうに仏頂面をしている。
万姫の仏頂面の理由を知りたい気もするが、全くと言って良いほど面識がないし、根津の観点でも、万姫は中国代表生の大将で、ドイツの試合後に狼へと意味分からない宣言をした人というイメージしかない。
だから、軽々しく声をかけるなんてできるわけがない。
そんな事を考えていると、根津の横にいた鳩子が口を開いた。
「なんで武選手は、そんな仏頂面なの?」
「鳩子、いきなり何聞いてるのよ?」
鳩子が自分と同じことを考えていた事にも驚きだが、それよりも、いきなり面識ない相手に声を掛けられる鳩子の神経に驚いた。
「えー、だって気になったんだもん。鳩子ちゃんの性分的に気になったことをそのままにしとくの嫌なんだよねー」
「そういう問題?」
何となく鳩子らしい言い分に、根津は苦笑しながら肩を落とす。
「啊呀―、わかってないわね、アンタ」
「何が?」
肩を落としている根津を挟んで、面識なかった二人が会話をし始める。
「ちょっと考えればわかるでしょうが。このあたしがわざわざ足を運んで、この試合を見に来た理由。その理由は一つ。あたしの旦那の雄姿を見る為に決まってるじゃない。それなのに、この試合で動いたのは、どうでもいいフィデリオ・ハーゲンと輝崎真紘だけ。こんな状況に不満を持たない方がおかしいわ!!」
ババンという効果音が似合ってしまう勢いで、万姫がグランドを指さしている。
「嘘……」
思ってもいなかった万姫の不満理由に、根津は面を喰らった気分になった。
まさか、不機嫌な理由がそんな事だったなんて。
呆れを通り越して、根津は頭を抱えたくなった。
しかもまた勝手に狼の事を旦那だと言い張っている。別に狼が承諾したわけでもないのに、この自信に満ち溢れた態度。これは確実勝負する前から勝った気になるタイプだ。確かに最初から勝負に負けると思うよりは、前向きに考えられる性格は良いと思うが、万姫の前向きさは人を呆れさせる程だと思う。
けれど、そんな万姫に一歩も退かない様子を見せるのが鳩子だ。
「ちょっと! 誰が旦那だって?」
「ふん。そんなの狼に決まってるじゃない。分かり切ったこと聞かないでよね」
「なっ、違います! 狼は鳩子ちゃんの旦那になる予定なんですぅ。はは、残念でした~」
「寝言は寝て言ってくれる?」
「それはそっちでしょ!」
勝ち誇った視線を鳩子に向ける万姫に、ムキになる鳩子。
「違う。狼は二人の物じゃない」
そんな二人の戦いに、またも思わぬ参戦者が出てきた。
鳩子の横にいた名莉だ。
さすがの鳩子も名莉がこの戦いに参戦すると思っていなかったのか、驚いた顔をしている。だがすぐにニヤリと笑みを零した。
それは鳩子と言い合いをしていた万姫も似たような笑みを浮かべている。
「へぇー。大人しそうに見えて言うのね」
「嫌だと思ったから」
名莉が鳩子と万姫を見ながらそう言った。
「ちょっと!」
名莉の一言で火花を散らしそうな三人に対して、根津が割って入ろうとするが、もうすでに万姫と鳩子の目に燃え盛る闘志が見えた。
そしてそんな二人を諸共せず、名莉がその視線に対抗するように視線を合わせている。
だが嫌な気分になっているのは、この三人だけではなかった。
……小世美も怒っている?
名莉の隣にいた小世美の顔は、グランドの方をまっすぐに見ているが、その頬は子供っぽく頬を膨らませて、ぶすっとしている。
「いいわ。誰が正妻なのか思い知らせてあげる」
万姫が勢いよく立ち上がり、根津たちへと強気に宣言してきた。
「そんな風にデカイことを言えるのは、今の内だからね」
「絶対に負けない」
鳩子と名莉がそう言うと、万姫が鼻を鳴らして答える。
すると小世美がすくっと立ち上がり始めた。
「なによ?」
万姫が目を眇めて、立ち上がった小世美を見ている。すると小世美はぶんぶんと頭を振っただけで、再び席に座ってしまった。だが座りながら「うぅ~」と言うような唸り声を上げている。
「まったく、あたしの旦那が魅力的に見えちゃうアンタたちの気持は分かるわ。だって、あたしの旦那だもの」
胸を張ってそんなことをいう万姫に、三人がむっとした表情をしている。そしてそれは隣で万姫の様子を見ていた根津も、さすがにむっとしてきた。
「旦那、旦那っていうけど別に相手にされてないじゃない」
根津が目を細めて万姫に歯向かう。
すると、万姫が鋭い視線を根津へと向けてきた。根津はその視線に負けじと万姫を睨む。ここで引いたら、女の勝負で負ける。そんな気がした。
根津だって勝負ごとに負けたくはない。
それに、それに、みんなには黙っているが、事故とはいえ前に狼とキスをしている。はっきりいって、この差は大きい。
内心で根津はガッツポーズをした。
だが内心でガッツポーズをした根津だったが、そこでハッとした。
これでは、まるで……自分が狼を好きみたいだ。
確かに、狼が小世美を抱きかかえた時も、胸に嫌な感覚があった。どこか落ち着かないような、嫌な気分になったのは認める。
でもだからって、自分が狼を好きだということは別な話のはずだ。
でも、そんな事を考えている自分の気分が妙に高潮している事に、根津は驚きと焦りを感じた。
ああ、これでは本当に自分が狼の事を好きみたいだ。根津はできるだけ自分を落ち着かせる様に試みるが、両端にいる万姫と鳩子の視線が根津の試みを妨害してくる。
「アンタ、何かあたしに言うことあるんじゃない?」
「ないわよ!」
叫ぶように、万姫の言葉を否定する。
「えー、すごい怪しい。もしかして、もしかしてだけど、ネズミちゃんとあろう者が、鳩子ちゃんたちに隠し事なんてするわけないよね? するわけないか~。なんせ、デンのリーダーだもんね。うん、そうだよ。リーダーが仲間に隠し事なんてするわけないもんねぇ」
「あ、あたりまえじゃない。……あたしが鳩子たちに隠し事するわけないでしょ」
「……嘘」
必死に誤魔化す根津に、名莉からの鋭い一言が降ってきた。
名莉の言葉には、信頼と言う名の重みがある。これは狙撃手特有の観察力の賜物なのか、名莉は物凄く観察力には長けている。
そんな名莉にあっさりと自分の言葉を否定され、根津は二の句も継げない。
「ほーれ、メイっちもそう言ってるよ? ネズミちゃん、鳩子ちゃんたちに隠し事があるんだったら、自白しちゃえば? きっと楽になるよ?」
まるで昔の刑事ドラマの刑事の様に、自分へと詰め寄ってくる鳩子に根津が思わず、身を強張らせる。
すると足元から、細い日本の腕が根津の横腹へと伸びてきた。
そして、
「コショコショコショ。さぁー、白状せぬか~」
そんな事を言って根津の横腹をくすぐって来たのは、根津の前でしゃがみ込む小世美だった。
小世美の細い指が横腹を、もにょもにょと妙な動きで動いてくるため、物凄くくすぐったい。しかもいつの間に結託したのか、根津の両手を鳩子が上から掴み、万歳のポーズをさせられてしまっている。
そのため、上半身の身動きが取れなくなった根津は、小世美の巧みなくすぐり攻撃を避ける術もなく受けるしかない。
「ちょ、あははははは。やめ……あはははは」
「言ったらやめてあげるのじゃ。さぁ、吐け! 吐いてしまえぇ」
「そうだよ。ネズミちゃん。ちゃんとあたし達に包み隠さず話したら、押さえてる手を離してあげるんだから」
「もう! あんたたちいつグルになったのよ?」
根津が笑い過ぎの涙を浮かべながら叫ぶと、腕を組んでその様子を見ていた万姫がしれっとした表情で
「女なんて、みんなこんなもんよ」
こんな事を言ってきた。
今の状況に妙にしっくりきてしまうからこそ、憎たらしい。
「ほれほれほれ」
「だから、やめなさいって! ぷっ、ははははははは」
足をバタつかせ、必死に抵抗するがそんな足の動きは、まったくもって無意味だ。
だが決して口が裂けても言えない。
この場で自分が黙っている事を言ってしまえば、自分をくすぐっている二人や名莉は勿論の事、隣で腕を組みながら余裕そうな笑みを浮かべている万姫も、表情を一変させるだろう。
そうなれば、試合に出てもいないのにここに一嵐が巻き起こってもおかしくない。
それに、まだあたしだって……。
自分の気持ちに整理が出来ていない。
だから、この状況で女による戦の火種を作るのはダメだ。
「うーむ、さすがネズミちゃん。中々しぶといね」
「確かに。私のくすぐり攻撃を受けて口を開けないなんて、凄い!」
「当たり前でしょ! あたしを誰だと思ってんのよ?」
息を切らして根津がぐったりとしながらそう聞き返すと、鳩子と小世美が見合ってから
「「ネズミちゃん」」
ユニゾンしながら、そう答えてきた。
確かに、鳩子と小世美が言っていることは正しいのだが、今はそんな答えを求めていたわけじゃない。
「絶対、アンタたちに教えない」
半ば自棄気味に根津がそういうと、鳩子と小世美が不服そうな顔で
「「えーーーーー!」」
とまたもユニゾンしてきた。




