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「起立、礼」
「ありがとうございました」
その掛け声で、教室中に阿鼻叫喚の声が上がった。
今日は新学期恒例の実力テストだったのだ。誰もが嫌がる中、先生たちは構わずテスト用紙を回収する。
「柊、どうだった?」
柊の席に来て、明は楽しそうにそう聞いてくる。誰もが苦い顔をしている中、この二人の表情は始まる前とまったく変わらない。
「……普通?」
明の質問に柊は首を傾げながらも答える。
「何で私に聞くのよ?」
明はそんな柊を見て呆れながらも笑った。
「柊の普通は普通じゃないから」
「明は?」
「私もまぁまぁいつも通りかな。この後どうする?部活休みなんでしょ、私もなんだ」
と、明が楽しそうに話していると、教室のドアがゆっくりと開いた。
そのドアの隙間からひょっこり顔を出したのは――
「柊」
「麗《れい》君!どうしたの?一年生の教室まで来るなんて、珍しいね」
「……柊、笈川《おいかわ》先輩と知り合いなの?」
隣で明が羨ましそうに小声で話しかけて来た。
「知り合いって言うか……」
「柊、今ちょっといい?」
「あ、うん。ごめん、明、今日は先帰るね」
柊は明にそう言い残し、鞄を持ってそそくさと教室を後にした。その後の教室が少しざわついたのを、柊は知らない。
「ごめんね、友達と何か約束あった?」
学校からの帰り道、柊は麗と並んで家までの帰り道を歩いていた。
麗は柊の幼馴染で、自分の記憶が始まる前からの知り合いだった。柊は、優しくてカッコいい麗のことを本当の兄のように慕っていた。
「ううん、大丈夫。ところでどうしたの?」
「あぁ、姉さんが今日家に来ないかって。この頃彼氏と何かあったみたいで、いつもイライラしてるんだよね。ごめんけど、話聞いてやってくれる?」
「うん。と、いた……」
「どうしたの?」
麗は、急に立ち止まって目を押さえる柊を覗き込んだ。
「目にゴミが……」
「あぁ、じっとしてて、取ってあげるから」
柊は言われるがままに顔を上げた。少しして、麗のとれた、という声にほっとして微笑んだ。
「ありあとう、麗君」
そう言って笑いあい、また歩き出そうと元気良く振り向くと、少し先に誠が立っていた。思わず、身体が固まってしまう。
「……青柳君」
「え、青柳?こんな所で何してんだ?」
どう見ても誠が学校からの帰路を逆走しているようにしか見えなかった。
「教室に忘れ物したんで……」
誠は柊を見つめたまま、麗の言葉に答える。その顔は、何とも間の悪そうな表情だ。
「そうか、気を付けて帰れよ」
「はい、失礼します」
と、一つ頭を下げると、誠は何事もなかったかのように歩き去っていった。
「麗君、青柳君と知り合いだったの?」
「あぁ、部活の後輩」
「麗君、サッカー部だったの?」
「今更だな。今は生徒会の仕事であんま練習出来てないけどな」
「そうなんだ……」
麗はそう言って何とも言えないような表情で歩いている柊を優しく見下ろした。
「……俺の部活は知らないのに、青柳の部活は知ってたんだ」
「え?だってそれは、青柳君は女の子に人気があったから……」
柊は麗の質問にしどろもどろになりながらも、頭の中で何とか答えを見つけると、そのまま口に出す。
「過去形なの?」
「今はよくわかんない。でも、モテないわけじゃないみたい?」
「俺に聞くなよ」
麗は苦笑いだった。
「麗君こそ、モテるでしょう?」
「うん」
「言いきっちゃうんだ」
「言い切れるだけの自信があるんだよ」
そう言って軽く笑う例は、本当に自信のありそうな強い眼をしていた。
「麗君のそういうところ、嫌いじゃないよ」
「俺も、柊のそういう淡白なところ、好きだなぁー」
と、二人は笑い合う。そこには何年も一緒にいるからこその親密な空気が漂っている。
「麗君ってさ、せっかく良い顔持ってるのに腹黒いよね」
「そう?」
「自覚ないように見せかけてあるとことか」
「柊は鋭いわね」
二人の後ろから急に現れた人影に、ふたりは飛び上がるほど驚いて振り向いた。
「げ……」
「どうしたの?麗。そんなにお姉さまの顔が見たかったの?」
思わず出た麗の言葉に、麗の姉はにっこりと笑んで見せる。
「はい、お姉さま」
麗は一瞬曇らせた顔をすぐさま綺麗に元に戻し、これでもかという笑顔で姉に向かって微笑んだ。
「そう、もっと見せてあげましょうか」
麗の姉は両手で麗の顔を挟みこむと、薄い頬笑で思いきり顔を寄せた。
「わぁ!ごめん!わかったからもうやめて!」
と、すばやく麗は白旗を上げる。やはり、姉には敵わないものなのだ。
「優花《ゆか》ねぇ」
「久しぶり、柊」
優花は可愛い弟の顔を放すと、今度は柊を優しく抱きしめた。柊も嬉しそうにその背中に腕を回す。
「相変わらず可愛いわね」
「優花ねぇも相変わらず美人だね」
「まぁね」
そこで否定などしないのが笈川姉弟なのである。
「私の為に来てくれたんでしょう?ありがと。遠慮しないで上がって」
優花はいつの間にか着いていた家の玄関を開けて優しく柊を招き入れた。
「もうほんと、嫌になるわ、あんな奴」
自分の部屋に着くなり優花は何度聞いたかわからない彼の愚痴について話し始めた。
「私の言うことなんて一つも聞いてくれないんだから……」
「……そんなに嫌なら別れればいいんじゃないの?」
柊はずっと疑問に思っていた事を聞いてみた。
「……そうね、それが出来ればいいんだけど」
「出来ないの?」
「人を好きになるとね、どうしてもその気持ちに逆らえなくなるのよ。好きだって気持ちが無くならない限りは、どんなに嫌な奴とだって、別れたくないって思ってしまうものなのよ」
少し寂しそうに目を細めながら優花は話している。
「……わかんない」
柊はそんなことを言われても、いまいち理解することができなかった。
「柊は、前に言ってた初恋の男の子とはどうなったの?」
「うーん。まだあれから一度も言葉を交わしてない。からまだ恋愛がわかんない」
さっき思わず名前をつぶやいてしまったけれど、誠のほうはそれに対して何も言ってこなかった。
「その男の子、モテるんでしょう?」
「……多分」
「何それ」
「わかんないんだもん。あの時、見すぎてるから誤解されるんだってわかったから、あんま気にしない事にしてるの。特定の人以外とは、ほとんどしゃべらないもん」
「……それ、クラスで浮かない?」
「さぁ?クラスでどうかはわかんない。でも、周りの人は普通に話しかけてくれるから、そうでも無いんじゃないかなぁ?」
と、柊は首をかしげる。
「ルーズねぇ……」
優花はそんな柊を見て軽く笑った。
「ま、柊がそれでいいと思ってるんなら、別にそれでいいんじゃない?でも、その初恋の子とはどうにかして普通の関係までにはならないと、あんまり話さなさすぎるのも、怪しく思われるわよ?」
「どうして?」
「そういうものなのよ」
と、優花は柊に顔を寄せて、真剣な表情で言った。
「取りあえず、話すきっかけを作らなきゃ。その子、何か部活とかしてないの?」
「麗君と一緒のサッカー部だよ」
「あら!それは丁度良いじゃない。私と一緒に今度の練習試合、応援に行きましょう!」
「え、練習試合なんてあるの?」
「えぇ、麗が言ってたわ。気合い入れて行くわよ!」
なぜ私たちが気合を入れなければならないのかと柊は思ったけれども、優花がなんだかとても楽しそうにそう話すので、何も言わないことにした。
そんな柊をよそに、優花は部屋を飛び出してリビングに居る麗のもとへと駆けだしていた。
「優花ねぇ?」
柊は慌ててその後を追った。
「麗!今度の練習試合、柊と見に行くわよ!負けたりしたら承知しないから!」
「えぇ!?」
ソファでくつろいでいた麗は、驚いて思わず転げ落ちてしまうところだった。
「優花ねぇ?」
柊と麗は、優花のそんな横暴さに慣れたつもりだったけれど、慣れていなかった事を改めて思い知らされた。
「麗君……ごめんね」
「いいよ、いつもの事だから……」
と、二人は力なく話す。
「そう言えば麗君、レギュラーだったの?」
「今さらだね。レギュラーだよ」
「麗は、一年のころからレギュラーよ。うちでは負けは許されないの。エリート家系だから」
楽しそうにそう言いながら、優花はソファに座る麗の頭の上に、後ろから腕をおいて体重を預けると、二人の会話に割り込んできた。
「優花ねえも頭いいもんね」
柊はその言葉に妙に納得して頷く。
「っていうか、うちは別にエリート家系じゃないよ。姉さんが良すぎるんだよ。どうして俺まで付きあわされなきゃなきゃいけないの?」
「あら、それがあなたの為だからよ?」
不服顔で反論する麗相手に、優花は自信たっぷりにそう言ってのける。
「っていうか、重い!」
と、麗は頭の上の姉を払いのける。
「まぁ、失礼ね」
「でも、やれって言われて出来る麗君も凄いと思うよ?」
「それは、私の弟だもの」
「何で姉さんがそんなに自慢げなの?」
そう言って笑い合う優花と麗が、柊は大好きだった。
小さいころから二人の近くにいた柊にとって、姉妹のような、兄妹のような存在だった。一人っ子である自分が、こんなにも寂しさを感じずにいられたのは、この二人のおかげなのだと、柊はそう思っている。だから、柊にとって二人は特別なのだ。
「柊?どうしたの、いきなり黙り込んじゃって……」
急に静かになった柊を心配して、優花が不安そうに聞いてくる。
「優花ねぇと麗君のことが大好きなんだって、再確認してたとこだよ」
やわらかく微笑みながらそう言うと、麗はうれしそうに笑い返し、優花は柊を抱きしめてきた。
「あぁもうかわいい!」
今度の練習試合が、晴れますように……。
そう、柊は心の中で願った。