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「……別れてもらった?別れたの?」
「あぁ」
誠は申し訳なさそうに、顔をゆがませる。
「色を、ふったのね?」
「……あぁ」
「――色は、本気であなたの事が好きだったのよ?なのに、あなたはその気持ちを踏みにじったのよ!どうしてそんなに冷静でいられるの?大体、ふったのは昨日なんでしょう?」
「……どうしてわかる?」
「色の目が腫れてたのは今日なのよ?それに、一昨日メールしたときは、そんなこと何も言ってなかった。それくらいわかるわ!なにより、どうして昨日の今日で私と二人きりで会おうなんて考えられるの?あなたの気がしれないわ!」
「昨日今日?」
と、急に、誠の目に激しい憤りが垣間見えた。
「俺の気持ちは昨日今日のものなんかじゃないんだよ。言っただろ?俺は色の他に前から好きな奴がいたって。色はそれを承知で俺と付き合ってたんだって」
「そ、それでも付き合っていたのなら、大事にするものでしょう?」
「そこに気持ちが無いのにか?」
誠の真剣な瞳に、柊は何も言い返せずに言葉を詰まらせた。ただ、激しい怒りと迷いだけが、心の中に渦巻く。
「俺はそのままでもいいと思ってた。でも、それでもいつかは別れる時が来るんだ。俺の気持ちが変わらない限りな」
「で、でも……」
「俺は、お前が好きなんだよ」
小学校の時とは違い、少しずつ低くなっていった誠のその声は、柊を心から震え上がらせた。思わず柊は興奮している自分をその場に押さえつけるようにして両腕で体をおおう。
「し、色を裏切ることなんてできない」
柊は頑なにそう言って誠から視線を反らす。これ以上、誠と目を合わせてはいけない。頭の中で、何度もそんな警報が鳴っている。
「麗先輩は?」
「……え?」
「麗先輩はいいのか?色の事ばかりで、自分の相手のこと忘れてないか?」
柊は何も言えなかった。確かに、色の事ばかりで、麗の事を忘れていたからだ。
「そ、そんなことない……。私が好きなのは、麗君だもの。今は麗君だけを愛してるもの」
「『今は』……?」
「――上げ足ばかり取らないで!」
誠のその鋭い返しに、思わず叫ぶようにそう言うと、柊は誠を思い切り睨みつける。
「私が好きなのは麗君ただ一人よ!あなたのことなんて、好きになんかならないわ。絶対に!」
「可能性はゼロじゃない」
「――は……?」
真剣に自分を見つめてくる誠に、柊は思わず固まった。
「可能性はゼロじゃない。俺は、諦めない」
「……どうして?気持ちなんて、簡単に変わるものなのよ?」
「変わらなかった。……いや、変えようとしたけど、変えられなかったんだ」
と、誠は少し申し訳なさそうに微笑む。
「俺はその結果、色を裏切ることになったんだ――。大事にしたいと本気で思ってた。でも、それでも出来なかった。その結果がこれなんだ」
柊は何も言えなかった。辛そうにそう言って笑う誠の心が、まぎれも無い真実だと思ったからだ。そんな誠に、いけないと分かっていても心が動く。
「俺が初めてお前を好きだと思ったのは、小学校五年の時だった」
「――え?」
急に話し出した誠に、柊は思わず聞き返してしまった。そしてびっくりしている柊に誠は優しく微笑むと、さっきのベンチに座りなおして柊に隣に座るようにうながした。
少しためらった後、柊は何も言わずにそれに従った。
「小学校の時、色が男子たちに人気があったのは知ってるよな?でも俺には今一よくわからなった。可愛いっていうのがどういうものなのか、知らなかった。いや、わからなかったんだ」
と、誠は懐かしそうにそう言って眉をよせて目を細める。
「でも、そんな時、たまたまお前が日直で放課後教室に残ってるのに出くわしたことがあったんだ。その時、お前は一人で日誌を書いてた。もう一人の日直の奴に用事があるって頼まれて、一人で書くために残ってるんだって、お前は言ってた。俺はサボる口実だったんじゃないのかって聞き返したら、お前は頭から人を疑う奴は嫌いだって、凄い目で俺を睨みつけてきやがった」
誠は笑いをこらえるように、手で口元を押さえていた。柊はその話を聞いて、まったく覚えていないのと、何だか気恥かしいのとで複雑な心境だった。
「こう言っちゃあれだけど、あの頃は自分でもモテてる自身はあったんだ。何人かの女の子に告られた事もあったし……。そんな中で、自分を睨みつけて来る女の子に、めちゃめちゃ興味を持った。――こいつは他の奴らとは違う。そう感じたんだ。だから俺は、すぐに謝った。悪かったって……これからはそう簡単に人を疑わないようにするって、そう言った。そしたらお前は、そんな俺にさっきまでとは違う満面の笑顔で笑いながらこう言ったんだ」
と、今度は柊のほうを真っ直ぐ見つめて話し始めた。
『謝らないで、私も本当は少し疑っちゃったんだ』
二人の声が重なった。その時二人は見つめ合うようにして、向かい合っていた。
思い出した。私は、その時初めてこの人と会話をしたんだ……。とても新鮮で、睨み返してくるかと思ったら、謝ってきた、不思議な男の子。前から気になってはいたけれど、話したのは初めてだった。しかも、謝っているはずなのに、その眼は力を失ってはいなかった。こっちが謝らなければいけない気にさせられた……。私が初めて気圧されてしまった……負けたと思わされた男の子――。
「思い出した?」
誠は優しく微笑んでいた。
「うん……」
「俺は、その時のお前の笑顔が忘れられない。負けたように……でも、すごく嬉しそうに、笑ってた」
「……私、そんな顔してた?」
「してたんだよ。俺は、あの時初めて女の子を可愛いと思ったんだ。俺の初恋だった……。でも、そんなに簡単に上手くはいかなかった。その子はとても負けず嫌いで、喧嘩っ早くて。おかげで二年近く、口を聞いてもらえなかった。」
「そ、それは――」
「わかってる。俺だって、卑怯な事だと思う。でも、どうしても、俺はお前に近づきたかったんだ。他の女の子たちを遠ざけてでも、お前と一緒に居たかった。……それなのに、結果は最悪。他の女の子たちはそれまで通り変わらず傍に寄ってくるのに、お前だけは遠ざかって行った」
柊はもう何も言えなった。
「でも、俺の気持ちはあの時から変わらない」
「あ、青柳君――」
「好きだ」
誠の目は真剣そのものだった。
「あの時の、俺に向けてくれた笑顔を、俺はもう一度見たい。あの、俺だけの笑顔を」
「――ダメなの!」
と、急に柊が叫んだ。その顔はとても動揺していて、落ち着かなさそうに、俯いてしまう。
「ダメなの……。私はもう、麗君を裏切れない!色もだけど……何よりも、麗君を傷つける事が出来ないの!」
「俺よりも、麗先輩のほうが好きだってことだろ?最初からわかってたことだ。俺はそれでも――」
「言わないで!」
柊は、急に泣きそうな顔で誠の口を両手で塞いだ。
「言わないで……」
「い、伊吹――」
「聞きたくないの……これ以上、聞きたくない……。これ以上、混乱させないで!私が好きなのは麗君一人だけなの!」
「どういうことだ……?」
誠は柊がこんなにも取り乱している意味がわからなかった。
「……お願い――」
柊は目に涙をためて誠を見つめる。誠はそんな柊を見て、鼓動が跳ねるのを感じた。そっと、柊の頬に触れる。柊はそれを振り払おうとはしなかった。
「比べさせないで……。答えはもう決まってるの――」
「伊吹……」
「答えは麗君よ。それ以外、考えられない」
「さっきも言った。可能性はゼロじゃない」
誠は柊の顔を両手で包みこむ。柊の顔は思っていたよりも小さくて、誠の掌に収まりそうなほどだった。そんな所までもが愛おしくなる。
「それは、私の気持ちが変わるって事?絶対にないわ。あんなに優しくて、繊細で、強くて美しい人、他にいないもの」
「……お前の気持ちは変わらない……か。変えてみせるよ。俺は、諦めない。絶対に、振り向かせて見せるから」
「……どうしてそこまでしようとするの?」
辛そうな顔の誠に、柊はまたも心を痛める。必死に、自分のセーラー服の裾を握りしめていた。自分で自分を押さえつけていなければ、自分を保てなかったのだ。
「俺はこの数年で、お前じゃないとダメなんだって事がわかった……。中三の分際でって思われるかもしんないけど、真剣なんだ――。自分自身でこの気持ちにピリオドを打つ気はない」
「打たせてみせるわ――、私が」
そう言って誠を睨むと、誠はまたしても辛そうに微笑み、柊から手を放して立ち上がり、軽く伸びをした。そして柊のほうに振り返ると、急に柊を抱きしめた。
「――ちょ、ちょっと!」
「麗先輩には負けない。俺は俺らしく、お前を手に入れる」
誠はそう言ってすばやく柊から離れると、悔しそうな顔で、その場を去った……。
抱きしめられた時のはやる鼓動は、誰のものだったのか……。柊は、自分のものでもあるけれど、誠のものでもあったような気がした。そんな自分に、柊はまた心を痛める。
……本当は、泣きながらすがりつきたかった……。今でもあの人を思うと、心がざわめくの。麗君がいるのに、私の心は上手く言う事を聞いてくれない――。これまでの数年、何度も、重いため息を押し殺してきた。本当はまだ、忘れることなんて出来ていないの。青柳君と一緒で、忘れられない……消えないの――。
「……どうして今更――」
柊はその場に泣き崩れてしまった。
でも、ダメなの。麗君への気持ちも、嘘じゃないから……。同時に、二人の男の人を愛してしまっているの。比べられない……比べさせないで……。私は、あの優しい人を傷つけることなんて……裏切ることなんて、できないんだから――。
「麗君……」
幾重もの涙がつたう顔を上げて、柊は空を見上げる。柊の土砂降りの心とは正反対の、快晴。清々しい青空が広がっていた。けれど、その景色も柊にはおぼろげにしか見えていない。
「……ごめんね……」
柊のそれは誰に向けての『ごめん』だったのか……。麗を想って避けなければならない誠への損失感か、誠をまだ忘れられていないことへの麗への罪悪感か、はたまた話せないでいる色への絶望感か――。




