覆水不返
「ごめん……ごめん……ッ!行かないでくれ!お願い、だ……っ」
「征矢?お、おい!征矢!」
征矢は酷く魘されていた。
そしてそれは、ただ一過性の悪夢を見ているだけと片付けるには常軌を逸したほどの魘され具合だった。
征矢が路地裏でボクを助けてくれた時、銃弾に足を貫かれた際もここまででは無かった。
今、今ボクがすべきは……!
「征矢!起きろ!ボクがいる!落ち着け!征矢ッ!!」
征矢の手を握り、耳元て気付けをするように激励の声をかける。
……だが、即座に起きる気配は無い。征矢は魘され続けたままだ。
握った手は万力のような力でボクの手を握り返す。
正直、痛い。身体能力に秀でた彼の握力はボクの手の骨を砕かん勢いだ。
「だが、ここで逃げる訳にはいかないんだ」
それでも尚、力強く征矢の手を握る。
ここで逃げてしまえば、もうボクは彼に対する不義理を清算できない!
「征矢……!頼む、起きてくれ……征矢ぁっ!」
征矢の体が苦痛によじられ、体にかかっていた毛布が部屋の方々に吹き飛んでいく。
あれだけ頼りになった大きな体が、今は未知の苦しみにその身を弱々しく悶えさせている。
そんな征矢に対して、ただ声を掛けて祈る事しか出来ないボクは……
がちゃん、と。
何やら、この家のドアの鍵が開けられた音がした。
「(……誰、だ?こんな深夜に……?
いや待て、征矢はここに一人暮らしだ。とすれば……)」
____強盗、最悪の場合、革新派の侵入者の可能性が頭に色濃く浮かんだ。
「(どうする……?ボクの意思で征矢に乗り移り、アストラル体へ移行する事は出来るが……)」
ちらと横の征矢を……見るまでもなく。
今現在、征矢は戦える状況に無い。
起きたとしても、果たしてその力を万全に振るえるのか。
そもそも、精神状態に大きく左右され、現状の精神状態を強く増幅させるアストラル体を今の征矢に扱わせるのは、相当なリスクがある。
エリファ・ルイ•.コンスタンの付添人であるゼヴにその力を振るった際、怒りの感情に深く飲み込まれたように。
今の狂乱した征矢がアストラルの力に触れれば、最悪廃人となりかねない。
「(どうする……!)」
悩んでいる間にも足音は真っ直ぐこちらへ向かってくる。
迷いの無い進行方向だ。明らかに侵入者は間取りを把握しており、ボクたちの位置も分かっているのだろう。
「(ボクはあくまで他人にアストラルの力を付与出来るだけだ。ボク一人じゃ無力だ)」
雑多に散らかってる思春期の男子の部屋……そこに転がってるものに目をやる。
分厚い雑誌、バット、カバン……武器になりそうなものを片っ端から見繕い、征矢から手を離さない範囲でかき集めていく。
……足音が、ボクたちのいる部屋の前で止まる。
間違いない。足音の主はボクたちの存在に気づいている。
「……っ」
やけに舌の裏から唾が出る。それを緊張と一緒に飲み込む。
「( ……落ち着けよツェーク・ヘレム。お前は一人で革新派から逃げ出す為に無謀にもその二足で飛び出したのだろう。
このぐらいの事態は想像していた筈だ)」
そうやって自分の心を奮い立たせなければ、恐怖で泣いてしまいそうだ。
この状況で初めて、逃げ出した後の心細さというものを思い出す。
それ程までに、たった二日間の征矢の存在が大きかったのだと今更自覚する。
「来るなら……こい……っ」
扉が、開く。
扉の向こうの相手に対して先制攻撃をする為に、ボクは手に持った雑誌を力任せに投げつけ____
「おおォォっ!」
「どわぁぁぁぁ!?びっくりしたぁ!?」
「……へ?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、気の抜けるほど情けない声だった。
と、いうより、ボクは何処かでこの声を聞いた覚えがあるような……。
「あ、この前の征矢くんの預かってる子!?
怪しいものじゃないよ!ほら、オジサンの顔を見た事あるでしょ?」
「……前に征矢に絡んでいた不良警官?」
ドアの向こうで情けなく尻餅をついていたのは、公務員のくせに堂々と無精髭を生やした、どう見ても怪しい中年の男だった。
○●
「はいはい成程ね。…‥といっても、オジサンも凡その事情は知ってる口なんだ」
不良警官は軽くそう言うと、何やら征矢の耳元で囁く。
すると、先ほどまで魘されていた征矢はいくらか安定し、規則正しい寝息へと変化していった。
「……それで、えーっと」
そういえば、不良警官だとかオジサンだとかばかりで名前を聞いていないので呼び名に困っていると。
「五百旗頭。五百の旗に頭って書いて五百旗頭とでも呼んでくれ。
普段は全然通じないから、オジサンって名乗っちゃうけどね」
「……それで良いのか?公務員」
「それで何とかなっちゃった下町の不良公務員なもんで」
飄々としていて掴みどころがない人物だ。
……だが、悪意を持っている訳でも無さそうだ。
「それで、五百旗頭どの?は、征矢とどういった関係なんだ?」
「おっ、年頃の乙女らしく妬けちゃった?」
「年食ったおじ様のセクハラは間に合っているぞ?」
「はは、これは手痛いしっぺ返しを貰っちゃったな」
ぽりぽりと顎髭を掻いて軽く笑っており、反省しているのかいないのか分からない。
何なんだこの方は……。
「オジサンはね、征矢くんの保護者…‥とはちょっと違うな。オブザーバーってとこかな?」
「それはまた、よく分からない立場だ」
「はは。まぁ、征矢くんがたまーにこうなっちゃった時に来る妖精さんとでも思ってくれ」
妖精に喩えるには些か俗すぎる風貌の五百旗頭は、人差し指で鍵の束をクルクルと回しながら冗談めかす。
「これ、合鍵。征矢くんのお母さんに預かっててね」
「合鍵って……こういう事は、しょっちゅう?」
「最近はそうでも無かったから安心してたんだけどねぇ。
家の外から事件性のある悲鳴が聞こえてきて、警察官としての血が騒いだと言いますか」
「不良警官がそれを言うのは些か怪しく感じるが…‥まぁ良い」
それについて深く問い詰めるつもりは無い。
ようやく心が落ち着いて、周りの景色がよく見えてきた。
五百旗頭の表情は、冗談を言って掴みどころが無く笑っているように見えて、その実こちらの反応を逐一伺っている。
きっと、ボクの緊張状態をほぐす為に所々冗談を交えて話してくれたのだと分かる。ありがたい事だ。
「実際の親では無いんだな?」
「うん。違うね。そもそも、我道と五百旗頭で苗字がもう違うでしょ?」
「征矢はいつからこのような状態に?」
「六年前だね」
やはり、五百旗頭は飄々としているようで、どの発言も澱み無くハキハキとした物言いをしている。
我道征矢という人間と向き合い続けたといういう重みを感じるそれは、質問を繰り返しているボクの方が言葉に詰まりかけると錯覚するほどだ。
「…‥最後の質問だ。
____六年前、征矢に何があったんだ?」
「……ふむ」
五百旗頭は突然部屋を見渡す。それに釣られてボクも彼の目線を追う。
ベッドに横たわった征矢。
電気がついてるのに少し薄暗い散らかった部屋。
その中でも異彩を放つ、一際小綺麗なクローゼット。
……視線が部屋を大体一巡した辺りだろうところで、お互いの目が合う。
「あのクローゼット、何が入ってるか分かる?」
「征矢が『未来のフィアンセに向けて、幅広いサイズの服を用意してる』などとのたまっていたが……」
「ははっ。彼らしい不器用な言い訳だ」
五百旗頭は目を細め、寝ている征矢に目を向ける。
彼は親では無いと言ったが、その目の中には慈愛に満ちた光が灯っていた。
「あれはね。彼の妹さんが泊まりに来た時ようの服だ」
「あぁ、成程道理で……」
「そして」
道理でボクのサイズに合う、と言いかけたところで、五百旗頭の言葉が被さるように続く。
「征矢くんの妹さんは」
そして、気づく。
服のサイズは随分と小さかった。
栄養を摂れず成長が上手く促進しなかったボクの体にぴたりと合うように。
「いや、征矢くんの家族たちは」
歳の離れた妹なのか?いや、そうであってほしい。そうであるべきだ。そうでなければ……
…‥嫌な汗が、ボクの背中を伝う。
「六年前、世間では亜人と呼ばれる者たちによる異能力犯罪が原因で、家族全員が殺されている。
……征矢くんを除いて、ね」
____これ以上に最悪の予想が現実のものであって欲しい事は無かったと。後のボクもそう語った。




