幕間-女王
「それで、ゼヴ。何故余計な手出しを?」
「あのような半端者、我らが女王のお顔を汚すには不適格かと」
夕暮れの商店街を、二人の男女が歩いていた。
黒瑪瑙の長髪と裾の長いドレスを風にたなびかせる女性の一歩後ろを、黒スーツの男が歩いている。
女性の気品は何処か浮世離れした危険な色香を醸し出しており、絶世の美貌を持つ女を、しかし誰一人声をかけようとはしない。
「ゼヴ。貴方は、狼。私が拾い上げた狼。つまり、今は飼い犬です」
「存じております」
「飼い主の一時の逢瀬に自らの判断で横入りなど、貴方は駄犬ですね。ゼヴ」
「……衝動的な介入に、ただ恥いるばかりです」
ゼヴと呼ばれる男はただ頭を下げるのみだ。
その姿勢や下げた頭に一切の綻びは存在しない。
完成された所作は、主人……エリファ・ルイ・コンスタンに反抗するという想像を一切させない。
「ねぇゼヴ、これを見てくれます?」
「……は」
エリファが指すのは自らの右足。
美しいヒールが、しかし無惨に踏み潰されており、足は不自然に凹んでいた。
「これ、どう思います?」
「……迅速な行動に移せず、我が主の御御足に傷をつけてしまった事、ただ恥いるばかりでございます」
「……やはりつまらない男ね。ゼヴ」
「申し訳ございません」
「まだまだ乙女心が分かってないわね」
エリファは自分の右足を……我道征矢に踏みつけられ、粉砕骨折した足を恍惚の視線で見下ろす。
まるで恋人に指輪でもプレゼントして貰ったような熱がその視線には籠っていた。
「ふふ、興が乗ったので少しお付き合いしただけでしたのに、思わぬ収穫」
人でなしとはいえ、大魔術師・エリファ・ルイ・コンスタンとて人の子である。
粉砕骨折した足は魔術の補助無しではぴくりとも動かせず、砕けた骨の破片が筋肉に突き刺さり内出血に神経断裂と、現在進行形で彼女に激痛を与え続けている。
元来人体に備え付けられたアラートが痛覚を通じてけたたましく鳴り響く中、エリファが最も強く意識している感情は……期待と憧憬だった。
「あぁ、征矢さま……。私、貴方をもっと知りとうございます」
頬は発熱した子供のように赤く染まり、目は焦点を定められずに潤んでいる。
まさに、恋する乙女と言って差し支えない様子だった。
「貴方様は平凡の生まれ。アストラルの入り口にも立てていない只人。
なのに、ですのに、何故でしょう!貴方は、えぇ!只人の身のままで、天の意思が織りなす世界精神を踏破しようとしている!」
エリファは自らの体を強く抱きしめ、体の芯を強く震わせていた。
腿の付近は湿り始め、興奮のあまり絶頂へ誘われるのではないかと、側から見れば確信する程に、彼女はよがっていた。
己が知らないもの。そんな物、探しても探しても見つからなかったのに、ようやく見つけた。ようやく見つけた!私の次の王子様!
「えぇ、えぇ!こうなってしまえば、魔術の普及などどうでも良いでしょう!」
「……」
ゼヴは往来で身を捩り続けるエリファの様子を見て、何か言葉を発することは無い。
『あぁ、また女王の気まぐれか」と達観すらしていた。
"エリファ・ルイ・コンスタンという女は破綻している"
それは我道征矢だけでは無く、革新派においても共通認識であった。
エリファ・ルイ・コンスタンはあまりにも多くの事を知りすぎてしまった故に、まだ見ぬ未知に飢えている。
その為に敢えて王道を抜け、大路から逸脱した我道を歩いているというが……本物の気狂いの類であるという見解が殆どだ。
例えば、現行の無能力者の、能力者という枠組みすら超えたアストラル世界への昇華……即ち魔術師への変貌。
ツェーク・ヘレムの力を用いた全人類の進化。
例えば、つい二年前に計画が破棄された、神の住まうとされる精神世界の現世への降臨。
幽体離脱や三途の川、天国や地獄といった、所詮別世界と呼ばれる曖昧な境界と現実世界の融合。
例えば、例えば、例えば例えば例えば……。
エリファ・ルイ・コンスタンが行った壮大な計画の数々は、そのどれもがあと一歩の所まで完成し……しかしその全てを未完に終わらせている。
今回もそうだ。
ツェーク・ヘレムは我道征矢と融合し、無能力者を見事アストラルの世界に誘う事に成功した。
あとは我道征矢を捕え、解剖し、そのメカニズムを解体していけば全人類の魔術師への移行への道はきっと大幅に短縮されるだろう。
だが、それもまた今回、道半ばで頓挫する。
それは何故か?
エリファ・ルイ・コンスタンにとって、それが未知では無くなってしまうからだ。
秘密の繭の糸を一つ一つ剥いでいく作業に最初は彼女も高揚し、何処までも探究していく。
しかし、最後の殻を破ろうと革新派の面々が期待を寄せた頃、エリファ・ルイ・コンスタンはそれを遊び飽きた子供のおもちゃのように捨ててしまう。
そうして、また彼女の傍迷惑な気まぐれは輪廻する。
つまるところ、エリファ・ルイ・コンスタンという超越者は、この世界で最も全能者に近い存在でありながら、その実何も成し得ていない。
次元規模の絶無を産み出し続ける彼女に革新派が付いて行く理由は一つ……彼女に対しての信仰にある。
エリファ・ルイ・コンスタンは超越者だ。
この世界において一人一つという能力の原則を鼻で笑って、その身一つであらゆる天災を引き起こす。
エリファ・ルイ・コンスタンは超越者だ。
結果として無限に絶無を生み出し続ける存在だとしても、その過程に値千金の価値がある。
彼女は完全に我々の見えていない世界を知覚している。
その副産物から生み出される成果物は、中には歴史を動かす程の大発見に繋がる事もあった。
エリファ・ルイ・コンスタンは破綻者だ。
それ故に俗人性を感じさせず『神の御心を我らが知る術は無い』として、一部の人間たちから狂信とも言うべき偏愛を一身に受けていた。
故に、故に、故に、故に。
畢竟、彼女の言う『乙女心』を理解する者など、この世の何処にも居はしないのだ。
「(オレは貴様が腹立たしいよ。我道征矢)」
何が彼女の地雷か、何が彼女を掻き立たせるのか、長年側に仕え続けていても蟻の触角ほどの理解も得られない男は心の中で怨嗟の炎を燃やす。
「(中途半端な仕上がりでは許さん。
ツェーク・ヘレムのアストラルのその力、貴様が己が手足のように扱えるようになったその時__)」
魔術に満たない異能は原始的な身体能力に近い。
ゼヴの感情の昂りに呼応し、手足の末端に蒼い電流が静かに 逬る。
「(____オレが貴様を殺し、女王の目を覚ますとしよう)」
三者三様。それぞれの想いが交錯する中、吹き抜ける冬の寒風だけが平等に人々の体温を冷ましていた。




