以卵投石⑥
変身が解除される。
振り抜いた拳は宙に抜けて、浮力の無い地上で泳いだものだから呆気なく体が地面に崩れ落ちる。
痛みの無い体から元の体に戻ったものだから、激突した路地裏の地面の感触は酷く痛かった。
「……征矢」
「……」
現状を上手く理解出来ていなかった。
俺を見下ろすツェークと、俺と同じ目線で顔に大怪我を負っている黒服の男……ゼヴがいて。
俺はあの赤く燃える姿になった時、凡人だと言われたら、抑えようの無い怒りが込み上げてきて。
……悪酔い明けの朝が、こんな感じなのだろうか?
酔っ払って暴れた後、記憶が無いと言っている、スラムの道端に落ちている男たちの感覚というのは。
「征矢」
「……なんだ」
「帰ろう。君の家へ」
「……」
ちらと、エリファとゼヴに目をやる。
ツェークを狙っている奴ら。俺の命を狙うと宣誓した奴ら。
そんな奴らが、果たして今の俺を逃すのかと。
「構いませんよ」
そう考えてある間にエリファが口にしたのは、そんな呆気ない許しだった。
「私が見たいのは、魔術の秘奥。只人の昇華。
つまり……今ここで無力な征矢さまを摘み取る意味はありませんし、面白くもありません」
「……アンタにとって俺達は、娯楽だって言いてぇのか?」
「はい。そうですが?」
即答だった。
「この男は何を言っているのだろうか?」とでも言いたげな、純粋無垢な瞳
"水の入ったコップを逆さにすると水が溢れる"
それぐらいの一般常識だろうとでも言っているような回答。
「……」
俺はそれに対して、何も言い返せなかった。
自分が、新たに得た力に溺れてあのような行動を取ってしまった事を思い返す。
俺自身の修練、鍛錬の未熟だとゼヴは言った。
……実際、その通りだろう。
最初はツェークの為にエリファと対峙していたのに、気づけばこれだ。
自分の弱さを刺激され、あまつさえそれに乗っかり、無様を晒しているのが今の俺だ。
対してエリファはどうか。
エリファ・ルイ・コンスタンは異常者だ。
自分の目的の為に人体実験を厭わず、俺たちの人生を丸ごと破滅させる手段を取る事を躊躇せず、俺たちが転げ回る様を娯楽として消費する。
正しく異常者。疑いようの無い破綻者だ。
だが、エリファ・ルイ・コンスタンは、破綻者という精神性において一貫している。
己が目的と快楽の為に我を通すという一点において、俺はこの女より愚直に非道になれるだろう人間を思いつかない。
それは超然としており、俗世から切り離された完璧な個。砕ける事無き金剛の意志。
つまるところ、俺とエリファの精神世界感応とやらの使い方はここが違うのだろうと、直感で判断した。
俺の力は所詮、ツェーク・ヘレムから一時貸与されているだけの力だ。
それに全能感を覚えた時点で、俺は俺の力で戦う事を放棄していたのだ。
「無様だな。我道征矢」
「……」
何も、言い返せない。実際その通りだ。
「哀れで、惨めで、くだらなく、情けない。女王の言う通りだ。今の貴様に殺す価値は無い」
「…………」
「ならば」
ゼヴは倒れ込んだ俺の胸ぐらを掴み上げ、壁に叩きつける。
背中に走る衝撃が、やけに響く。
「次に来る時は、マシな顔になっている事を期待している。我道征矢」
乱暴に放り投げられ、体が路地裏の冷えた地面に叩きつけられる。
ツェークの力によって強化されていない中の体は簡単に皮膚が裂け、血が滲む。
「それでは征矢さま」
こんな無様な俺に対しても、エリファは最後までカーテシーを忘れずに挨拶をする。
「ご機嫌よう。また、お会いしましょう」
倒れた体は冷たい地面に耳をぴたりと付けて、踵を返して遠ざかっていく足音を、いつまでもいつまでも鮮明に聞いていた。
○●
「なぁ、征矢」
「……んだよ。嘲笑いたきゃ好きに笑ってくれ」
「そうでは無くな」
陽も落ち始め、冷たい風が肌を刺す刻。
路地裏でいつまでも項垂れる俺に、ツェークは同じ目線に屈んで語りかけてきた。
「悪かった」
「……」
「アストラルの、世界精神に接続した精神がもたらす興奮状態を教えなかったのは、ボクのミスだ」
話の切り出しは、求めていない物からだった。
「そも、征矢はまだアストラルの世界に踏み込んで一日だ。
それに、征矢は無能力者なんだ。魔術の前段階のノウハウすら無いのに、よく頑張っている」
……|受け取るべきでは無かったもの《同情》。
「しかも征矢は何の能力も無い状態で、あの魔術の女王、エリファ・ルイ・コンスタンと渡り合ったのだ!
これは素晴らしいぞ!大金星では無いか!」
…………せめてもの評価点。
「だから、征矢」
「分かった」
ツェークが必死に俺を慰めている事は分かる。
それでも、これ以上善意を受け取れば俺は、きっと壊れてしまうような、否、彼女を壊してしまうような直感がして。
「分かったから」
「……征矢?」
「帰ろうぜ。帰りにそこのショッピングモールでバーっと豪遊してよ、今日は美味いものでも食おうぜ」
極めて何とも無いように努める。
天才の俺は一度ぐらい負けたぐらいじゃ折れないぞと。
そんな事、言われなくても分かってるぜクソガキ、と。
天才で、細かい事は気にせず、豪放磊落な我道征矢の像を貼り付ける。
それこそが我道征矢なのだと、心配させないように努める。
「(……クソっ)」
そうして俺は、落ちる陽に向かって歩き出すのだった。
まるで、際限なく転がり落ちていく自分の姿を投影したような夕陽を目指して……。
○●
西陽に照らされ、我道征矢から伸びた影は、見た目以上に酷く、小さく見えた。
ボクの手を引いてくれたその大きな背中が放つ哀愁は、重石を背負いすぎた罪人のようにも見えて。
「征矢、君は……」
何処までも、どんな時でも強くあろうとする人間。
そんな彼に一つ疑問が浮かぶ。
「……君は何故、天才という言葉に、そこまで囚われているんだ?」
ツェークが小さく呟いた言葉は、ビルの間の風の音に掻き消され、誰にも届く事は無かった。




