表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ラスト・スパイク

作者: 平沢大河
掲載日:2025/10/28

革と、ゴム底と、染み付いた汗の匂い。そのすべてがほこりと混じり合い、店全体がくたびれた息を吐いているようだった。


「スズキスポーツ」が、今日で終わる。


高野たかのは、ワゴンセールの投げ売りになった硬球を、意味もなく握ってはカゴに戻した。ボールの縫い目が、とうに忘れたはずの感触を指先に呼び覚ます。もう誰も、この店で新しい季節のユニフォームに袖を通すことはない。棚からあるじを失ったグローブやバットが、がらんどうの空間に所在なく並んでいる。


それは、湿布薬の匂いが染みついた自分の右膝と、どこか似ていた。


「閉店セール」の真っ赤な貼り紙だけが、やけに鮮やかだ。惜しんで駆けつけたというより、ただ惰性で立ち寄った。この町から野球の匂いがまたひとつ消える、その最後の瞬間に、自分が何を期待しているのか、高野自身にもわからなかった。


彼は、古傷がうずく膝をかばうように、店のいちばん奥、少年野球用品が追いやられた埃っぽい棚へと、ゆっくりと足を進めた。


棚の最下段、プラスチックケースの影に、半分潰れたシューズボックスが打ち捨てられたように転がっていた。白地に青いロゴ。二十年以上前のデザインだ。


高野は、そこに何があるかを直感的に悟った。


膝の痛みを無視して屈み込み、箱を引きずり出す。埃を手の甲で払うと、側面に記された型番と「27.5」の数字がにじんで見えた。蓋を開ける。薄紙をかき分けると、それは息を潜めて待っていた。


黒のカンガルー革。外側にだけ走る、獲物を狙う獣のような銀色の三本線。埋め込み式の金属刃。


「……ミラージュ・ウルフ」


乾いた唇から、声が漏れた。


高校二年の夏、雑誌で見た憧れのモデル。甲子園のスター選手がこれを履き、土煙を上げてベースを陥れる姿に、高野たちは熱狂した。これを履けば、自分もあの場所へ行ける。そんな、根拠のない万能感を抱かせてくれる一足だった。


だが、当時の高野には高嶺の花だった。親にねだることもできず、型落ちの安いスパイクを履き潰し、そして最後の夏、彼は夢に敗れた。


(あと一歩、届かなかった)


脳裏をよぎるのは、栄光の場面ではない。地方大会準決勝、九回裏二死。一塁走者だった高野は、痛恨の牽制死けんせいしを喫した。焦り。スパイクが土を噛み切れなかった、あの鈍い感触。


もし、あの時。 もし、これを履いていたら――。


そんな、40歳の男が抱くにはくだらなすぎる「もしも」が、古傷の奥で疼いた。 「今さら、何に使う」 自分に問いかける。少年野球のノックで履くには、刃が鋭すぎる。町工場の油に汚れた作業着の自分が、これを履いてどこへ走るというのか。


だが、高野は立ち上がれなかった。


まるで最後の夏から、牽制球に飛び出したあの瞬間から動けずにいた自分自身を見つけたような気がした。


「……すみません」


高野は、埃まみれの箱を抱え、レジに立つ白髪の店主に向き直った。店主は値札を見て一瞬目を丸くしたが、すぐに無表情に戻り、バーコードリーダーを探した。


「お客さん、これ、もうリーダー通らないや。レジ打ちでいいかい」 「……はい。それで、お願いします」


「半額で、1万2千円」


高野は財布から一万円札と千円札を数枚出し、震える手でトレーに置いた。


「スズキスポーツ」のロゴが入った、やけに大きなビニール袋がカサリと音を立てる。自動ドアが開き、生ぬるい外気が頬を撫でた。


夕暮れの商店街に、自分の場違いな買い物が照らされているようで気恥ずかしい。だが、袋を握る左手は、妙に汗ばんでいた。


高野はビニール袋を小さく折りたたむと、中身の箱を脇に抱え直した。ずしり、とした重みが、二十数年分の時間の重さのように感じられた。


その足は、自然といつもの河川敷グラウンドへと向いていた。 「カン、カン」と甲高い金属音が、風に乗って聞こえてくる。


少年野球チーム「町内ブレイカーズ」の、土曜の練習が始まっている。


河川敷の砂利道を踏むたび、脇に抱えた箱がガサガサと抗議するような音を立てた。


夕陽がグラウンドを赤く、まるで血のように染めている。土埃の中で、サイズの合っていないユニフォームを着た子供たちが、甲高い声を張り上げていた。


「声出していこう!」「サード、もっと前!」


高野は、バックネット代わりの錆びた金網の前で足を止めた。いつもの練習風景が、今日だけは遠い世界の出来事のように見える。手の中の「ミラージュ・ウルフ」が、この場所に不釣り合いな、触れてはいけない遺物のように思えた。


彼はそれを、誰にも見咎とがめられないよう、そっとベンチの端に置いた。


「次、アキラ!」


フリーバッティングの列から、ひときわ小柄な影がバッターボックスに向かう。アキラだ。チームで一番不器用で、一番声が大きく、そして一番、高野の言うことを素直に聞く少年。


「こい! コーチ、見ててください!」 アキラが振り向き、高野に叫んだ。その目は、明日への期待と不安でギラギラしている。


高野は無言でうなずいた。


投球マシンのアームがしなり、ボールが放たれる。アキラの体が、柳の枝のように硬直するのが見えた。


「ブンッ!」


バットが、ボールのはるか下を切り裂く。派手な空振り。ヘルメットがずり落ち、アキラの目を覆った。


「あー! クソッ!」


「アキラ、力みすぎだ!」と、仲間からヤジが飛ぶ。 「もう一球!」


次の球。バットの先に辛うじて当てた打球は、力なくピッチャー前に転がった。凡打。アキラはバットの先で地面を悔しそうに叩いている。


高野は、金網のフックから指を離し、ゆっくりとアキラのもとへ歩いた。


(違う。そうじゃない)


言いたいことは山ほどある。脇を締めろ。ステップを小さく。ボールを最後まで見ろ。 だが、今、高野の目に映っているのは、目の前の少年ではない。準決勝の塁上で、牽制球に飛び出してしまった、17歳の自分自身だった。


(あの時、俺もああだった。体が、まるで鉛みたいに固まって)


「アキラ」


高野の声は、自分でも驚くほど低く、乾いていた。 「はい!」アキラがヘルメットを押し上げ、直立不動になる。


「……お前、なんでそんなに手と足が一緒に出るんだ」 「う……すみません!」


「『リラックスしろ』と言っても、無理か」高野は苦笑いした。 「だって、決勝……明日じゃないですか。俺、絶対打ちたいんです。あの、カミナリクラブから」


明日は地区大会の決勝。相手は常勝の強豪チームだ。この弱小ブレイカーズが決勝まで来たこと自体、町では「百年に一度の奇跡」と呼ばれている。


高野はアキラの頭にポンと手を置いた。「わかってる。だがな、アキラ」


高野は一瞬、言葉を切った。


「勝ちたいと思うあまり、体が先に『アウト』になっちまうこともあるんだ」


「え?」


アキラが、その言葉の意味を測りかねて、きょとんとした顔で高野を見上げる。


「……なんでもない。練習続けろ。次、一本集中な」


高野はそう言って、きびすを返した。自分が置いた、あの埃っぽいスパイクの箱から、目をそらすように。


ベンチに戻ると、隣に座っていたスコアラーの母親が、高野が置いた箱を不思議そうに見ていた。 「コーチ。それ、どうしたんですか? 新しいの?」


「いや……」高野は答えに窮した。「昔の、知り合いのもんで。ちょっと、預かってるだけです」


うそを、ついた。 その夜、高野は工場の残業を終えた後、誰の目もない深夜のグラウンドに、一人で立っていた。


右手には、あの箱。 彼はベンチに腰掛け、ついにその薄紙を破った。新品の革の匂いが、夜の湿気を含んだ土の匂いと混じり合う。


高野は、油の染みた作業靴を脱ぎ捨て、ゆっくりと、祈るように、その銀色のスパイクに足を入れた。


吸い付く、という感覚ではなかった。 新品の革は硬く、まるで他人の足が無理やり押し入るのを拒絶するように、高野のくるぶしを圧迫した。だが、靴紐を締め上げ、金属の刃が深夜の湿った土を掴むと、忘れかけていた感覚が全身を貫いた。


走れる。 そう思った。


高野はベンチから立ち、衝動的に一塁ベースへ向かって数歩、駆けだした。


「――ッ!」


電気が走ったような鋭い痛みが、右膝を撃ち抜いた。 バランスを崩し、高野は三歩目で無様に土に手をついた。


「……は、はは」


乾いた笑いが漏れる。 痛む膝をさすりながら、月明かりに光る銀色の三本線をにらみつける。 わかっていたことだ。金属バットが木製バットに変わるように、体はとっくに消耗品になっている。


(もう、俺は走れない)


あの日の牽制死から、一歩も。


ベンチに引きずり、スパイクを脱ぐ。まだ高野の体温が移る前の、冷たい革の感触。 これは、過去への贖罪しょくざいでも、ノスタルジーでもない。


(じゃあ、なんで買ったんだ)


答えは出ない。ただ、明日、決勝で戦う子供たちの顔が浮かんだ。 特に、アキラの顔が。 あの、大事な場面で体が硬直する、不器用な少年の顔が。


高野はスパイクを丁寧に布で拭き、元の埃っぽい箱に仕舞った。


翌日、地区大会決勝。 空は、皮肉なほど真っ青に晴れ渡っていた。


「カミナリクラブ」の応援団が叩く太鼓の音が、高野たちのいる三塁側ベンチまで地響きのように伝わってくる。


「声出していこうぜ!」「絶対勝つぞ!」


ブレイカーズの選手たちも必死に声を出すが、その表情は一様に硬い。 高野は、ベンチの端、自分の道具カバンの隣に、あの「ミラージュ・ウルフ」の箱をそっと置いた。誰にも気づかれない、お守りのように。


試合は、一方的な展開になった。 カミナリクラブの強力な打線が、ブレイカーズのエースに襲いかかる。内野の連携が乱れ、外野が打球処理を誤る。すべてが、昨日までの奇跡的な勝ち上がりとは別チームのように、ちぐはぐだった。


アキラも例外ではない。 サードの守備で、正面のゴロを捕球し、送球する。それだけの動作が、まるでスローモーションのようにぎこちない。エラーこそしないが、アウトを一つ取るたびに、安堵あんどのため息を漏らしているのがベンチからもわかった。


五回裏、カミナリクラブの攻撃。なおも二死二塁。 「0-3」。これ以上、点はやれない場面だった。


高めのカーブを相手の五番バッターが強振する。 「カキィン!」 打球は、弾丸ライナーで三塁線へ飛んだ。


アキラの真正面。 だが、アキラは一歩も動けなかった。 グラブを出すことさえ忘れ、ただ目を見開いて、その場に立ち尽くす。


打球は、アキラのグラブのわずか数センチ横を、嘲笑うかのようにすり抜けていった。 レフト前ヒット。ランナーが生還し、ダメ押しの4点目が入る。


「アキラ!」 高野が思わず叫んだ。 アキラは、ボールが転がっていったレフトの方を、魂が抜けたように見つめている。


(体が、先にアウトになってる)


高野は、自分の右膝を強く握りしめた。あの日の、牽制球から目を離せなかった自分と、アキラの姿が完璧に重なった。


試合は進み、0-4のまま、ついに最終回、七回表。 ブレイカーズ、最後の攻撃。


「終わらせるな!」「ここからだぞ!」 虚しい声援が飛ぶ。


ワンアウト。 ツーアウト。


カミナリクラブのピッチャーは、余裕の笑みを浮かべている。応援席は、すでに勝利の校歌を歌う準備を始めていた。


だが、ここからだった。 「奇跡」と呼ぶにはあまりにささやかな、しかし確実な「粘り」が始まった。


九番バッターが、死球で出塁する。 一番バッターが、バットに当てただけの打球が幸いし、内野安打。 二番は、粘りに粘った末の、四球。


ツーアウト、満塁。


ベンチが、にわかに息を吹き返す。 「いけるぞ!」「まわせ、まわせ!」


そして、バッターボックスに向かう背番号「5」。


アキラだった。


球場の全ての音が、一度消えたように感じられた。 カミナリクラブの監督が、マウンドのピッチャーに声をかける。


アキラは、バッターボックスで小さく震えていた。昨日、練習で空振りしていた時よりも、さらに小さく、硬くなっている。


(ダメだ。あいつは、もう打てない) 高野の脳裏に、最悪の結末がよぎった。


「タイム!」


高野は、審判に向かって叫んでいた。 ベンチがざわめく。この土壇場で、何を言うつもりだ、と。


高野は、ベンチの端に置いた「ミラージュ・ウルフ」の箱には目もくれず、まっすぐにアキラのもとへ歩いていく。


一歩、また一歩と近づくたび、自分の古傷が、あの日の過ちを思い出せとばかりに疼く。


アキラは、ヘルメットの中で泣きそうな顔をしていた。 「コーチ……おれ、どうしよう……足が、動かない……」


高野は、技術的な指導の言葉をすべて飲み込んだ。 彼はアキラの肩を、骨がきしむほど強く掴んだ。


「アキラ」


「……はい」


「俺はな、高校の時、お前みたいに大事な試合で、足が動かなくなった」 高野の声は低く、アキラにしか聞こえない。


「怖くて、体が先にアウトになったんだ。結果、走る前に負けた」 「……」


「いいか。結果はどうでもいい。三振したって、ゴロに終わったっていい」 高野は、アキラの目を真っ直ぐに見据えた。


「だが、お前は、俺みたいになるな」


「――当てるな。振るんだ」


「バットも、足も、お前の全部を、思いっきり振ってこい」


高野はアキラのヘルメットを、バシン!と強く叩いた。 「行ってこい!」


審判が、タイムの終了を促す。 高野はベンチに戻りながら、自分の右膝を強く握りしめた。祈るように。


アキラが、バッターボックスで大きく息を吐き、バットを構え直す。 その目は、もう震えてはいなかった。 カミナリクラブのピッチャーが、サインに頷き、振りかぶる。


球場の誰もが固唾を飲んだ、その初球。


ワインドアップから放たれた白球は、アキラの胸元をえぐるような、厳しいストレートだった。


(振れ!) 高野がベンチで叫ぶのと、アキラがバットを振り抜くのは、ほぼ同時だった。


それは、昨日までの力ないスイングではなかった。当てるためでも、逃げるためでもない。持てる力のすべてを叩きつけるような、無茶苦茶なスイングだった。


「カキン!」


鈍い音が響く。 振り遅れたバットの根元に当たった打球は、勢いを殺され、最悪のコースへと転がった。


ピッチャーの足元だ。


「……!」


カミナリクラブのピッチャーが、それをこともなげに拾い上げる。 ワンアウト、ツーアウト……そして、スリーアウト目。 満塁のランナーたちは、それぞれの塁上で凍り付いていた。


試合終了。 誰もがそう思った。


ピッチャーが、勝利を確信した笑みで、ゆっくりと一塁へ送球しようと腕を振りかぶる。


その瞬間。 球場にいた誰もが、信じられないものを見た。


「うおおおおおおっ!」


獣のような、耳をつんざく叫び声。


バットを叩きつけるように捨てたアキラが、一塁ベースに向かって、まるで地面を蹴り破るかのように疾走していた。


(振れ。お前の全部を)


高野の言葉が、アキラの全身を突き動かしていた。 それは、技術的に正しい走り方ではなかった。肩は怒り、頭は上下し、まるで壊れたブリキのオモチャだ。


だが、速かった。 恐怖から解放された体は、必死さだけを推進力にして、土煙を巻き上げた。


「なっ!?」


ピッチャーの表情から笑みが消える。 予想外の猛チャージに焦り、送球の体勢がわずかに崩れた。


ボールが、その手を離れる。 一塁手のミットが、ベースカバーに伸びる。


(間に合え!)


アキラは、ベースの三歩手前で、飛んだ。 自らの体を、地面スレスレに投げ出した。


ヘッドスライディングだ。


高野は、ベンチから身を乗り出していた。 土埃が舞い上がる。アキラの指先が、白いベースを狂おしく引っ掻こうと宙を舞う。 一塁手のミットが、それよりわずか早く、送球を掴んだ。


「アウトッ!」


塁審の右手が、残忍なほど力強く、青空を切り裂いた。


「……ああ」 ベンチから、誰かのため息が漏れる。


ブレイカーズの選手たちが、その場に崩れ落ち、泣き始めた。 カミナリクラブの選手たちが、マウンドに駆け寄り、歓喜の輪を作る。


負けたのだ。 百年に一度の奇跡は、ここで終わった。


だが、高野は動けなかった。 泥だらけになって倒れ込み、肩で大きく息をするアキラの姿から、目が離せなかった。


アキラは、泣いていなかった。 悔しさで顔をぐしゃぐしゃに歪めながらも、その目は、真っ直ぐに、自分が今しがた触れようとした一塁ベースを見つめていた。


(そうだ、アキラ)


高野は、自分の右膝をそっと撫でた。 あの日の牽制死とは違う。 あれは、恐怖に足がもつれ、土を掴めなかったスパイクの感触だ。


だが、アキラのあれは、恐怖に打ち勝ち、自ら土に飛び込んだスライディングだ。


(お前は、振ったんだ。俺が振れなかった、すべてを)


高野の胸の奥で、二十数年間、凍り付いていた何かが、静かに、確実に溶けていくのを感じた。


----エピローグ----


整列が終わり、互いの健闘を称え合った後、アキラは泥まみれのユニフォームのまま、高野の前に仁王立ちになった。


「コーチ」 その目は、負けた悔しさで赤く腫れていた。


「……すみませんでした。俺、打てなかった」


高野は、黙ってアキラの頭に手を置いた。そして、ヘルメットでぐしゃぐしゃになった髪を、いつもより少し強くかき混ぜた。


「ああ。打てなかったな」 「……」 「だが、いいスライディングだった。土煙、すごかったぞ」


アキラは、その言葉の意味がわからず、きょとんとした顔をした。だが、すぐに「押忍!」とだけ叫ぶと、仲間の元へ走って戻っていった。その足取りは、試合前のように硬直してはいなかった。


その夜。 祝勝会ならぬ「準優勝お疲れ様会」の喧騒が引いた後、高野は工場の自分のロッカーの前に立っていた。


湿った夜気が、機械油の匂いに混じって、首筋を冷やす。 彼は、ベンチに置きっぱなしだった、あの埃っぽい箱を手に取った。


「ミラージュ・ウルフ」


蓋を開ける。新品の革の匂いが、ふわりと香った。 これを履いて、もう一度走りたいとは思わない。これを履いていれば、あの夏勝てた、とも思わない。


高野は、そのスパイクを、ロッカーの一番奥、埃をかぶった古い工具箱の隣に、一度はしまった。 過去は過去だ。そうやって蓋をするべきだと。


だが、彼はもう一度手を伸ばし、箱を取り出した。 そして、タグも切られていないそのスパイクを、ロッカーの一番手前、毎日使うヘルメットの隣に、そっと置き直した。


隠すものではない。 かといって、神棚に飾るものでもない。


これは、果たせなかった過去でも、叶わなかった「もしも」でもない。 あの夏、高野が牽制死した塁上から、今日、アキラがヘッドスライディングで土煙を上げた一塁へ。


見えないバトンが渡された、その証だ。


高野はロッカーの扉を静かに閉めた。 「カチャン」という乾いた金属音が、やけに心地よく響く。 湿布薬の匂いが染みついた古傷の右膝が、今日はもう、痛まなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ