第二次べララベラ海戦(もしも軽巡:川内がいたら)
昭和十八年十月六日、ソロモン諸島北方の海。
夜の帳は濃く、月明かりすら雲に隠され、漆黒の海がどこまでも広がっていた。
その闇を切り裂くように、一隻の軽巡洋艦が進んでいく。旗艦「川内」。その周囲には、六隻の駆逐艦が護衛の翼を広げ、さらに後方には三隻の輸送任務駆逐艦と多数の小型舟艇が続いていた。彼らが運ぶのは物資ではない。ベララベラ島に取り残された六百の仲間たちを救うための希望そのものだった。
川内の艦橋は、張り詰めた空気に満ちていた。
「……敵は必ず出てくる」
海図卓を照らすランプの下、第一水雷戦隊司令官・伊崎揚雄少将は低く呟いた。その声は静かだが、艦橋にいた誰もがその重さを感じ取った。ソロモンの海では、撤収作戦の度に敵が待ち構えていた。今回もまた、米駆逐艦が夜の海を嗅ぎ回っていることは間違いない。
「この任務、成功させねばならん」
艦長・深山大佐は、双眼鏡を握り締めた手に力を込めた。艦橋の窓越しに見えるのは、ただ果てしない闇ばかり。それでも耳を澄ませば、遠くの波音に交じって金属の軋む響きが聞こえるような気がする。敵もまた、この闇の中にいるのだ。
若い通信兵は、汗ばんだ手でヘッドフォンを押さえ、ひたすらに耳を澄ませていた。雑音の向こうから敵の無線が聞こえるかもしれない。砲側に詰める砲手たちは、息を殺して待機する。甲板上では、雷撃員たちが冷たい風にさらされながら魚雷発射管の安全装置を点検していた。誰もが言葉を飲み込み、次に来る瞬間を待ち構えている。
「敵影なきか」
深山艦長の問いに、見張り員たちが目を凝らす。
その時、前檣楼の上から声が響いた。
「――右舷遠方、発光らしきもの!」
艦橋がざわめいた。報告を受けた測距員が即座に距離を算出し、通信兵が各艦に暗号灯で指令を送る。海図上に、赤い鉛筆で敵艦隊の影が記されていく。
「来たか……」
伊崎少将は深く息を吐き、海図から顔を上げた。
その眼差しは鋭く、闇を貫くように前方を見据える。
やがて、闇の帳の向こうに、白い火花のような閃光が瞬いた。敵が砲門を開いたのだ。
第二次ベララベラ海戦――史実には存在しなかった「川内」の影が、いまこの海に浮かび上がろうとしていた。
ーー
敵影は確かにあった。
米海軍駆逐艦群――少なくとも四、五隻が、こちらの撤収作戦を阻止すべく待ち構えている。互いに数は拮抗、いや、こちらは輸送隊を抱えているぶん不利だった。
「全艦、戦闘用意!」
川内の艦橋に、深山艦長の声が鋭く響く。艦内各所のベルがけたたましく鳴り、甲板の上で待機していた砲員たちが一斉に動き出した。
川内の主砲は、14センチ単装砲。三連装や連装砲塔を誇る新鋭艦とは異なり、旧式の単装砲塔が七基、艦の前後に点々と並んでいた。しかし、彼らにとってそれは誇りでもあった。手動で旋回させ、汗を流して装填する――その一発に魂を込める。
「前部砲、射角三〇度、敵艦照準!」
砲側指揮官が声を張り上げる。装填員が弾丸を押し込み、砲尾が閉鎖される。甲板に響く金属音が緊張をさらに高めた。
伊崎少将は海図に手を置いたまま、冷静に命を下す。
「第一群、右舷に展開し敵を牽制せよ。第二群は川内に続け。雷撃の機会を逃すな」
信号灯が瞬き、駆逐艦「敷波」「浦波」「白露」「時雨」が、夜の闇を切り裂くようにそれぞれの配置へと散っていく。
その刹那、闇を引き裂いて敵弾が飛来した。轟音とともに水柱が立ち、川内の艦橋を大きく揺さぶる。窓に海水が叩きつけられ、若い通信兵が思わず体を縮めた。
「敵距離、八千!」
「前部砲、撃て!」
深山艦長の号令に、川内の二基の前部単装砲が火を噴いた。甲板を震わせる衝撃と共に砲弾が夜空を裂き、真紅の閃光が米艦の影を照らす。さらに艦尾の四基も次々と吠え、単装砲ならではの速射が闇を赤く染めた。
「命中! 敵艦に水柱!」
見張り員の叫び。確実な手応えではないが、敵の進撃を鈍らせるには十分だった。
同時に駆逐艦群も砲火を浴びせる。二〇門を超える小口径砲が夜の海に閃光を散らし、双方の水柱と火線が入り乱れる。照明弾が撃ち上げられ、闇が昼のように白く照らされると、米駆逐艦の姿が一瞬浮かび上がった。
「魚雷、装填よし!」
雷撃員の報告が艦橋に届く。
伊崎少将は短く息を吐き、静かに命じた。
「……今だ。撃て」
川内右舷の発射管から、長魚雷が一斉に放たれた。甲板が震え、銀色の巨魚が海面に飛び出して闇の奥へ消えていく。続けざまに「時雨」「浦波」も雷撃を放ち、十数本の魚雷が夜の水面を疾駆する。
やがて、遠方に鈍い爆発音が響いた。
「命中! 敵駆逐艦、炎上!」
見張り員が叫ぶ。米艦の一隻が大きく傾き、炎を噴き上げていた。夜空を赤く焼き、黒煙が渦を巻く。
しかし、安堵は束の間だった。敵もまた反撃を強め、砲弾が雨のように降り注ぐ。川内の後方を守っていた「白露」が被弾し、艦尾から黒煙を上げながら必死に舵を保っていた。
「撤収部隊はまだ安全圏に至っていない……」
伊崎少将は低く呟き、海図から目を上げる。その瞳は、闇を裂く閃光の中でなお冷静に光っていた。
戦いは、これからが正念場であった。
砲火は一層激しくなっていた。
米駆逐艦群は左右から包み込むように展開し、夜空を切り裂く砲弾が雨のように降り注ぐ。照明弾が炸裂し、白光に浮かび上がったのは、突進してくる敵影だった。
「被弾! 後部甲板!」
報告が艦橋に響く。
川内の艦尾に直撃弾。破片が甲板を飛び交い、砲側員が血に倒れる。黒煙と火薬の臭気が艦橋を包み、視界が霞んだ。
「消火班、急げ! 負傷者を後送!」
深山艦長が怒号を飛ばす。後部砲員たちは必死に火を消し止め、なおも残った砲で反撃を続ける。単装砲ならではの速射が闇を震わせた。
「敵、右舷三千、急速接近!」
見張り員の声が艦橋を貫く。米駆逐艦が白波を蹴立てて迫り、砲火を浴びせながら肉迫してきた。
「風雲、夕雲、突入せよ!」
伊崎少将の命令が信号灯で送られる。応じた二隻の駆逐艦が舷側砲を撃ち放ち、米艦に火花を散らした。続いて「磯風」「時雨」が雷撃態勢に入り、白い航跡を描いて魚雷を放つ。
「五月雨、援護砲火!」
後方を行く「五月雨」が旋回し、艦首砲で敵弾を打ち返す。その砲声に重なるように、川内前部砲二門が火を噴き、閃光が米艦の艦橋を照らした。
やがて轟音。
「命中! 敵一隻、大破!」
米駆逐艦の一隻が爆炎に包まれ、傾きながら退避していくのが見えた。
だが反撃は苛烈だった。敵砲弾が川内の艦橋近くに炸裂し、窓ガラスが粉々に砕け散った。通信兵が血に倒れ、負傷兵の呻きが艦内に満ちる。
「左舷発射管、残り二門!」
雷撃長の声が響く。
「撃て!」
伊崎少将は即断した。
銀色の巨魚が夜の海を駆け、数秒後、轟音が水面を揺るがす。敵艦の艦首が吹き飛び、炎と煙に包まれて沈みゆく。
しかし、川内もまた限界に近づいていた。右舷に大穴が開き、浸水が始まっている。ダメージコントロール班が必死にポンプを回し、艦体を支えていた。
後方では輸送部隊の「文月」「夕凪」「松風」が、折畳浮舟と小発、大発を曳航しながら撤収兵を収容していた。さらに第20号・第23号・第30号駆潜特務艇が守りを固め、必死の退避を続けている。
「……まだ沈まん。撤収部隊を護らねばならん」
川内艦橋で伊崎少将は冷静に呟いた。
夜の海に、旗艦「川内」はなおも砲火を放ち続けた。炎と煙に包まれながらも、その姿はまるで戦場の灯火であり、撤収部隊を導く矛先であった。
ーー
夜明け前の海は、戦火の傷跡を隠すように静かだった。
砲撃で生じた水柱の痕や、戦闘で立ち上った黒煙の名残は、まだ海面に漂っている。だが、もはや敵艦の姿はない。夜襲部隊の駆逐艦、輸送部隊、そして収容部隊――全ての艦艇が無事に撤収海域を抜け、ソロモン諸島北方の安全な水域へと舵を切っていた。
旗艦「川内」の艦橋は、長い緊張の後の静寂に包まれていた。右舷には大きな裂傷が走り、浸水が進む艦体の隅々をダメージコントロール班が必死に食い止めていた。甲板には砲塔の破片や、戦闘で散らばった弾薬の残骸が散乱している。だが、その艦体はまだ海を進んでいた。
「……撤収完了か」
深山艦長が静かに呟く。艦橋の乗員たちは、緊張の糸がようやく解けるのを感じ、深く息をついた。疲労で肩を落とす者、砲の照準を確認していた手を握りしめる者。誰もが一夜の戦闘の恐怖と安堵を胸に刻んでいた。
「伊崎少将、輸送部隊は全員無事です。収容部隊も全隻健在です」
報告を受け、少将は小さく頷いた。戦場での決断と指揮が、全ての兵を守った証であった。
川内の乗員たちも、胸の奥に達成感と安堵を感じていた。単装砲七基による連射で敵を牽制し、雷撃戦で敵を撃退し、駆逐艦と共に輸送部隊を守り抜いた。犠牲もあったが、仲間を守り抜いた誇りは、それに勝るものだった。
遠方に目をやると、撤収を終えた「文月」「夕凪」「松風」、そして折畳浮舟や大発を曳航する収容艇が穏やかな波間に揺れていた。駆逐艦「秋雲」「風雲」「夕雲」「磯風」「時雨」「五月雨」も、旗艦川内の指揮の下、完璧に任務を全うしていた。
「……これで全員、安全だ」
伊崎少将は深山艦長の肩に手を置き、短く呟いた。艦隊の旗艦としての役目を果たした川内の姿は、夜明けの薄明かりに照らされ、海に浮かぶ灯火のように静かに輝いていた。
甲板では、乗員たちが互いに肩を叩き合い、戦友の無事を確認しあう。焦げた砲塔、裂けた甲板、浸水する艦体――それらの傷跡は戦いの記憶であり、同時に生還の証でもあった。川内は、旗艦として仲間たちを導き抜いたのだ。
遠くの水平線が、赤みを帯びて空を染め始める。夜の闘いで失われた恐怖や緊張は、朝の光の中でゆっくりと解けていった。海面は穏やかに波打ち、戦場の痕跡も徐々に静けさに還っていく。
旗艦「川内」は、まだ傷だらけの姿でありながら、揺るがぬ矜持と共に進む。撤収に成功した艦隊の希望の象徴として、夜明けの海にその影を残したのだった。




