第7話 未来へ歩く朝
目覚めた瞬間、胸の奥が静かだった。
秒針のコチ、コチは相変わらず響いているのに、耳の奥で重なっていたあの鐘の音はもうない。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、部屋を白く染める。
昨日までと同じ光景のはずなのに、世界が少し違って見えた。
——いや、違うのは俺の方か。
台所へ降りると、妹が制服の袖をまくって朝食を作っていた。
味噌汁の匂い。焼き魚の匂い。
どれも昨日までと同じなのに、懐かしいような気さえする。
「お兄ちゃん、起きた? 今日はちゃんと学校行く?」
「行く。……久しぶりにな」
妹は少し笑った。
頬の赤みは戻り、目の下の影も薄くなっている。
「昨日、あの人から連絡あったよ。“これで終わり”って」
「そうか」
短い言葉に、すべての意味が詰まっていた。
妹は椀をテーブルに並べ、俺の前に座った。
「ねえ、お兄ちゃん。今度、文化祭のポスター、手伝ってくれる?」
「絵は描けないぞ」
「色塗りくらいできるでしょ。……一緒に仕上げたいの」
言葉の最後が少し照れくさそうで、俺は思わず笑った。
「じゃあ、やる。二人で完成させよう」
登校途中、仮囲いの前を通る。
工事の音が規則正しく響く。昨日まで嫌だった音が、今はただの町の音に聞こえた。
駅のホームを見上げても、胸が冷たくならない。
人波の中に、昨日の自分はいない。
昇降口で靴を履き替えていると、海斗が現れた。
襟を直し、手をポケットから出している。以前より少し落ち着いた顔。
「よ」
「おう」
短い挨拶。
海斗は封筒のコピーを取り出して見せた。
「工場から“受領済み”のメールも来た。完済、完了だ」
肩の奥の緊張が一気に解ける。
海斗はそれを見て、ふっと笑った。
「兄貴、顔マシになったな」
「お前もな」
ほんの一瞬、二人で笑い合う。
その笑いは、昨日までの敵意も不信も全部含んで溶かす笑いだった。
「じゃあ、放課後はポスター描き手伝ってやれよ。あいつ、妙に張り切ってるから」
「分かってる」
海斗は背を向け、手をひらひらと振って昇降口を出ていった。
授業中、窓から見える空はやけに青かった。
鉛筆の音、先生の声、チャイムの音——昨日まで無意味に感じた音が、全部現実に戻ってきた。
生きている音だ。
放課後、妹と図工室に残り、二人でポスターの下書きを広げる。
妹がペンを持ち、俺が色鉛筆を並べる。
「——こうやって一緒にいるの、久しぶりだね」
「そうだな」
妹は筆を止め、じっと俺を見た。
「お兄ちゃん。あの日……何度もやり直してくれたんでしょ?」
息が止まった。
妹の声は確信に満ちていた。
「夢みたいだったけど、分かるんだ。だって……顔が毎回、少しずつ違ったから」
俺は少しだけ笑った。
「——ああ。やり直した。何度も」
「ありがとう」
その言葉は、鐘の音を上書きするように胸の奥に響いた。
夕暮れ、完成間近のポスターを二人で眺める。
紙面に描かれた文化祭のタイトルが夕日を浴びて光る。
世界は変わったわけじゃない。
ただ、俺たちが変わった。
「明日も、明後日も、普通に来るのかな」
「来るさ。——今度は、普通でいい」
妹が笑った。
その笑顔を見ながら、俺は深く息を吸った。
肺の奥まで光が入る。
もう、秒針の音は怖くない。
コチ、コチ、コチ。
それは“次の一日”へ進む音だった。