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第6話 最後の交渉

目を開けると、白い天井が見えた。

 病院の匂い。消毒液と静電気の混じった、あの匂い。

 心臓がまだ打っていることに気づくまで、少し時間がかかった。


「……生きてる」


 声に出した途端、喉が焼けるように痛んだ。

 ベッドの横で妹が目をこすり、ぱっと顔を上げる。


「お兄ちゃん! よかった……!」


 妹の目は赤く腫れていた。

 手には、昨日男に渡した契約書の控えが握られている。


「受領の……サイン、もらった?」


 妹は強く頷いた。


「うん。ちゃんと書いてもらった。海斗くんが立ち会ってくれたし、写真も撮った」


 胸の奥の何かが、ようやく緩んだ。

 鐘の音は鳴らない。世界は回っているが、昨日の朝へは戻らない。

 これは——続きだ。


 退院許可が出るまで、三日かかった。

 その間に海斗が残りの金を集め、契約通りの振込手続きをしてくれた。

 学校にも事情を話した。停学の可能性もあったが、顧問の先生が仲裁に入り、「反省文とボランティア活動」で済むことになった。


 久しぶりに家に帰ると、妹が玄関で出迎えた。

 制服の袖をまくり、ほほ笑む顔は以前より少し大人びて見えた。


「おかえり」


「……ただいま」


 その言葉を言える朝が、もう二度と来ないと思っていた。

 帰ってこられたんだ——そう思ったら、視界が滲んだ。


 翌日、三人で駅裏へ向かった。

 もう恐怖はなかった。

 男は、相変わらず煙草をくわえて待っていた。


「ちゃんと払ったな。……筋は通した」


 男はサイン済みの契約書をもう一度確認し、頷いた。


「これで終わりだ。お前ら、二度と近づくな」


 妹が深く頭を下げる。海斗も同じように頭を下げた。

 俺も、ほんの一拍置いてから頭を下げた。


「……ありがとうございました」


 男は片手を振り、背を向ける。

 煙草の煙が風に溶け、赤い夕陽が倉庫の影を伸ばした。


 帰り道、海斗が笑った。


「兄貴、マジでやり切ったな」


「お前がいたからだ」


 海斗は照れくさそうに頭をかいた。


「じゃあな。また学校で」


 妹が横で小さく手を振る。

 彼の背中が遠ざかっていくのを見送り、俺は大きく息を吐いた。


「終わったな」


 妹は頷き、ふと笑った。


「ねえ、お兄ちゃん。私ね、また文化祭のポスター描くことになったんだ。

 前のは途中で止まっちゃったから、今度こそちゃんと仕上げたい」


「描け。最後まで」


 妹の笑顔が、夕暮れの光の中で少し眩しく見えた。


 夜。

 窓を開けると、遠くの踏切が鳴っていた。

 けれど、その音はもう恐怖ではなく、ただの日常の合図だった。


「……やっと、終わった」


 布団に横たわる。

 目を閉じる。

 鐘の音は、もう聞こえない。


 明日も、ちゃんと明日として来る。

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