第5話 告白と覚悟
朝は、迷いなくやって来た。
窓の外を風が渡り、カーテンの裾が小さく揺れる。秒針は、容赦のない律速で進む。
鏡に映る自分の顔は、昨日よりさらに白い。頬がこけ、唇の赤みが薄い。だが、目はまだ燃えていた。
「今日、学校……行くの?」
テーブル越しに妹が問う。
俺は、首を横に振った。
「行かない。——話をしよう。最初から、最後まで」
妹は箸を置き、しばらく黙った。
逃げ場を探す目ではない。覚悟を探す目だ。
やがて、彼女はうつむいて、言葉を選びながら語り始めた。
「きっかけはね、クラスの子が、“バイト代が消えた”って泣いてたの。
工場の請負の請負、みたいな仕事で、契約書も曖昧で……。
相談に乗ってたら、あの子(——駅裏で会ってる男の子)が“中で写真を撮れば証拠になる”って言い出した」
妹の指が膝の上で細かく震えている。
俺は合いの手を挟まない。ただ、聞く。
「私が悪い。軽く考えてた。フェンスを越えて、深夜に忍び込んで……。
警報のランプが赤く点いて、驚いて、足を滑らせて、ポンプにぶつかった。
そのあと、すぐ人が来て、逃げた。
——翌日、“写真も名前も見てる。弁償しろ”って」
「スーツの男は?」
「工場の人か、下請けの誰か……分からない。とにかく、お金。
“今週中に最低額、来週は残り”って。
“駅で待つ。姿を見せなければ、学校にも家にも行く”って」
妹は顔を上げた。目のふちが赤い。
けれど、その瞳の奥には、昨日までなかった硬さが宿っている。
「ごめん。全部、私のせい。
でもね、お兄ちゃん。私——逃げたくない。
あの子にも、泣いてた子にも、ちゃんと償いたい」
俺は頷いた。
償いは他人に命じられてするものじゃない。自分で選んでやるものだ。
問題は、そのための“回路”をどう作るかだ。
「額は、いくらだ」
妹は小さく数字を言った。
現実的であり、同時に高校生にとっては絶望的な額。
頭の中で、口座、バイト、売れる物——すべてを並べ替える。
ループは“時間をやり直す”が、“金は増えない”。この世界のルールはそこだけ妙に公平だ。
「——集める。今日中に、できる限り」
「でも、お兄ちゃんのものを売るのは嫌」
「売るんじゃない。明日、取り返すための“前払い”だ」
言い切ると、妹は唇を噛んで頷いた。
午前、俺は町を走った。
古本屋で参考書の束を売り、質屋でギターを預け、スマホの中古買取を泣き落としで上乗せしてもらう。
学食で働いている先輩に頭を下げ、バイト先の店長に前借りを頼む。
どの場所にも、少しずつ“俺の時間”が積もっていて、そこからほんの少しずつ未来を借りてくる感覚だった。
「若いのに、やるじゃないか」
商店街の弁当屋の大将は、封筒に一枚だけ余分に挟んでくれた。
「返す」と言いかけた俺に、「返せ。来月の唐揚げ三つでな」と笑う。
そういう小さな助けが、封筒の角を重くしていく。
駅前のロッカーの鍵を開け、母の腕時計を取り出して、もう一度箱にしまった。
これは売らなかった。
売れるし、数字で言えば最も効く。だが、回路には“心が折れない支点”が必要だ。
折れたら、鐘が鳴る前に自分が壊れる。
昼過ぎ、封筒は目標の“最低額”にあと少しで届くところまで来ていた。
俺は息を整え、次の場所へ向かった。
町外れのゲームセンター裏、段ボールを積んだ影の前で、制服の少年が腕を組んでいた。
——駅裏の“彼”だ。
今さらだが、名前を知らないことに気づく。
「話したい」
俺が言うと、彼は鼻で笑った。
「兄貴が? 殴るなら先に言えよ。構えるから」
「殴らない。殴っても金は出ない」
それでも彼はしばらく挑発的な目を崩さなかった。
やがて、目だけがふっと緩む。
「……海斗。俺は海斗」
名前が与えられた途端、ただの“影”だった輪郭に、重さが宿る。
俺も名を告げた。自分の名前を声に出すのは久しぶりで、喉がくすぐったい。
「海斗、お前は何を背負ってる」
彼は一瞬だけ目を伏せ、壁にもたれて空を見た。
「家、楽じゃねえ。母親が入退院繰り返してて、親父はいない。
バイト増やしてたら、あの子(妹)の相談に乗ることになって……。
“やめとけ”って言ったんだよ。本当は。
けど、“証拠を撮れば救える”って思って——馬鹿だった」
彼は笑った。自嘲じゃない。覚悟の輪郭を固める笑いだ。
「兄貴。金は、いくら集まった」
数字を言うと、彼は小さく舌打ちして頷いた。
「上出来だ。残りは、俺が走る」
「どうやって」
「売れるもん、まだある。俺の方が“こういう慣れ”はある」
危うい匂いがした。
俺は頭を振る。
「自分の未来を、質草にすんな。明日以降もお前の人生は続く」
「兄貴だって同じだろ」
「同じだ。だから“方法”で勝つ」
俺は封筒から一枚紙を抜き、ペンで書く。
“支払い計画書”。
元金、受領日、分割期日、遅延時の利率——法の枠をなるべく借り、相手の“任意の脅し”を“契約”に引きずり下ろす。
紙一枚で世界は変わらない。だが、紙一枚が“交渉する場”を作る。
「これを、奴に突き付ける。今日じゃない。——明日だ」
「通るか?」
「通す。通らなきゃ、駅じゃない場所に引きずる。
“駅”って装置から降ろせば、鐘は鳴りにくい」
海斗は笑った。今度は少しだけ、楽しそうに。
「兄貴、やべえな。——面白い」
「面白くはない。生き延びたいだけだ」
夕暮れ、家に戻ると、妹が机に紙を広げていた。
手書きの小さなメモが幾つも——バイト募集、知人の連絡先、返済計画、必要経費。
彼女は顔を上げ、少し照れたように笑う。
「私、頭悪いから、こうやって書かないと整理できなくて」
「頭が悪いのは、書かない方だ。書くのは賢い」
妹の肩が、小さく上下する。
昼よりも、声が強い。
彼女は今日、確かに“当事者”になった。
封筒の額を確認し、支払い計画書を清書する。
名前、日付、連絡先。
どの文字にも、震えが少し入る。
それでも、線は真っ直ぐだ。
「——ねえ、お兄ちゃん。もし、明日……」
妹は言いにくそうに視線を落とす。
「もし、また倒れたら、どうする?」
胸の奥がひやりとする。
ループの代償は、確かに早まっている。今日も、階段を上がるだけで目の端が暗くなった。
「倒れないようにする。けど、倒れたら——手順は決める」
俺は紙をもう一枚取り出し、“引継ぎ”を書いた。
封筒を渡す順番、言うべき言葉、契約書への署名、相手が拒んだ場合の台詞。
“こちらから警察へ行く”という選択肢も追記する。
逃げではない。交渉を別の土俵へ移すための手段だ。
妹は力強く頷いた。
海斗にも同じ紙を送る。
明日は俺一人の勝負ではない。三人でやる。
夜、窓を開けると、空は薄い墨色だった。
遠くで踏切が鳴る。
俺は、その音に負けないくらい静かに呼吸を整えた。
——明日で終わらせる。
“終わる”んじゃない。“終わらせる”。
布団に横たわる。
瞼を閉じる瞬間、頭の奥でかすかに鐘が鳴った。
——まだだ。今日は鳴っていい。明日、鳴らないように。
意識が沈む。
夢の手前で、誰かが俺の手を握った気がした。
温かい、小さな手。
妹の手だ。現実か、願いか分からない。
けれど、その感触が、眠りの底へ落ちる俺を支えた。
朝。
光が白く、やわらかい。
秒針の音は相変わらず規則的だが、今日は妙に静かに聞こえる。
「お兄ちゃん——」
妹の声は、昨日までよりも少しだけ大人びていた。
俺は頷いた。
封筒、契約書、引継ぎ——すべて確認する。
海斗から「準備OK」のメッセージ。短い絵文字。
笑ってしまう。こんな時に、ピースサインはないだろう。
けれど、その軽さがありがたい。
「行こう」
俺たちは玄関に立ち、靴ひもを結んだ。
家を出る前、写真立てに目をやる。
母が笑っている。
——見ててくれ。終わらせてくる。
駅裏。
夕暮れではなく、昼下がりの光がコンクリートを白く照らしている。
“いつもの時間”じゃない。
回路を、こちらからずらした。
スーツの男は、時間ぴったりに現れた。
意外そうに眉を上げ、周囲を見回す。
「時間、違えるとはな。……で?」
俺は一歩、前に出た。
封筒を両手で差し出し、同時に契約書を示す。
「本日分の支払いと、残額の計画だ。受け取りのサインをしてもらう」
男は紙を受け取り、ざっと目を走らせる。
口の端が、わずかに吊り上がる。
「兄貴、どこでこういうの覚えた」
「ネット」
「便利な時代だな」
男は紙を半分まで読み、海斗と妹に視線を移した。
二人とも、逃げていない。
男は短く鼻を鳴らし、封筒を指で弾いた。
「中身は?」
「——足りてる」
俺は答えた。
実際、最低ラインは越えた。
残りは分割。期限と金額を、こちらから明記した。
“彼らの気分”の余地を、小さくするために。
男はもう一度紙に視線を落とし、最後まで読み切った。
そして、ペンを取り出した。
——書くのか。
胸の奥の糸が一本、音を立てて緩む。
が、そのとき。
頭の奥で、“鐘”が鳴った。
今までで一番近い。耳鳴りが爆ぜ、視界の縁が黒く染まる。
体が、前に傾いた。
「お兄ちゃん!」
妹の叫びが遠のく。
膝が落ちる。地面の温度が、掌に突き刺さる。
——駄目だ。ここで落ちたら、また朝だ。
紙も、封筒も、サインも、全部が“なかったこと”になる。
違う。今日は“終わらせる”日だ。
喉の奥から声を絞り出す。
「——サイン、を」
男が眉をひそめる。
海斗が俺の肩を支え、妹が契約書を男の前へ差し出す。
“引継ぎ”の手順通りに。
「受領のサインをください。こちらは控え。こちらが原本。
受け取り日付は——今日」
妹の声は震えているが、順序は狂っていない。
海斗が封筒を男へ渡し、金額を読み上げる。
男は二人をじっと見、それから俺に視線を戻した。
少しの間。
やがて、乾いた笑いが、喉の奥で転がった。
「——根性あるな、ほんと」
ペン先が紙を滑る。
キュッ、と短い摩擦音。
日付、受領者名、サイン。
インクが乾き、世界が一つ、確かな“現実”として固まる。
俺はそこで、ほっと息を吐いた。
吐いた瞬間、意識が、糸を切られたみたいに落ちた。
暗闇。
落ちていく途中で、鐘の音は鳴らなかった。
代わりに、誰かの手の温度が、ずっと俺の手を握っていた。
温かい。
離れない。
——次に目を開ける光が、終わりではなく“続き”でありますように。