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第3話 三度目の朝、影の正体

朝は、昨日と寸分違わぬ顔でやって来た。

 カーテンの白、踏切の電子音、秒針のコチ、コチ。

 だが、胸の内だけは違う。意志という重みが、骨の芯に沈んでいる。


「お兄ちゃん、起きてる?」


「起きてる。——今日は、送ってく」


 ドアの向こうの足音が止まり、妹が小さく笑う。


「珍しいじゃん。じゃ、早歩きでね」


 洗面台の鏡に映る自分はやつれているが、目は獲物を追う獣みたいに冴えていた。

 今日は観察する。干渉は最小限。――そして“影”を掴む。


 通学路は、薄い秋色で満たされていた。

 駅前の仮囲い、黄色い旗、重機の唸り。昨日と同じ風景に、昨日と違う視線を載せる。

 妹の歩幅、スマホに落ちる親指、通知の振動のたびに肩がほんのわずか跳ねる仕草。全部、網にかける。


「誰?」


「文化祭の係の子。買い出しリストの確認」


 台詞は昨日と同じ。けれど、言い切るまでの一拍が長い。

 その一拍の中に、嘘ではないけれど真実でもない言葉の温度が滲んでいた。


 校門で別れるふりをして、俺も校内へ。

 午前の授業は記録用の時間に変わる。妹の教室前の廊下、購買、図書室。視界の端で彼女の周囲を回る人間関係の軌跡を目で追う。

 昼休み、廊下の曲がり角で、あの男子が現れた。襟を崩した制服、つま先で床を小刻みに蹴る癖。視線が真っ直ぐで、いつでも喧嘩を買えるみたいな、無駄な強さの形をしている。


「放課後、駅裏」


 少年はそれだけ言って立ち去った。妹は周囲を見回し、何でもない顔でパンをかじる。

 俺の胃のあたりがひやりと縮む。駅裏——商店街の裏通り、工事の資材置き場と古い倉庫が並ぶ一角。人目が薄く、夕暮れが早い場所。


 放課後、校門から駅へ向かう群れに混じって歩く。

 妹は表通りを外れ、裏道のぬかるんだ短絡路へ。

 路地の角に、少年が立っていた。彼は俺に気づくと、舌打ちを一つ。


「兄貴、今日はついて来んなって言ったろ」


「言われてない」


「じゃ今言った。帰れ」


 近い。距離感の乱暴さは、彼の鎧だ。

 俺は一歩も引かず、逆に半歩詰めた。視線がぶつかる。

 妹が慌てて間に入る。


「やめて。今日は——話すだけ、だから」


 “話すだけ”。その言葉の奥に、別の用件の影がある。

 俺は息を押し殺し、ついて行くことを選んだ。


 駅裏は、表のざわめきが嘘みたいに静かだった。

 倉庫の壁に夕陽が斜めの帯を描き、落ち葉が風に舞う。

 そこに、スーツの男がいた。背は高くない。けれど、空気を切り分ける刃のような目をしている。煙草の煙が、赤く細い糸になって空へ解けていく。


「時間、守ったな」


 低い声。

 少年が一歩前に出る。妹はそれを横から掴んで止めた。


「これ、先に——」


 少年が封筒を差し出す。男は受け取りもせず顎をしゃくった。


「中身は知ってる。足りねえ」


 その言葉に、妹の指が強張る。封筒の角がかすかに震えた。


「足りないって、言ってた分は——」


「言ってた“最低額”だ。追加で“実費”が出た。現場のポンプ、修理じゃ済まなくなった」


 “現場”。“ポンプ”。具体的な名詞は、言い逃れという橋を焼く。

 男はポケットから写真を数枚出した。スマホで撮った荒い画素。

 夜の工場のフェンスを越える二人の影。足元で転がる工具。警報灯の赤。


「遊びの肝試しのつもりなら、選ぶ場所が悪かったな。こっちは商売だ。壊れたら、誰かが困る」


 男は淡々と言い、煙草の灰を落とした。

 俺の喉が熱くなる。肩の内側がじりじりと焼ける。


「それで、脅すのか」


 声が少し掠れた。男の視線がこちらへ横滑りする。

 俺を一瞥したその目に、わずかな興味が灯る。


「兄貴、か」


「彼女を巻き込むな。金は——」


「払えるのか?」


 被せるような問い。

 財布の中身、通帳の残高、バイトのシフト——頭の中の数字が一瞬で並ぶ。

 足りない。圧倒的に、足りない。

 それでも、引けなかった。


「集める。どうやってでも」


 男は肩をわずかにすくめる。笑いにも怒りにもならない、中間の動き。


「言うのは容易い」


 そのとき、妹が前に出た。

 小さな体を真っ直ぐにして、男を見上げる。


「ごめんなさい。私が——」


 声が震え、言葉が千切れかける。

 少年が小さく息を呑み、肩を貸すように半歩寄る。

 男は写真をひらひらと揺らし、


「“謝罪”は無料だが、世界は“実費”で回る。分割も、遅延も、取立てのコストが上がるだけだ」


 言葉は冷たいが、理屈は破綻していない。だからこそ、腹が立つ。

 俺が一歩踏み出した瞬間、耳の奥で“鐘”が一度、乾いた音を立てた。

 世界がほんの少し、左にずれたような感覚。

 ——早い。ループの代償が、前よりも早く来ている。


 膝裏に力を込め、踏みとどまる。

 ここで倒れたら、また同じ場所に戻るだけだ。

 男の目が、わずかに細まる。


「顔色が悪いな。兄貴。無理は高くつく」


「……お前の“取立て”の方が、高くついてる」


 言い返すと、男は今度こそ薄く笑った。笑って、煙草を靴で揉み消す。


「いいさ。今夜はここまでにしておこう。——駅で待ってる“別の約束”がある」


 男は踵を返し、倉庫の影に溶ける。

 残された空気が、急に冷えた。

 妹の肩が、ストンと落ちる。少年は封筒を握ったまま、歯を食いしばる。


「最悪だ……」


 彼の呟きは自分に向けられていた。

 俺は二人を見た。妹の頬には汗と涙が交じり、少年の拳は白くなっている。

 怒りはたやすい。けれど、怒りだけでは何も動かない。


「駅には行くな」


 俺が言うと、妹は顔を上げる。


「でも、約束が——」


「行けば、また——」


 “死ぬ”と言い切るところで、喉が詰まった。

 未来の形を言葉に載せるのは、呪いに似ている。

 言葉にすれば、世界がそれを採用してしまう気がして怖かった。


「帰ろう。今日は——俺のわがままを聞いてくれ」


 妹は迷った。迷って、唇を噛み、そして小さく頷いた。

 少年が一歩、前に出る。


「俺は——行く」


 低い声。視線は地面に落ちている。

 俺は彼を止めなかった。止められなかった。

 彼には彼の責任の形があり、背負い方がある。

 ただ——嫌な音が、遠くで鳴った。踏切の電子音ではない。もっと重く、鉄骨が軋むみたいな、内臓に響く音。


 俺は妹の手を取り、表通りへ戻る。

 夕暮れの商店街は、人の体温で柔らかい。

 パン屋の匂い。八百屋の呼び込み。自転車のベル。

 普通の音が、怖い。普通の音が、世界の“正しさ”を演じていて、だからこそ薄い皮一枚で地獄と隣り合わせだと思い知らされる。


「お兄ちゃん」


 妹が足を止める。

 視線の先、駅構内のガラス越しに、人だかりが見えた。

 胸がひゅっと縮む。

 誰かが走っていく。誰かが叫ぶ。「危ない!」という声。

 俺は妹の手を強く引いた。


「見なくていい」


 だが、世界の方が俺たちの視線を掴んだ。

 ガラスの向こう、ホームに伸びる人の列がざわめき、波打ち、その縁から何かが崩れる。

 スローモーション。

 紙袋が舞う。太いペンが転がる。

 少年の姿が、柵の外へ滑り落ち——。


 耳が割れた。

 叫びは声にならない。

 妹の体が震え、俺の指を痛いほど握り返す。

 世界が遠のく。鐘の音が鳴る。脳の奥で金属がきしむ。


 視界が白くフラッシュして、次の瞬間、黒に塗りつぶされた。


 ——朝。

 戻る。

 戻ってしまう。

 秒針がコチ、コチ、コチ。音が、問いの形で胸に刺さる。


 なぜ“誰か”が死ぬ。なぜ“妹”じゃない時でさえ、パターンは回る。

 “駅”という装置。“約束”という罠。

 姉妹でも恋人でもない第三者の死が、なぜ同じ鐘を鳴らす。


 息を吸う。肺が痛い。

 鏡の中の目は、さらに深く沈んでいた。

 俺は、ゆっくりと笑った。薄い、ひどい笑い方だった。


「分かったよ。……分かってきた」


 影は一つじゃない。

 “少年”は入口、“男”は出口。

その間にある見えない回路——金、約束、時間、場所。

 そして、俺自身の“焦り”。焦りは最短距離を選び、罠に足をかける。


 ならば、次は回路を断つ。

 駅を断つのではない。時間を断つ。

 “約束”を、別の約束で上書きする。


 ドアの向こうで、妹が言う。

「みそ汁、ちょっと味濃いかも」


 俺はドアノブに触れ、まぶたを一度閉じた。

 開ける。光が流れ込む。妹が笑う。生きている。

 俺は、その笑顔に向かって、はっきりと言った。


「今日の放課後は、母さんの写真を見に行こう」


 突然の提案に、妹は目を瞬かせる。

 俺たちがまだ“家族”だった頃の写真——実家の押し入れの奥にしまってある段ボール。

 そこへ行くのに、駅は使わない。裏道を長く歩く。

 それは“約束”だ。

 誰かの用意した罠よりも先に、俺たちの側から時間を埋める。

 影の回路に、別の電流を流す。


「え、急に?」


「急だけど、今日じゃなきゃ駄目なんだ」


 妹は困ったように笑い、しばらく考えて——やがて頷いた。


「……分かった。行こう」


 秒針がコチと一つ進む。

 世界が、ほんの少しだけ、違う位置に置き直された気がした。


 その日の放課後、俺たちは駅と反対へ歩いた。

 長い坂を上り、古い住宅街を抜け、寂れた商店のシャッターを幾つも数えながら。

 風が乾いていて、空は薄い。

 途中、妹が何度かスマホを見るたびに、俺は別の話題を投げた。

 子どもの頃の思い出、母の好きだった歌、初めての海の味。

 妹は最初こそ上の空だったが、だんだんと話に乗ってくる。

 笑いも、涙も、混じった。


 実家の押し入れの奥から、段ボールを引っ張り出した。

 埃の匂い。紙のざらつき。

 写真の中の父と母、そして小さかった俺と妹。

 妹が一枚の写真を指でなぞる。母が笑っている。

 その笑顔は、駅のホームのどの広告よりも温かい。


 ——電子音が、遠くでした。

 “いつもの”刻む音。今日も“どこかで”。

 けれど、ここには届かない。

 鐘の音も、今日は鳴らない。


 呼吸を整える。

 影はまだこちらを見ている。

 スーツの男も、少年も、約束も、駅も、工場も、何一つ消えていない。

 ただ、回路の別の枝を選べたことを、体が覚えた。


 だから、今日は終わらせない。

 まだだ。

 この一日は、俺の手で延長される。


 妹が写真を胸に抱き、ぽつりと言った。


「——生きたいね」


「ああ」


 夕暮れの色が、写真の白をゆっくり染めていく。

 次の朝が来る前に、やるべきことが増えた。

 “影”の正体を、輪郭から骨まで引きずり出す。

 俺は静かに拳を握った。


 秒針が、また一つ進む。

 音は、相変わらず規則正しい。

 でも、そのリズムの上で、俺たちは別の拍を刻み始めていた。

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