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ナチュラル

作者: 星賀勇一郎






「なあ、未和子。今日はやけに海が静かだな」


俺は眠っている未和子に声を掛けてみる。

そんな事で未和子が目を覚ますとも思っていなかった。


「海が静かな日は、潮風も優しいな」


そう重ねたが、一向に起きる気配はない。


俺はベッドを抜けると、何もない部屋にポツンと置いたウォーターサーバから大き目のグラスに水を半分ほど注ぐ。

いつも半分程しか水を入れないのだから、こんなに大きなグラスじゃなくていいのだが、たまたま酒屋でかったメーカーズマークにそのグラスが付いていて、未和子と二人だったから、店主がもう一つおまけに付けてくれた。

そのグラスが大きいけれど洗いやすいと未和子も言う。

そのままこのグラス二つだけで事は足りている。


俺はソファに掛けていたジーンズとワイシャツを身に着け、リビングのドアを大きく開けた。

その瞬間風が抜ける。

レースのカーテンが大きくはためく様に広がり、それを押さえるようにして俺はデッキに出た。

海の砂がデッキに打ち上げられた白いデッキを歩く。

角材で出来た手摺にも砂がざらつき、俺はそれに肘を突いてタバコを咥えた。

風でなかなか火がつかないが、それにも慣れた。

タバコの煙は一瞬で風に流され、俺は目を細めて海を見た。

秋の海は夏の余韻を残す様に輝いて、その香りと色だけを変えている。


海の傍に住むのが幼い頃からの夢で、潮風を感じながら未和子とこの小さな家で一日を過ごす。


デッキの隅に置いた灰皿にタバコを放り込んで部屋に戻ると煤けた鏡の前にある洗面台で顔を洗った。


新しいタオルで顔を拭きながら光の差し込む寝室へ戻った。

未和子はまだ白いシーツに包まって眠っている。


俺はそのベッドの隅に座り、シーツの中に手を入れて、未和子のそれに触れる。

未和子は少し身体をよじり俺に顔を見せたが、まだ目覚める事は無い。

未和子のそれが徐々に湿って行くのがわかる。

俺が優しく未和子を撫で上げ続けると、未和子の寝息は吐息に変わり、そして吐き出すような息になり、身体を開いて行った。


「慧……やめて……」


未和子は目を覚まして震える声でそう言った。


「わかった」


俺はそう言って未和子から手を離す。


「あん、違うの……」


「違うってなにが……」


俺はベッドから立ち上がる。

そしてリビングへと行き、何もないリビングの中央に座り、そして大の字に寝た。


未和子に火をつけて放置する。

これも俺のセクシャリティ。

しばらくすると未和子の湿った声が寝室から聞こえてくる。

火がついた身体を鎮めるための自慰行為。

付き合い始めた頃はトイレで隠れてやっていたが、今では堂々としたモノで、果てるとすぐに下着を着けてやってくる筈だ。

三、二、一……。

未和子は息を吸いながら果てる。

そしていつもの様にすぐに俺の傍にやってくる。

俺を覗き込む様にしゃがむと、


「お腹空かない……」


と言う。

俺はゆっくりと身体を起こして、無言で頷く。


未和子もソファに掛けたワンピースを被る様に着ると、上からカーディガンを羽織った。


「何か食べに行こう……」


再び俺の傍に来て俺の手を引く。






狭い国道とJRの高架下を潜ると、小さな町がある。

車も通れないような路地で作られている町。

数軒の喫茶店と豆腐屋、総菜屋、雑貨屋などが隣り合って並ぶ。

やってるのかやってないのかわからないカレー屋や、写真や絵を飾っているギャラリー。

需要の無い古びた写真屋。

それを抜けると民家の壁が続き、突然、車の通る道に出る。

その辺りにはパンの焼ける匂いが広がり、古いパン屋の傾いて色あせた看板が見えた。

海に近いせいか、その看板の端は錆が浮いていた。

パン屋の角を曲がると、今ではあまり見かけなくなったソフトクリームを形取ったプラスチックのオブジェの様な看板。

これを見ると何故かソフトクリームが食いたくなる。

確か明かりもつくんじゃなかったかな……。


俺たちはそのソフトクリームの看板のあるケーキ屋の奥にある洋食屋のドアを開けた。


髭を生やしたコック姿の老人が無愛想に、


「いらっしゃい」


と言って、


「お好きなところにどうぞ」


と背を向けた。


別にその態度が気に入らない訳でもない。

もうその接客には慣れている。


俺たちはいつもの窓際の席に座り、テーブルの上にタバコとオイルライターを出した。


店主である老人は俺たちのテーブルに水とおしぼり、灰皿を持ってやってくる。


「今日は天気が良くて良かったね……」


そう言って始めて笑みを見せた。


「海岸は風が少しあるけどね……」


俺は灰皿を引き寄せてタバコに火をつけた。


「今日は何にする」


俺も未和子もメニューも見ずにタンシチューとカツレツを注文した。

老人は黙って頷くとカウンターの中に戻って行った。


この店には昼と夜の二度来る日もある。

店の奥の白い壁にはプロジェクターで映し出される色の薄い映像が流れていて、今日も『ナチュラル』が流れていた。


この店の名は「ナチュラル」と言う。

この店主の老人がこの映画の『ナチュラル』が好きで、この映画を流す為に始めた店と言っても過言ではない。

一九八四年のアメリカ映画で、天才スラッガーのゲスな半生を描いた映画なのだが、どうしても憎めないストーリーになっている。

この老人もかつて天才スラッガーだったのか、ゲスな半生だったのか、共鳴するところでもあったのだろう。


「女はその身体から息子を産み、男はその生き様で息子を生む……か」


そのナチュラルのラストシーンを見ながら俺は呟いた。


「何それ……。ちょっと女を蔑んでない……」


未和子は水を飲みながら言う。


「どうなんだろうな……。この監督にでも聞かないとわからないな……」


俺はタバコを揉み消した。


老人がパンの入った籐の籠を持ってやって来た。


「決して蔑んでる訳じゃないさ……。女は偉大だ。女がいないと子供は生まれてこないからな……」


老人は未和子に微笑んでカウンターに戻って行く。


「そうそう。だから男は女には勝てない。そんな風に神様が作ったんだよ」


俺は籠のパンを手に取って小さく千切ると口に入れた。


「男も女も、女の身体から生まれてくる。生き物の起源は女だ」


未和子は納得してない様だったが、微笑んでいた。


タンシチューとカツレツがテーブルに運ばれてきた。

分厚く切られたタンがスプーンの先を当てるとほぐれていく。

俺はそのタンシチューをパンに乗せて口に入れた。

カツレツにも特製のドミグラスソースがかかっていて、質の良い牛肉の味を殺していない。


老人は終わってしまったDVDをまた再生する。

この老人は今日、何度この『ナチュラル』を観るつもりなのだろうか。






ナチュラルを出て、俺たちは町を歩く。


小さな魚屋の店先には、昼網で獲れた魚が並んでいた。


俺はその魚屋で白身魚の切り身を買い、いつもの酒屋へ立ち寄った。


「いらっしゃい」


酒屋の店主の奥さんが店番をしていた。

俺が魚に合う白ワインが欲しいと言うと、


「私は魚屋じゃないから分からないよ」


そう言って笑っていた。

仕方なく適当な白ワインを手に取ると、ボトルには埃が積もっていた。

店主の奥さんはその埃をエプロンで拭うとビニール袋に入れた。

この町ではワインは売れないようだ。

そしてワイングラスがいるならあげようかと言うので、おまけのワイングラスを二つもらった。


国道を渡り部屋に戻る。

俺は買ってきたモノを冷蔵庫に入れて、リビングに大の字になった。


「コーヒー淹れようか……」


未和子がカップを見せながら言う。

俺は頷くと揺れるレースのカーテンの向こうの海を見た。

微かに波の音が聞こえてくる。

その音を聞くために俺は目を閉じる。

海岸に迫る波の音が少し鮮明に聞こえる気がした。


未和子がカップを二つ持って、寝ている俺の横に座る。

俺はゆっくりと身体を起こしてそのカップを受け取った。

未和子の横に座り、コーヒーを飲む。

少し肌寒い潮風が心地よく未和子の前髪を揺らしている。


「私、ちょっとアトリエ行ってくるね……」


未和子は口角を上げて笑った。


「帰りは……」


俺はいつもの様に帰る時間を訊く。


「白身魚のムニエルが出来た頃に……」


俺は未和子を見て頷いた。


未和子は薄手のコートを来てヘルメットを被った。


「バイクで行くのか……」


俺は空を見た、夕方からの雲行きが怪しいと聞いていた。


「車だと停めるところに困るから……」


キーホルダーを指でクルクル回しながらドアを開けた。

表に停めた古いベスパに跨りキックする。


「じゃあ、行ってくるね」


未和子は手を挙げて走り出す。

俺はそれを見送った。


俺はドアを閉めて、静かなリビングにまた大の字になる。

大きなファンの回る天井を見つめる。

窓から入る午後の明かりがその部屋を照らす。


未和子と話し合って、この部屋には何も置かない事に決めた。

テレビもラジオも時計も無い。

そんな静かな空間で、波の音とファンの回る音だけが静かに聞こえる。


未和子はアトリエと呼んでいる、この町の山の手の方にある古い洋館を改造して作った部屋に行った。彼女はその部屋で一脚何十万もする椅子を作っている。


俺は立ち上がり手を洗うと、冷蔵庫からさっき買ってきた魚を出した。

ステンレスのバットにその魚を入れると小骨を丁寧に取り、塩を軽く振って白ワインをかけた。

後は焼く前に小麦粉をまぶしバターで焼く。


食材も冷蔵庫に入っている分しかない。

食器も二人分。

それが俺と未和子にはちょうどいい。


アスパラと人参を洗って切る。

月に何度か行く大型スーパーでまとめ買いしているロールパンが冷凍庫にあるのを確認して、ジャガイモの皮をむく。

玉ねぎをみじん切りして、皮をむいたジャガイモを細かく切って行く。

一緒にグレープシードオイルを敷いたフライパンで炒め、小麦粉を加えながら更に炒めて行く。

それに水とブイヨンを入れて煮込む。

煮立ってきたらジャガイモを鍋の中で潰し、牛乳と塩、胡椒で味を調えてポタージュの完成。

完成してから少し時間を置くと更に美味しくなる。


バットでワインに浸した白身魚の身を取り出して小麦粉をまぶす。

そしてラップに包んで冷蔵庫に戻す。

臭みが取れ、美味しいムニエルが出来る。


ここまでやっておけば後は簡単だ……。


俺はカップにコーヒーを注いで、窓際に座った。


もうすぐ落日の時間になる……。


俺はそれを待ちながらコーヒーを飲んだ。






案の定、雨が降り出し、俺は未和子を迎えに行くことにし、ガレージからアバルトを出した。

そして町の坂を上って行く。


小さな洋館を買い、俺と未和子、二人だけでアトリエにリフォームした。

道は入り組んでいて大きな車は対向車が来ると交わし辛い。

幸い、一台の対向車もなくアトリエまで辿り着く。

そのままアトリエの前に車を停めて、俺は雨の中を走ってアトリエに入った。


「未和子……」


ドアを開ける音で気が付いたのか、未和子はこっちを見て笑っていた。


「迎えに来てくれたの……」


俺は作業場に入り、表を見た。

雨に濡れたベスパが停めてあった。


「ああ、止みそうになかったからな……」


未和子は椅子の脚だろうか、それを丁寧に鉋で削っていた。


「少し待ってて……。これで終わるから……」


そう言うとまた心地良い音を立てて鉋を走らせる。


俺は傍にあった古い椅子に座った。

こうやって未和子が椅子を作るのを見るのは嫌いじゃない。

違うな……その未和子の真剣な表情を見るのが好きだった。

作業場の中を見渡すと木材や革、クッション材などが積まれ、鉋を走らせる未和子の周囲にだけ削り屑が落ちている。

そして暗い作業場の中で、椅子を作る未和子をスポットライトが照らす様に明かりがついていた。


何度も何度も片目を閉じて削る木の歪みを見ながら、未和子は鉋を当てる。


本当に静かな空間。

その部屋にも時間の流れは無い。


「その革の青、素敵でしょ……」


未和子は俺が退屈だと思ったのか、口を開く。

俺のすぐ傍に椅子に張る革が置いてあった。

部屋が薄暗い為に、俺にはそれが青なのかどうかもわからなかった。

その革を一枚取り、未和子の傍まで来た。

ようやく明かりの下でその色を見た。

未和子が言う様に綺麗な青だった。

部屋から見る夏の海の青。


「革を青くしたいときは、なめしの方法を変えるのよ……。クロムなめしって言って良い色になるの……」


未和子は鉋を置いた。


「さ、終わったわ……」


俺の手から青い革を取ると、元の場所に置いて、薄く開けた窓を閉めた。


「帰ってムニエル……食べたいわ……」


未和子は俺にキスをした。


俺は雨に濡れているベスパを軒下に移動させて、車へと走った。

部屋を出る時に持って出たタオルを未和子に渡すと、自分より先に俺の髪を拭いた。


「何で傘持って来ないのよ……」


笑いながらそう言ってた。


町の中央を流れる川は水が溢れて、音を立てて流れていた。

普段は満潮になると海の水が流れ込むほどに穏やかな川なのだが。


町を出て、国道を渡り、また海の方へと細い道に入る。

ガレージに車を入れる前に未和子を下ろして、車をガレージに入れた。


屋根に積もった砂を洗い流すような雨が、白いペンキを塗ったデッキで跳ねる。


「先に風呂入るか……」


俺は部屋に入りながら未和子に言うと、既に未和子は裸になり、バスルームの前に立っていた。

部屋を出る前にバスタブにお湯を張っていたせいか、その湯気が流れ出る様に未和子を神秘的に見せた。


「慧も一緒に入る……」


未和子はそう言うとバスルームに入って行った。


俺はキッチンへ行くと手を洗い、コンロに火をつけ、フライパンを乗せるとそこにバターを転がした。

冷蔵庫から下ごしらえした白身魚を出して、そのフライパンに皮目から乗せた。

二切れ乗せた魚の横にアスパラガスと人参を乗せて一緒に焼く。

先に作っておいたポタージュに火を入れ、冷凍庫からロールパンを出して、オーブントースターに入れた。






この部屋に食卓なんて無い。

カウンターキッチンのカウンターに出来た料理を並べて、昼間もらって来たワイングラスに冷えた白ワインを注いだ。


未和子が長めのTシャツだけを着て、濡れた髪を拭きながらやって来る。


「わぁ……美味しそう……」


そう言うと少し高めのスツールに座った。

そして、白身魚にフォークを入れて口にした。


「どうだ……」


俺は未和子を覗き込んで訊いた。

未和子は目を大きく見開いて親指を出した。

未和子のその表情を見るために、俺は食事を作っている様なモンだ……。


晩飯が終わると、残った白ワインとグラスを持って、窓際に座った。

外は暗く、雨が打ち付けるデッキを窓から漏れる明かりが照らすだけだった。


未和子と寄り添ってその雨を眺める。

未和子は少し酔ったのかワイングラスを床に置いて、俺の背中に寄りかかる様に座り直した。


俺は雨の日があまり好きではない。

あの日もこんな雨が降っていた。







「え……」


俺は聞き間違えたと思い、そう言った。


「残念ですが……」


その医師は目を伏せた。


「後一年……。もちろん延命治療は可能ですが……」


淡々と言うその医師の言葉が、俺は他人事の様に聞こえ、窓を打ち付ける雨音だけが聞こえていた。






その翌週に仕事を辞めて、未和子のアトリエに近いこの家を買い、二人でリフォームした。

それまで住んでいたマンションも高値で売れた。

マンションにあった物はすべて処分して、何もないこの部屋に住む事にした。


時間を感じさせるようなモノは置かない。

それは死までのカウントダウンの様に思えるからだった。


残された時間を好きな様に生きる。

この家に白いペンキを塗りながら、それを二人で決めた。


友人たちにも殆ど教えずにここに来て、二人だけの時間を持つ事にした。


二人でいる事。

それが今の二人には一番大切な事だと思ったから……。


「明日も雨かな……」


未和子が静かに言う。


「いや……。朝には止むだろう……」


ワインを飲み干し、またグラスに注いだ。


「雨が続くと木が湿気るのよね……」


未和子は立ち上がり背伸びをした。

椅子の材料が心配の様だった。


「慧……。はやくお風呂入りなよ……。雨に濡れたんだから……」


未和子は寝室へと入って行った。

俺はその後ろ姿を見ながら微笑むと、グラスのワインを一気に飲んだ。

 





翌朝、目を覚ますと、横に未和子の姿は無かった。

俺はベッドを抜けてリビングへと出た。

濡れたデッキの端で裸足のままタバコを吸う未和子が見えた。

雨は朝方上がった様だったが、まだ空は曇っていた。

俺もデッキに出ると未和子の横に並んで立った。


未和子は俺の顔を見て微笑んだ。

そしてタバコの煙を吐いた。


「朝が来るとさ……」


未和子は海を見る。


「また一緒に過ごす時間が短くなっちゃったな……って思うのよ……」


俺は未和子の言葉に涙を堪えて、じっと海の先を見つめた。


「ここも白夜だったら良かったのにね……」


未和子はタバコを灰皿に放り込んで、足早に部屋へと戻って行った。


俺はタバコを咥えて、曇った空を見上げた。






春のある日、未和子が眠る様に死んだ。


朝、未和子を起こそうと身体に触れると、既に冷たくなっていた。


未和子の両親に連絡して、すべてを説明した。

どうやら未和子は両親にも話をしていなかった様だった。


両親は何度も何度も俺に礼を言って、未和子を引き取って行った。


俺は一人残された部屋で大の字になり、窓から差し込む午後の太陽を感じた。


「私、残された時間をナチュラルに生きたいの……」


未和子はそう言った。


ナチュラルに生きるってどういう事なのか。

俺はそれを考え、この部屋を探した。


「思うがままに生きたい」そう考えているのかと思ってた。

だから俺は仕事を辞めて、未和子とこの部屋で生きる事に決めた。

その答えが合っていたのかどうか……。

それは今となってはわからなかった。


俺はデッキに出て、手摺に肘を突き、タバコを咥えた。

春の風で舞い上げられた砂が肘にざらつく。

それを払いタバコに火をつけた。


海の先でゆっくりと動く大型船を見ていると、未和子との日々が浮かび消えていく。


「私、慧と暮らしても、自分の生き方なんて変えれないからね」


俺のマンションに転がり込んで来た日、未和子はそう言った。

俺はそれがおかしくて声を上げて笑った。


俺はまだ長いタバコを灰皿に捨てた。

そしてベスパに乗って、町の坂道を上った。

アトリエに付くと鍵を開けて、作業場に入る。

いつか未和子が見せてくれた青い革の張られた椅子が四つ並んでいた。


そうか……。

完成してたのか……。


俺はその椅子に触れた。

優しい肌触りの椅子だった。

多分、未和子にしかできない椅子なのだろう。

俺はその四つの椅子に触れて道具を置いてある棚を見た。

鉋の下に挟んである紙を見つける。

俺はその紙を鉋の下から抜いた。


その紙には椅子の寸法が書き込まれてあった。

そしてその端に、


「私とあなたのナチュラルをありがとう」


と走り書きで書いてあった。


未和子の余命を知った時、俺は生き方を変えて未和子に寄り添う事に決めた。

しかし、それを未和子は快く思っていなかったのかもしれない。

だけど、ここに越してきて、俺は未和子に自然に接した。

未和子も俺にも自分にもそうしていた。

それが彼女の望んだ「ナチュラル」だったのかもしれない。


死を待つ生き方ではなく、ちゃんと明日を待つ生き方が最後まで出来たのだろう。


俺は目を伏せた。


未和子が生きた証を見ながら、俺は泣いた。


青い革の椅子の注文主の名前がその紙には書いてあった。

それは未和子の名前だった。


部屋に戻ると、運送屋のトラックが停まっていた。

そして俺を見つけると伝票を持ってドライバーが走って来た。

未和子が買ったテーブルが届いた。


玄関から入らないテーブルをデッキからリビングに入れた。


どうやら未和子は自分の死期にも気付いていたのだろう。

 





俺はアトリエから持ってきた椅子をテーブルに四脚並べた。

部屋の白に良く似合う青だった。


そしてそのテーブルで朝食を食べると、俺はベスパに乗ってアトリエに向かった。

まだまだ未和子にはかなわないが、俺も毎日椅子の脚に鉋を走らせている。


今はそれが俺のナチュラル。








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