神が消える時
乙姫と亀は、猫の散歩の後をついて行く。駅の裏手を通り過ぎ、町を横断して大川の近くまで。
猫は、神々が後ろから付いてきているなんて思っていないから、自分のペースで気ままに進んでいく。
「この猫はどこまで行く気かしら。」
額に手を当てて、考えを見てやればすぐに分かるのだが、今日はそれが目的ではない。
「それにしても暑いわね。」
神とて暑いものは暑い。町のあちこちでエアコンの室外機がヴーンと唸って、余計に暑く感じる。
帰ったら水浴びしよう。
「人通りがほとんどありませんな。これでは人を見る事ができませぬ。」
亀は残念そうな顔をしながら、暑さも気にせず、ふわふわと猫の後ろを歩いている。
乙姫は少し面倒になってきた。
「まあ、これで一つ学んだわね。人は暑いと外に出ないわ。」
亀は「そうですな」と笑った。
ちょうど図書館の前に来た時、建物から小学生くらいの少女が出てきた。
開いた自動ドアから、冷気が吹いてくる。
乙姫は冷気にホッとする。亀も心地良さそうな顔をする。
「もう一つ。人は涼しい所に集まると学びました。」
「空気さえ自分たちの都合の良いように作り替えてしまう……。私の頃には考えられなかったわ。」
乙姫は神社のある山を眺めた。
「ミカン! こんなトコまで迎えに来てくれたの?」
今しがた建物から出てきた少女が、猫を見つけると駆け寄ってきた。
「ナーゴ」
猫は少女に抱かれると、彼女の自転車のカゴに収められた。
乙姫たちは、その様子を見つめる。
「ご主人を迎えにきていたのね。」
「そのようで。この暑さの中ここまで歩いてくるなど、猫のほうが人よりも殊勝かも知れませぬ。」
浦島の言うとおりかも。この猫は少女の事が大好きなのね。
「またね。」
乙姫はこの健気な猫に手を振る。猫にもちろん神の声は届かない。
しかし。突然、少女が振り向いて、乙姫を一瞥した。
偶然?
いや、明らかに目が合った。でも、少女はここに何がいるかは分かっていない。
「気のせい?」
そう呟いて、少女は自転車に乗って行ってしまった。
(あの子、私に気付いてた?)
乙姫は少女が見えなくなるまで見送る。
浦島は少々動揺する乙姫に気付かず、大川の方に興味が移っていた。
「儂は川の向こうには行ったことがございませぬ。」
「浦島なんて、どうせ暇なんだから、もっとうろうろしなさいよ。」
「そうはおっしゃいますが乙姫様。海上交通の安全祈願に応えるのも、結構忙しいものなのです。」
亀はそういうが、私だって交通安全くらいやってるわ。
この川を越えた先に市立病院がある。うちに願いにくる人で、交通事故で入院している人なんていない。
乙姫と亀は橋までやってきた。少し前に架け直された比較的新しい橋だ。
ふと見ると、橋のたもとに消えそうなもやもやがあった。
「…誰か…」
もやもやの幽かな声。どこかの祖神だろうか。
誰からも思い返されることもなくなった御霊は、こうやって消えていく。
浦島が近寄って問う。
「貴殿は誰か?」
「…我…?」
やめなさいよ。もう消えそうなのに構わないの。
それでも亀は畳みかける。
「そう。貴殿は何者か?」
「…我…は我…」
もう意識を保てないようだ。
「そう、我さん。さようなら。」
乙姫は亀を連れて立ち去ろうとした。
信仰がなくなった神は消える。神社やご神体のない「祖神」には特に珍しくもないことだ。
「助け…て…」
「すまぬ。こうなっては、儂らでは何もしてやれぬ…。」
してあげる事ないのに声かけないの!
亀はそういう配慮に欠けるから駄目なのよ。もっと学びなさい。
「もう行きましょう。」
乙姫は亀を引っ張ろうとした。
その一瞬。もやもやは一瞬だけ、人の形を取った。
まだうら若い女性の姿。
「我は『おばけ橋』…」
「あなた『おばけ橋』なの!?」
乙姫の驚きに、亀は「?」という顔をする。
おばけ橋は、昔ここに架かっていた橋の神だ。
いや、神というよりは妖怪と呼んだ方がいいかもしれない。
氾濫する川自体や、流される橋に対する畏れが、子供を中心に『おばけ橋』という名で信じられた。
実際、最盛期には人に害を与えるほどの力があった神だ。
しかし堤防が整備され、橋が丈夫なものに架け直されたために、その恐怖は失われた。つまり、人に忘れられた。それが神の終わりだ。
「残念ね。あれだけ暴れたあなたも、もう消えるわ。」
「…消え…嫌だ。」
おばけ橋に力が無くなり、再び形を失いもやもやに戻る。
魚屋に集まった家族が、子供たちを怖がらせようと『おばけ橋』の昔話をした一瞬。その一瞬だけのことだった。
「……」
もう呟くこともやめてしまった。
どこか気の毒には思うけれど、こればかりは仕方ない。
「もう行くわよ。」
乙姫がそう言うと、亀も黙ってついてくる。
港と山をつなぐ大通りまで戻ってきた。ここで亀と別れる。
「儂らもいつかは……いえ、やめましょう。」
亀は海へ向かう道を帰って行った。
乙姫は逆方向に進み、山へと戻る。
ふと、貧乏神のことが頭をよぎった。
もしも、このまま貧乏神が信仰を集められずに、消えてしまったらどうしよう。
あんな風に、貧乏神がぼやけて消えてしまう姿…。
乙姫に救いを求めるもやもやとした彼…。
嫌だ。嫌だ!
神は神通力で未来を見ることがある。
違うよ。あんなのは未来じゃない!
不安。
乙姫は走り出していた。
自分の神社への道を通り過ぎ、山の裏手に回る。
木々に隠れてひっそりと立つ鳥居をくぐると、小さな境内に古い社殿一つ。貧乏神の御殿森神社だ。
午後になると山影に入って少し薄暗い。
見渡すが、貧乏神の姿は見えない。呼んでみても返事はない。
乙姫だって、そんなすぐに神が消えるわけがないことはわかっている。
貧乏神はどこかに出かけているだけ。近くにいないだけ。
頭ではわかっていても、涙が溢れてきた。
社殿の前にうずくまる。
どのくらいの時間そうしていただろう。日が傾き始めたころ。
「やあ、オト姫。どうして、こんな所へ?」
貧乏神の柔らかな声。
乙姫はその声にばっと顔をあげる。
「君、泣いてるのか? 浦島の件がそんなに辛かったのかい。」
貧乏神の的外れな推測。でも乙姫は安心した。
いつも通りだ。いつも通りの貧乏神だ。
「そ、そんなわけないでしょ。散歩してたら埃が目に入ったから、ここで休んでたのよ。」
神の目に埃なんて入らない。貧乏神はそれを分かって優しく言った。
「じゃあ、もう少しここで休むと良いよ。」
貧乏神は乙姫の隣に座る。
夕方の少し涼しい風が吹いてきて、乙姫と貧乏神を包んだ。