ご先祖様
乙姫は本殿でふて寝していた。
あの亀が邪魔さえしなければ、もう少し貧乏神と話ができたのに。
「暑い!」
午後になると、さすがにここも暑くなってきた。本殿横の滝で水浴びでもしようかと起き上がった。その時。
ズドン
何かが落ちる音。
乙姫は本殿の外に出た。音は階段の方から聞こえてきた。
参拝者に慌てている人はいない。つまり、これは人に聞こえない音。神の鳴らした音だということ。
鳥居には変わりはない。階段にも何もないようだ。
五十段ある階段の下を覗き込む。
乙姫は、階段の一番下でひっくり返ってる浦島を見つけた。
「なんだ浦島。まだ居たの?」
溜め息を吐きながら階段を下りる。
「む〜。む〜。」
浦島が一生懸命起き上がろうとする姿は滑稽で面白かった。
「乙姫様。これはみっともない姿を見せてしまって、申し訳ございませぬ。」
亀はひっくり返ったまま頭を持ち上げて、恥ずかしそうに乙姫に謝る。
「謝らなくても良いのに。」
「階段を降りていたら、足を踏み外してしまいまして。」
「大丈夫?」
そうは言いつつも、乙姫は内心では良い気味だと思っていた。
(私たちの邪魔をするからそうなるのよ。)
乙姫は、しばらく亀が起き上がる様子を見下ろしていた。
しかし気持ちはスッキリしない。
ジリジリと陽が照って、暑さに耐えられなくなってきた。座り込んで亀を眺める。
亀はヒレをバタつかせて起き上がろうと必死だが、一向に起き上がれる気配がない。
一生懸命もがくけれど、どうしてもやりたい事ができないもどかしさ。
なんだろう、この気持ち。
私もジタバタとしてはみるけれど、一向に彼との距離は縮まった気がしない。
(他から見たら、私もこんな感じなのかな……)
今日の暑さと昨日の疲れもあってか、考えはあまり良い方向に向かわない。
なんだか急に、この亀に親近感を覚えた。
「よし!」
乙姫は気合を入れると、亀の甲羅に手をかけてひっくり返した。
「おぉお。乙姫様、ありがとうございます。」
「どぉいたしまして!」
乙姫はカラ元気を振り絞って応える。
もうウジウジと考えたくなかった。無性にお出掛けしたい気分。この良い天気の下、少し体を動かしながら別の事を考えたい。
「海へ行きましょうか、浦島。」
「いいえ、乙姫様。儂はこれから町を歩いてみようかと思うております。」
「はっ!? 何で?」
亀から「海へ行かないか」って誘ってきたのに!
せっかく行く気になったのに、なんで亀まで裏切ろうとしてるのよ。
「先ほど乙姫様がお怒りになられた理由を、儂は理解することができませんでした。もう少し知見を広めるためにも、町を歩いて人というものを学んでみようかと思うとります。」
亀は亀なりにちゃんと考えているらしい。
「いいわ。一緒に町を回りましょ。」
「良いのですか?」
「ちょうど散歩したい気分だったの。」
そこに嘘はない。
浦島が「町を見て回る」ように貧乏神から助言を受けたことを、乙姫は知らなかった。もし知っていたら、浦島と一緒には行かなかっただろう。
浦島は、乙姫を先導するように商店街を、駅の方へと歩いていく。ふわふわと町を進む様子は、まるで子犬の散歩のようだ。
しかし当の本人は、乙姫を守る責任感からか、とても誇らしげな顔をしていた。
乙姫神社の例大祭が終わると、もうすぐお盆。
盆が近づくと、家々に神が立つようになる。彼らは家の先祖を祭った祖神か、先祖の御霊そのものである。
盆や彼岸には、仏壇や墓に手を合わせる人が増え、それぞれの家の祖神への信仰が高まる。すると普段は無力でぼんやりとしていた御霊が「ご先祖様」として形を取り戻し、力を持つようになる。
だが、ほとんどの祖神はぼんやりとして形を保つことが出来ない。最近はそこまでの信仰が集まらない祖神が多い。
「あら、乙姫様。こんな所で珍しい。」
商店街の角にある魚屋の祖神が声を掛けてきた。
彼女は四年前に亡くなった魚屋の女将だ。長寿だった上に子や孫が多いから、他の家の祖神よりも信仰が高く、姿かたちも明確で意識もはっきりしている。
「こんにちは。」
乙姫も笑顔で挨拶する。
魚屋の祖神は、生前から足繁く乙姫神社に通い、神になってからもよく訪れていたから、乙姫とは顔なじみである。
「そちらの亀様は……ああ、きっと浦島様ね。」
御霊も神になると、神通力を持つ。その力をすれば、この程度のことは知ることができる。
かといって、たかだか一家族十数人程度の信仰だから、神通力は貧乏神の足元にも及ばない
「家族が集まっているのね。楽しそう。」
乙姫は、魚屋の家の中を伺う。中からは赤ちゃんの甘えた鳴き声や、子どもたちの無駄な叫び、妻たちが情報交換する話し声、男どものどんちゃん騒ぎ。
「そうなの。騒がし過ぎて、ちょっと外に出てきたんですよ。みんな楽しそうだからいいけれど。ほら、お盆に入ったら渋滞するでしょう。だからみんな盆前に集まろうって、北海道からもわざわざ来てくれたんですよ。昨日の神社のお祭りにも行ったんです。それはもう子どもたちも喜んで喜んで。お神輿にも触らせてもらって…」
乙姫はその話を聞きながら微笑んでいた。
魚屋の祖神は、神の格は乙姫と比べ物にならない。でも、彼女生来の人懐っこさから、乙姫も少々不躾な態度を許している。
ただ、話し始めると止まらない。
「…いとこ同士でくっついて。ああ、そうそう。今日は京都から玄孫が来るんで待っているんですよ。四月に生まれたばかりで、初めて見るんですよ。」
玄孫の父親と母親は、乙姫が縁結びした。その子どもとなれば気にならないはずがない。
「そう、それは楽しみね。後で寄って、見せてもらおうかしら?」
「そんな畏れ多い。孫に宮参りさせるように言いますよ。」
「あなた、そんな力があるの?」
「孫限定ですけどね。枕元に立つと、夢に見てくれるみたいで。」
「素敵。絶対に私の神社に連れて来てね。」
「もちろんです。では、後程。」
小一時間ほど喋り、魚屋の神は会釈をして家に戻って行った。
乙姫は足元の亀を見る。
「浦島は全然喋らなかったじゃない。」
「いや、人というものがどういうものか、とても勉強になりました。」
浦島は聞いているだけで疲れてしまったようだ。
乙姫は笑った。
「ニャー」
そこへ一匹の猫が通りかかった。
乙姫は閃いた。
「じゃあ次は、この猫の後をついて行くってのはどう?」
立ち話をしたおかげか、乙姫の鬱憤は少し晴れていた。