浦島
「あなたは、また衣をボロボロにして! 本当に貧乏神そのものだわっ!!」
乙姫神社に、怒りの声が響く。
手水場に座る乙姫だ。建屋の影で涼を取りながら、隣に立つ貧乏神を責め立てる。
「いや…またと言っても、それは何年も前のことだ。」
貧乏神の言い訳は、乙姫の火に油を注ぐだけだった。
「しかも今度は木の上から落ちたですって!?」
「怪我はなかったのだから良いだろう……」
神は不死とはいえ、怪我もすれば、病に伏せることもある。大怪我をしてしまえば、動けなくなって願いを叶えることもできなくなり、やがて信仰を失う。
この国では神同士が争う事はほとんどなくなったが、昔は多くの神が戦いに敗れて、その力を失った。中には忘れ去られた神もいるだろう。
「当たり前でしょ!」
乙姫のご機嫌はとても悪かった。
昨日の例大祭が終わったばかりで非常に疲れていたこともある。
だが、不機嫌の一番の理由は貧乏神のせいだ。
彼は最近、無理をしてでも願いを叶えようとしているため、今回のような危ないことまでしてしまう。
昨日は忙しくて、貧乏神の様子を見ている暇などなかった。その隙にこの事故である。
……乙姫の心配は尽きない。
「もう、いい加減にしてよ。」
「布は持ち主に返ったのだから良いではないか。」
もう充分だとばかりに、貧乏神は視線を逸らして鳥居の方を見る。そこには、暑い日差しの下、神社で階段ダッシュを繰り返す野球部の一団。
乙姫は、やれやれと思いながら溜め息を吐く。
「それを届けてあげた男の子は、そのマヒロって子の事が好きなんだから、縁結びまでしてあげれば良かったのに。」
貧乏神は驚く。
「そうなのか?」
「そうでもなきゃ、あのくらいの年頃の男の子が、女子に優しくするはずないでしょ。この、鈍感!」
貧乏神は頭を掻き、その様子を見て乙姫は笑った。
「そう。絶対、あなたは鈍感よ。」
鈍感な貧乏神は乙姫の気持ちに気付かない。
乙姫はもどかしく思うが、かと言って、気付かれたら恥ずかしいとも思う。
「そんなことまで気が回らないよ。」
「縁結びは大事。いくら鈍感でも、そこは逃してはダメよ。」
みんな色恋は神頼みするから、縁結びは効率良く信仰を高めることができる。
乙姫の言葉に貧乏神はうーんと唸ってと呟いた。
「まあ、今回はこれで充分だ。」
乙姫が「そんなことで、どうする」とさらに説教を続けようとすると、野球部にまぎれて、大きな海亀が階段を登ってきた。
「おお、浦島ではないか。」
貧乏神は、乙姫から逃れて亀を迎えに行く。
亀は足元のおぼつかない、ふわふわとした足取りをしているが、ちゃんと階段を登りきった。
貧乏神は、浦島と呼んだ亀に声を掛ける。
「息災のようで何よりだな。」
「貴殿も……貴殿は大丈夫か?」
貧乏神のボロボロの姿に気付き、驚いてひっくり返りそうになる。
この亀も乙姫たち同様、周りの人間には見えていない。
彼は浦島の神である。
と言っても、浦島太郎とは何の縁もない。
もともとは、港の先に浮かぶ『裏島』という小さな島の近くにある、亀の形をした、ただの岩礁だった。
その亀岩は乙姫神社からも見える位置にあった。最初はそれだけのことだった。
乙姫神社から見えるウラ島。そして亀の形の岩。誰しもが浦島太郎を想像した。
いつしか、その亀岩が『浦島』と呼ばれるようになった。
しめ縄まで巻かれるようになり、亀岩は信仰を集め、やがて『浦島』という神と成った。
「乙姫様におかれましてはご機嫌麗しゅう。」
浦島は低い頭をさらに低くして挨拶をする。
「あら、浦島。何しにこんな所へ?」
乙姫は明らかに苛ついた態度を見せる。
邪魔者がきたのだ。乙姫の心は乱されていた。
「例大祭でお疲れかと思い、慰労に参りました。」
「疲れてるのが分かっているなら、来なくても良かったのに。」
浦島は乙姫のお陰で生まれた神ともいえ、乙姫を敬愛している。一方で乙姫は、浦島のせいで縁の無い竜宮信仰と結びつけられてしまい、迷惑に思っている。
「そうも参りません。儂は乙姫様の守り神でもあります。」
浦島は亀のヒレで胸を叩き、強い使命感を見せた。
乙姫は溜め息を吐く。
せっかく二柱っきりだったのに。
「浦島は夏が稼ぎ時でしょうに。こんな所へ油を売りに来てて大丈夫なの?」
乙姫は皮肉混じりに言う。
浦島は近くの海岸から泳いで行ける場所にあるため、夏には若者たちが渡ってくることがある。若い彼らは縁結びを祈願する。
また、高校の遠泳の折り返し地点としても使われていたこともあり、海上安全や水難避けの願いが集まる。
浦島は最近信仰が始まって生まれた新しい神なのだが、夏に集まる願いを叶えてきたお陰で、貧乏神に比肩する神通力を持っている。
「一日くらい大丈夫です。」
浦島に皮肉は通じない。
「酷く暑いので、海へ遊びに来て、疲れを癒してはいかがかなとお誘いに参りました。」
浦島にしては気の利いた慰労を持ってきた。乙姫は、前に海へ行ったのはいつだったかなと思い出す。
「いやあ、お誘いありがとう。」
貧乏神が口を挟むと、浦島はピシャリと言った。
「貴殿ではありませぬ。乙姫様をお誘いに来たのです。乙姫神社は南向きで暑うございます。海風で涼まれてはいかがでしょうか。」
浦島の言うとおり、ここは暑い。
さっき浦島が一方的に断ってしまったが、貧乏神も一緒に行かないだろうか。
「どうしようかなあ。」
乙姫はそう言いながら貧乏神の顔色を伺う。
「行っておいでよ。きっと涼しいよ。」
貧乏神は乙姫が海へ行くよう後押しする。この言い方では貧乏神は行かない。
浦島が「貴殿ではありませぬ」などといらんことを言うからだ。
海も良いが、亀の浦島とではつまらない。乙姫はこの邪魔者に怒りを覚えた。
「乙姫様。昨晩、若者から水着の奉納があり申した。乙姫様に献上します故、是非とも海でお召になってください。」
浦島は器用にヒレを使い、甲羅の中からワンピースの水着を持ち出した。
一瞬、無言の時間が流れる。
「…最低っ!」
乙姫は走って本殿に帰ってしまった。
「あちゃあ。」
貧乏神が頭を掻いた。
「なぜ、乙姫様はお怒りになられたのか。」
浦島は水着をもったまま不思議そうにしている。
貧乏神が遠回しに教えてやる。
「それは奉納された物ではなくて、夜に脱いで置いていったんだ。」
「それにしても、お怒りになるほどのものとは…」
「う~ん、浦島には分からぬかも知れないが、人は汚いものだよ。」
「そうでしょうか。」
「あと十数年は、いろいろ人や町を見て回ると良いよ。」
貧乏神はそう言って、境内から階段を下りて帰って行く。
境内には浦島だけとなった。暫し考えていたが、わからない。
「この水着が?」
浦島は小首を傾げながら、佇んでいた。