夏休み
夏。
まだ朝なのに暑い。今年は特に暑い気がする。
乙姫神社は例大祭の日である。朝から笛太鼓の音が響く。神社の階段下の参道には屋台が準備をしていて、祭りの気分を盛り上げている。
今日は幾つかの神事があって、夕方からは神輿が出る。今夜の乙姫神社は人でごった返す事になる。
夏休みの期間中なので、人が沢山集まるお祭りなのだ。
一方で、山の反対側にある御殿森神社は静かである。
いや、周りの森は蝉の鳴き声で満たされているし、微かに太鼓の音も聞こえてくる。だが、その音は人気のない山肌に沁み入って、閑けさとなる。
そんな森の中。
貧乏神は木登りをしていた。目的はカラスの巣。
「あった。」
そのカラスの巣には、藤色のハンカチに包まれて卵が四つ。
巣の隣の枝に止まる親カラスの額に手を当て、お願いをしてみる。
「頼む。その布を返してもらえないだろうか。」
「カァー!」
「そこを何とか。お願いだ。」
「クヮ!!」
ハンカチを落とした持ち主からの願い。
しかし、ハンカチを拾ったカラスは、自分の巣に持って行ってしまったのだ。
「お前の卵が無事に孵るように、俺が見守るから、それを返してくれんか。」
「カーァ!」
「では、お前の子が大きく育つまで見守ろう。」
神が見守るということは、神の加護が得られるということである。災いを遠ざけ、特別な力を持つ事がある。
だだ…貧乏神程度の神通力では、見守りといってもたかが知れている。
「クヮー」
カラスは、どこまで納得したのかは分からないが、器用に嘴で巣からハンカチを引き出した。
「ありがとう。必ず約束は守るから。」
カラスは木の根元にある大きな石の上にハンカチを落とすと、代わりに巣の材料になりそうな物を探しにいった。
「さて…とっ!」
気を抜いた次の瞬間、貧乏神は木から落ちていた。
枝や葉の間をすり抜けて、地面へと叩きつけられる。
「痛ぅ!」
あちこちに痛みが走る。怪我はなかったが、腰を強かに打ったようだ。
左の袖が裂けてしまった。
「これはやってしまったなぁ。」
他にもいろいろと破れている。
これは、まあ……、仕方ない。
問題はハンカチである。
ふわりと石の上に乗っている。
「さて、これをどうやって本人に届けたものかな。」
貧乏神には物を直接動かすような神通力はない。もちろん人を呼んだり、動物を遣いにやる力もない。
先ほどのカラスにお願いしてみようか。見守ると約束したのだから、もののついでにもう少し手伝ってくれるかもしれない。
木々の上の方を見回す。先ほどのカラスの巣が見えるが、当の親カラスは見当たらない。
「よぉし。」
貧乏神は柏手を打ち、手を合わせたままで精神を統一する。神通力を使ってカラスを呼ぼうと、声を発する。
「ハッ!」
森中の空気がピンと張り詰め、全ての蝉が鳴き止んだ。
合わせた手に、更にさらに力を込めていく。
研ぎ澄まされた力は、森の樹々、木漏れ日、駆け抜ける風、息づく生き物たちを伝って広がり、遠くまで飛んできていた親カラスへと到達する。
そして、
アホー
カラスは一鳴きし、もっと遠くへと飛んで行ってしまった。
次の瞬間、一斉に蝉の大合唱が始まった。
「カラスですら、まだダメか…」
貧乏神は力を抜くと、肩を落とした。
猫を探す願いを叶えてから、小さな子供たちが御殿森神社へ願いに訪れるようになった。
貧乏神にもできるだけの願いを叶えるようにしてから数年。小さな信仰は集まってきたけれど、一朝一夕で神通力は強くならない。数十年単位、数百人単位の信仰が必要だ。
丁度その時、少年二人が森の中を歩いてきた。小学校の高学年くらいの友達同士。虫取り網を振りながら、木の上の方をキョロキョロと見ている。
「さっきさ、蝉が全部鳴き止んだよな?」
「ああ。」
「その時、なんかトントンって変な音聞こえなかった?」
そう聞いた白い半袖の少年の目は泳いでいる。だが、もう一人の赤い帽子の少年は何も答えず、一生懸命に蝉を探している。
「なあ。なあってば! 今の音、もしかしてボクにしか聞こえてない?」
「いや、ちゃんと聞こえてた。乙姫神社のお祭りの太鼓の音だろ。」
「あ、そうか。今夜お祭りか。」
半袖の少年は怯えた顔つきから、一気に軽い表情に変わった。
それを見て、帽子の少年は「そんなことで怖がってたのかよ」なんて思ったけど、それを口にしてしまうと、半袖の少年がへそを曲げてしまいそうだから辞めておく。
代わりに祭りの話を振る。
「ナオ君は祭りには行くの?」
「行く。ボクはお母さんと妹と。」
「俺も。どっかで会うかな?」
「だといいね。」
男子たちはダラダラと話しながらも、捕まえられそうな高さで蝉が鳴いていないか耳を澄ます。
(しめた。)
貧乏神は赤い帽子の少年に駆け寄る。そして、その額に手のひらを重ねた。
次の瞬間、その少年は何も考えずにナオ君に声をかける。
「こっちへ行って見ようよ。」
帽子の少年が指差す。二人は森の斜面を下り始めた。
少年にとってはただの気まぐれ。だが、本当は神の意志に導かれている。自然の音に耳を傾けている時は、神の声が通じやすいのだ。
「あ、何かある!」
だから、上を見ているはずの彼らが、足元に落ちているハンカチを見つけることができる。
「ホントだ。薄紫の……何だろ。」
ナオ君が虫取り網の柄で拾い上げた。
「ハンカチ?」
「まだキレイだな。落としたばっかりかな。」
帽子の少年が柄の先からハンカチを手に取る。
少年ならば「汚ったね」とか言って、その辺に捨ててしまうだろう。せめて森の外の目につく所へ移動させてくれるたけで良い。
貧乏神は柏手を打ち、再度、神通力を行使しようとする。
「あ、名前書いてあるじゃん。『とよたまひろ』だって。」
「クラスの女子か。ボク、返してくるよ。」
「家まで行くの?」
「ううん。多分、明日の朝にラジオ体操で会うから。」
「お祭りに来るかもな。」
「それなら、その時に渡すよ。」
ナオ君はハンカチを大事そうにポケットにしまった。
貧乏神は安堵した。ただ、自分の神通力に出番がなかったことは少々残念だった。