2話:村娘は魔物から逃げ走る
村の子供たちの中では私が一番足が早い。
近所のお婆ちゃんたちからは元気すぎてお淑やかさが足りない、落ち着きを保ちなさいなんてお小言を言われたこともあるけれど、それでも私はありあまり元気で身体を目一杯動かす方が好きなのだ。
女の子同士のおままごとだって悪くはないけれど、どちらかといえば男の子たちとかけっこで遊んでいる方が性に合う。
それが私――コレットという村娘の特徴だ。
そんな私だが、今日は村から出た森へと足を運んでいた。
目的はお姉ちゃんへプレゼントするためのお花摘み。
最近なぜかため息ばかりついているお姉ちゃんに元気を出してもらいたくて、前にお姉ちゃんが好きだって言っていたお花を積んで帰るために私は一人で森へと赴いた。
『おぉ、お前さん。森はどうだった。魔物には遭遇しなかったのか?』
『至って平和なもんだったぜ。ギルドで金を払って護衛なんて頼んだのに無駄になっちまったよ』
『まぁ何事もなくて良かったじゃねぇか。はっはっは』
姉さんが切り盛りしている酒場ではそんな話をよく耳にしていた。
森に危ない魔物が住み着いているという噂が流れている。その噂を聞いてギルドが傭兵さんを募って狩りを始めた。でも全然姿が見えなくてやっぱりただの噂なのではないかとみんなが話をしている。
まだ子供の私にはそれ以上詳しいことは分からないけれど、要するに森は安心だってことだけは分かった。
だったら問題ないはずだ。
どうせ傭兵さんに護衛をお願いするお金なんて持ってないし、魔物が出ないっていうなら別に私一人で出歩いたって大丈夫でしょ!
いつもは村の大人たちから森には入ってはいけないとうるさいくらいに言い聞かせられてきたけれど、それこそいざとなったら逃げてしまえばなんとかなる。
私は逃げ足だって早いんだから!
大人にだって負けないこの足で逃げれば簡単には追いつかれないもん。
そんな楽観的な考えを持って森に入った私は、現在そのことを深く後悔していた。
「はぁ……はぁ……だ、誰かっ! 誰か助けてぇ!」
お昼に食べようと思って今朝から準備したおにぎりも、積んだお花を持ち帰るためのバスケットもいつの間にか私の手にはなく、ただただ目の前に切り開かれた道を道なりに走り続けていた。
木の枝を踏むたびに聞こえるパキリと鳴る音が聞こえるたびに心臓が跳ね上がりそうになる。
その音はもしかしたらすぐ後ろまで迫っているアイツが鳴らす足音なのではないだろうか。
自分とあいつの距離はもうほとんどなくて、次の瞬間には私は噛み殺されてしまうのではないだろうか。
そんな考えばかりが頭をよぎってしまい、ただ恐怖に駆られるままに私は駆け続けていた。
……でも私はたくさん走ったし、もしかしたらもう――。
――わぉぉぉぉん!
「ひぃぃぃぃ!」
あー、ダメだ。あいつはもうすぐ後ろまで迫っている。
その気配は確実に私の背中を追ってきているのだと伝わってくる。
さすがに森ではうまく動けないのか、あるいは私という獲物を前に狩りを楽しんでいるのか。
本気になればすぐにでもその牙を突き立てることが出来るだろうに、アイツはただただ鳴き声で私を怯えさせながら走り続けている。
「はぁ……はぁ……くそぉ……なんで、こんなぁ……」
だけどもうだめだ。体力の限界。
一度疲れを意識してしまうと、恐怖で張り詰めていた糸がぷつりと切れる。
ただ逃げることのみに割いていた意識に疲労感や雑念などが入り込むことで私の集中力は一気に途切れてしまい、やがて足をもつれさせその場で転けてしまう。
崩れ落ちた膝を地面にぶつけた衝撃で鈍い痛みが私を襲う。
痛い。私は怪我をしたの?
小さい呻き声を上げながら膝を触ってみると、その手には掠れたように血が付着していた。
擦り傷かあるいはもっと出血しているのか。
その答えを確かめるために膝に視線を向けようとした私は、先にアイツを視界に収めてしまう。
「あ、あ……あぁ……」
全身真っ黒に四本足、鋭い牙が剥き出しになっている口からは涎を垂らしながら、そいつは私の元へとゆっくり近づいてくる。
興奮しているのかハァハァと粗い息を吐きながら、そいつ――魔物は後一歩の距離まで近づくと足を止める。
真っ赤に光る目が私を捉え、また私も力が抜けた身体を動かすこともできずにただただ魔物と視線を交える。
時間が止まる。
吐息以外の音は聞こえず、私は自身の運命を握る狩人に意識を集中することしかできない。
お願い。助けて。女神様どうか命だけは。
そんな言葉にもならない言葉をひたすらに頭の中で繰り返し続けていた結果、魔物はくぅーんと小さな声をあげながら一歩、また一歩と後ろに後退していく。
漏れ聞こえる吐息が徐々に遠ざかっていくことに、私は少しの安堵を得ていた。
もしかして助かったの?
女神様への必死の祈りが届いたのかもしれない。
ありがとうございます。これからはちゃんといい子にします。
張り詰めた緊張が解け、今度こそ身体中から力が抜けようとしたその時、やつはニヤリと笑った、ような気がした。
――わぉぉぉぉぉん!
「ひぃぃぃぃぃ!」
魔物は突如として駆け足で迫り来ると私を押し倒さんと飛び乗ってくる。
身体は少し私の方が大きいくらいだがその力や比にならないほどに強く、抵抗する間もなく私の体はその四肢に押さえつけられてしまう。
――ハッハッハッ
眼前に魔物の顔が近づく。
口を大きく開き、ドロリと垂れる涎が私の頬へと伝う。
鈍く光る牙は今にも私を噛み砕かんと距離を詰め、そして呻き声と共に私の首元を捉える。
――バァァァァァッ!
「お姉ちゃん……!」
もうダメだ。ごめんねお姉ちゃん!
一人遺してしまう家族に謝罪の言葉を胸に、私はその瞬間を目を閉じながら耐えようとした。
………………………………。
……………………。
…………あれ。
なぜかまだ生きている違和感に、私は恐怖のあまりに閉じてしまった目をゆっくりと開くとそこには予期せぬ光景が広がっていた。
「……あれ、魔物は……?」
気がつけば、いつの間にやら私の身体は自由の身となっていた。
なんで? どうして? もしかして夢だったの?
いつの間にか私は森で眠ってしまっていて、変な夢を見てしまったのだろうか。
そんな安直な考えは、しかし頬に残る粘度の高い液体を触れることですぐさまに現実へと引き戻される。
「夢じゃ、ない?」
ということは……魔物はまだ近くにいる!?
急いで周囲を探し見るも、しかしその姿は一向に見当たらない。
いやそんなはずはない! もしかしたらすぐ近くから獲物の様子を眺めて楽しんでいるのかもしれない!
「に、逃げなきゃ……」
だとしても、自分に出来るのはただ逃げることだけだ。
すぐにそう決断し立ちあがろうとするが、意思に反して足が震えたまま動かすことができないことに気がつく。
話に聞く「腰が抜けた」とはこのことだろうか。それにスカートと下着が妙に生暖かい。
ようやく気がつくその惨状に、私は三度身体から力が抜けてしまう。
本当に、私はなんと愚か者だったのだろうか。
もうどうにでもなってしまえ。
そんな投げやりな気持ちで大の字に寝込んだ私は、案の定何者かの気配が近づいてくるのを感じ取る。
ほらね。やっぱりダメだった。
探るようにゆっくりと近づくその気配は、やがて私の足元でぴたりと止まる。
「なぁお前さん。生きているかい?」
そして私へと喋りかけてくる。
ナァオマエサン。イキテイルカイ。
そうか、それが私が聞くことになる生涯最後の言葉なのか。
……………………ん? 魔物が喋った?
いやアイツは喋らないでしょっ!
その言葉にばっと目を見開くと、気配の持ち主は驚いたように覗き込んでいた顔を跳ね上げる。
「あ、あなたは? ねぇ魔物はどうなったの!?」
「魔物? ということはお前さんやっぱり――」
一人うんうんと頷くその男に、私はなんとか力を振り絞って立ち上がると服にしがみつくことに成功する。
「あ、あんたが助けてくれたの? も、もう大丈夫なの?」
「ええっと、よく状況が分からないんだが。まぁ少し落ち着いてくれ」
そう口にすると、男は私の肩を抑えてゆっくりと座るようにと静かに腰を下ろす。
「とりあえずこの周りには魔物の気配を感じないから安心してくれ。もう君は大丈夫だ」
「そ、そうなの? 本当に?」
「あぁ、多分俺の仲間が君を助けたんだろう。さぁゆっくりと深呼吸をしよう。……ほら吸ってー、吐いてー。もう一度吸ってー、吐いてー」
促されるままに深呼吸を繰り返しようやく少し落ち着きを取り戻す。
「よし。じゃあまずは自己紹介をしよう。俺の名前は――」
それが私とお兄さんたちとの最初の出会いだった。