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鳥のさえずりが聞こえ、アルバスタは目を覚ます。憂鬱な朝だ。
何をするでもなく、漫然と日々を過ごす彼にとっては新しい朝など、好ましいものではない。それどころか来てほしくないと感じる。
「今日も健康」
一言つぶやいてアルバスタはベッドから起き上がり、朝飯の準備をする。ベッドと小さな棚のほかには何もない彼の家には彼以外にはだれもおらず、足音だけが寂しく響いている。
いつも食べるものは同じ。固いパンにギリギリかみ切れる干し肉。おいしくはないが、腹に何かを入れないといけない。そう考えてアルバスタはただただ咀嚼するのだ。
しかし今日は。
「あれ?」
いつも食べ物を置くところには何も見当たらない。そこで彼は昨日、食材を切らしてしまっていたのを思い出した。
重い溜息をつく。
しょうがない、と唱えながら家のドアを押した。
目の前に広がるのは眩しい太陽に青い空。その光の強さにアルバスタは顔をしかめる。
外出するのはいつぶりだろう。しかしまぁ、太陽に当たるのは幾分か気持ちがいい。
そう考えながら町の市場に足を運んだ。
フルール。
宿場町として小規模ながらも栄える町。王国と帝国の国境線付近に位置しながら、貧しいながらも人々は身の丈に合った暮らしをしている。
アルバスタは市場の、いつも通う店へと向かった。
「いらっしゃい」
無愛想な店主がアルバスタへと声をかけるが、「あぁ」と答えたきり二人の間には沈黙が訪れた。
「これとこれを」
店主にそうアルバスタが言うと、店主は何も言わずにいつもの固いパンと干し肉を袋に詰め込んでいく。いろいろと話しかけたり、ほかの商品を勧めたりしてくる他の店と違い、この面倒くさくない感じを彼は気に入っていた。
無言で詰め終わった店主はそのまま無言でその袋を突き出すので、アルバスタは両手で受けとった。これで三日は外に出なくていいな、と考えながら、懐から銅貨を数枚取り出して店主の手の上に乗せた。
「まいど」
たった一言店主はそう言うと、もうその目線はアルバスタのほうを向いていなかった。
用事が終わったので、家に向かって歩みを進める。
フルールの町は昔から変わらない。彼が両親と、今日と同じように市場に訪れた時から。
「ただいま」
だれもいない家の中にアルバスタは言う。
いまだに家に帰れば、父親が、母親が、妹がいるんじゃないかと思うことがある。
あの知らせは間違いで、本当はだれも亡くなっておらず、ひょっとしたら俺は1人じゃないのかも、と。
そもそもアルバスタは自分で死体を見たわけではない。
固いパンと干し肉をまた咀嚼する。この食事もいい加減飽き飽きしてきたが、料理をしようにもそんなやる気はない。このまま死にゆくのみだろう。アルバスタは日々そんなことを考えるのだ。
家族のもとに行きたいと、考えたこともあった。しかし彼には自分から死ぬなんて勇気はない。そんな度胸は持ち合わせていなかった。
「ほんと、何やってんだろう、俺」
アルバスタはしみじみとそんなことを思う。このままで良いのか、常にそう思うが、何も変えられない。
「クソ……!」
右手を振り上げてベッドに叩きつける。途端に涙が溢れてきた。何度こうして枕を濡らしたことだろうか。そんなことを考えながら、少しずつ薄れゆく意識を感じていた。
目を覚ましたのは、家の外から聞こえる騒がしい音だった。なにか獣が叫ぶ声や、人々が逃げ惑う声、建物の崩れる音。それらは今までフルールで聞いたことのないような、つまり閑静なフルールに似つかわしくないものだった。
アルバスタは何事かと急いでドアを押し開け、外を見る。
そこには燃える家屋、食われる人々、人外の魔物がそこら中に見受けられた。
「なんだこれ……」
フルールは魔物の住まう森から離れた場所にあるのだ。そのため、こうやって魔物の軍勢が押し寄せてくることなどありえない。
アルバスタは目の前の光景が理解できないでその場に固まってしまっていた。
グルル…
そんな音が聞こえたほうを向くと、そこには呼吸とともに火を噴きだす、体中の肉が異常に盛り上がった犬のような魔物がいた。
「あ…あ……」
アルバスタは丸腰で後ずさる。
対して魔物はアルバスタににじり寄る。
そして一瞬、魔物の姿が消えたと思うと、体に何かがぶつかる感じがし、目をつむってしまうが、体に痛みはなく、衝撃があっただけだった。恐る恐るアルバスタは目を開けるとそこには
「きれい…」
「アル――!」
紅髪の少女がアルバスタに抱き着いていたのだ。
腹部に感じる確かな温もり。確かにその少女は人間だった。
「え、だ、誰!?」
アルバスタは困惑する。先ほどまで眼前にいた恐ろしい魔物の姿が消え、自分に少女が抱き着いているのだから仕方がないことだろう。
あ、と一言言って少女はアルバスタから離れる。
「いきなり抱き着いてすまない。私はリリー」
恥ずかしそうにリリーと名乗った少女は顔を赤らめる。その表情に理解が追い付かないアルバスタはやはり呆然とするしかなかった。
「君を助けに来たんだよアル」
「助けに来たって…?そ、それよりさっきの犬のような魔物は!?」
「私だよ」
似ても似つかない魔物は自分だという少女を見て、アルバスタはただ「へ?」と気の抜けた声を出すことで精いっぱいだった。
「とりあえず説明はあと!逃げるぞ、アル」
「あ、あぁ――って、うわぁ!」
突然手を引かれて二人は町のはずれのほうへと走り出した。その間にもフルールの町は崩れていく。家屋が焼け落ち、人々の悲鳴がそこら中で聞こえてくる。
アルバスタは恐ろしくなって手を引く紅髪の少女に尋ねる。
「なぁ、これ、大丈夫かよ!?」
「大丈夫!…なはず。いざというときは私がなんとかするから!」
アルバスタは自分の非力さを恨みながら、ただ少女に頼るしかないことを恥ずかしく思うのだった。
「これ、まずくないか…?」
「うん…」
二人を囲うようにして犬のような魔物が息を荒くしていた。
「もう4回目なのに…!」
少女がそうつぶやいたのは、はっきりと聞こえた。だが、その意味は分からなかった。
「どうすれば良い!?」
「…私が隙を作る。その間にアルは逃げて…!」
「で、でも…!」
「いいから!」
そう言うや否や少女の体は変形し始める。その過程は見るに堪えないものであり、体中の肉が膨らみ、爆ぜ、なんともグロテスクだった。
「うわぁ!!?」
アルバスタは途中から目線を外したが、気になってちらっと見ると、少女は犬のような魔物に姿を変えていた。
魔法。
アルバスタだけでなく皆が知るものだが、使えるものは限られ、しかも姿を変える魔法を使える者など世界中に両手の指で数えられるほどしかいない。
しかしアルバスタはその光景に感動している暇などなかった。
少女だったその魔物は喉を鳴らす。
そして瞬間、囲んでいる魔物に向かっていく。
魔物が魔物同士で食い合う光景。目をそむけたくなるが、少女は魔物の包囲に穴をあける。そのスペースをアルバスタは見逃さなかった。
少女が作ってくれたスペースに向かって一直線に走り、包囲を抜ける。
そして後ろを振り向かず、息を切らしながら血の香りを感じて、ひたすらに火の無いほうへ走る。
走る。
走る。
気が付いた時には、そこは町から外れた場所だった。
走っている途中から記憶がない。
アルバスタは走った疲労からその場に倒れこむ。
肩を上下させて空気を吸い込む。
あの時、どうして逃げたんだろう。あのまま死んでいれば家族のもとに行けたのに。一人じゃ死ねないアルバスタにとって絶好のチャンスであっただろう。
「俺、死んだほうがよかったんじゃ……」
紺色の空に輝く星を見つめる。
「そんなこと、本当は思ってないんじゃないか?」
鈴のような声が聞こえる。
「本当に死にたいんなら逃げやしないさ」
「…お前にはわからないだろ」
「そうだな。私にはわからないさ。けどアル、君が自分で言ってたんだよ」
「え?」
「君自身がまだ死にたくないって」
どういうこと――と言いかけたところでその言葉をアルバスタは飲み込んだ。
リリーと名乗った少女の目は遠くを見ていた。なにか、やり遂げたような、そんな感傷にひたっているような。
「なぁ、アル。聞きたいことはたくさんあるだろう。だがその前に一つ良いかい?」
「あ、あぁ」
「私は君を好ましく思っている。だから、よかったら私の旅に…ついてこないか?」