妹じゃなくて私を選ぶんですか?〜無自覚聖女は最強皇子に見初められる〜
私の見る夢はいつも悪夢だ。
『アンナ、お前は本当に不出来だな。少しは妹であるエルザを見習ったらどうだ?』
どれだけ練習しても魔法が使えなかったあの日、ため息を吐き出した父にそう言われた。
『どうしてこんな簡単な魔法も使えないの? あなたは公爵家の娘でしょう?』
貴族の証である魔法を使おうと努力しても努力しても、その努力が実を結ぶことがなかったあの日、怒りと共に母からそう言われた。
『魔法が使えないのなら学問に励めばいいのに、それすらもエルザ様に遠く及ばないなんて』
貴族の通う学園での成績が良くないことを父に叱責された日の夜、いつもお世話をしてくれるメイドからそう言われた。
そうして、馬鹿にされた言葉がずっと頭の中で響き渡っていく。
「別に私だって……好きで無能になったわけじゃない」
そんな言い訳じみた言葉が頭の中で消えていく。
窓から朝の日差しが差し込んで、ちょうどそれが私のまぶたを射した。
「……もう、朝」
そう呟いて、身体を起こした。ベッドに手を付くと、ごそ、と重たい感触が返ってくる。それは寝る前に読んでいた本だった。数奇な運命に囚われた王女が、冒険者になって自由を掴む。そんな、夢物語。
「……早く起きないとお父様に叱られる」
私は身体を起こして、身支度を整えることにした。
アンナはエルトルード帝国を支える四大公爵家の1つ、ハルトラシア家の令嬢だ。
本来だったら彼女を支えるメイドがいる。けれど、彼女の部屋には誰もいない。
そして、それをおかしいとも思うことなくアンナは淡々と朝の支度を済ましていく。
8年前からずっとそうだ。
エルトルード帝国では、魔法使いは貴族として平民を守る代わりに皇帝から領土を賜る。公爵家の令嬢ともなれば、それだけ飛び抜けた魔法の才を期待された。期待され続けた。
だが、アンナに言われたのは『才能なし』の一言。
いつまで経っても魔法が使えないアンナに苛立った彼女の父親が、才能を測るためにわざわざ大魔導師を呼び鑑定の儀を行い――彼女には魔法の才能が無いことが分かった。
だから彼女の父親はアンナに見切りを付け、その反対に1歳年下のエルザを大変可愛がることにした。
黒髪黒目のアンナとは違う、金の髪と翡翠の瞳。整った鼻筋にぱちりと大きな瞳。華やかで可愛らしい体つきに加えて、何より彼女には魔法の才能があった。
わずか5歳で簡易魔法を全てマスターすると、10歳では大人が使うにも苦労する大魔法を使いこなしてみせたのだ。
人々はエルザを褒め称えた。
『神々に愛された少女』
『妖精の生まれ変わり』
そんな言葉でエルザの才能を表した。
そして、それはもちろんアンナの父親である公爵もそうだった。
片や長女ではあるが、貴族なのにまともな魔法も使えない落ちこぼれ。
片や次女ではあるが、魔法の才能に恵まれ妖精の生まれ変わりと称される少女。
どちらに力を入れて育てるのか。
そんなもの、火を見るよりも明らかだった。
アンナの父親はエルザを溺愛し、優秀な家庭教師を多く呼んで彼女が貴族社会で通用するようにあらゆる教養を学ばせた。
歴史、地理、外交、社交界のマナー。
エルザはその愛を一身に受けてすくすくと育っていった。
一方のアンナには、何も与えられなかった。
貴族としての体面を守るために学園には通わせてもらったが、そこでアンナが学んだことは令嬢たちの性格の悪さと人の悪意だけだった。
「早く支度しないとお父様に叱られちゃう」
自分の無能が原因で叱られるのには慣れているが、それでも理不尽に叱られるのは嫌なのだ。
アンナは支度を終えると、ため息を吐いて会いたくもない家族の元に向かった。
「遅いぞ、アンナ」
「……申し訳ありません」
大広間に向かうと、父からの叱責が飛んできた。
部屋の中を見ると既に母とエルザも席についていた。
家族たちから離れた場所にぽつんと置かれた席に私が向かうと、嫌味たらしく父親が呟く。
「無能なんだからせめて私たちの時間を奪わないようにしたらどうなのだ」
「…………」
返す言葉もなく、ぐっと唇を噛み締めた。
「どうした? 何か言いたいことでもあるのか?」
「……いえ、何も」
魔法の才能に恵まれなかった自分が何を言っても無駄なことくらい知っている。だから黙り込んだ。どんなやり取りをしたって、父が私の話なんて聞くことはない。
食事に手をつけようとした時、父が顔をあげた。
「今日は第一皇子であるローレンス様の凱旋パーティーが行われる。2人とも出席するように」
「凱旋パーティーですか?」
応えたのは、エルザ。
当主である父親のすぐ近くに座っている。
いや、座ることを許されている。
「ローレンス様はもうすぐ24歳になられる。そろそろご結婚なさるお歳だ。今回のパーティーはその顔合わせでもある。安心しろ、エルザ。今日に合わせて準備を整えている」
「感謝いたしますわ。お父様」
ローレンス様は帝国の第1皇子だ。
最強の魔法使いと名高く、正当なる皇位継承者。
だが、彼は女性を選ぶ目がとても厳しく、未だに婚約者がいないのだという。
エルザは微笑むと、その表情を冷たく変えて私を見た。
「しかし、お父様。2人……というのは」
言外に『なぜこいつも来るのか』と言わんばかりの冷たい瞳。
だが、それも私にとってはいつものことだ。
才能に溢れ、両親の愛情を目一杯注がれて育ったエルザは、落ちこぼれである私をはっきりと見下している。今更怒る気も悲しむ気も起きない。当たり前の事実だ。
「皇太子の凱旋を祝う席に、落ちこぼれとは言え公爵家の娘を出さんわけにもいかんだろう」
「それはそうですわね。愚問でしたわ」
「間違いから学べば良いのだ。エルザ」
そういって優しく微笑む父親の顔は、私には向けられたことのないものだ。
(……いつか)
その光景から目を逸らしながら、そっと心の中で決意する。
(いつか、この家を飛び出して……自由に)
公爵家の地位を捨て、平民になる。
どれだけ愚かと言われようとも……それが私に残された最後の道だと思った。
凱旋パーティーは夜に行われるらしい。
いかに見捨てられた娘と言えども、公爵家の一員として向かう以上はそれなりの身なりや服装が求められる。侍女たちにドレスを着飾ってもらうのも久しぶりだな、と思いながら私はエルザと同じ馬車に乗り込んだ。
「お姉さま。邪魔しないでね」
「……しないわよ」
自分と違って、豪華なドレスに身を包んだエルザにそう言われればそう答えるしかない。私が着ているのは、目立たず質素で、失礼にならない最低限の代物。他の令嬢たちを差し置いて、ローレンス様の気を掴もうとするエルザのドレスとは比べることすらおこがましい。
エルザは華だ。
この日のために当主である彼女たちの父親が特注したドレスを身にまとって、これまで何度も社交界に参加してきたことによる自信で心を満たし、優雅に振る舞う。
そんな彼女を前にすれば私は会場の置物にでもなれば御の字だろう。
だから、会場に入ってすぐにエルザの横を離れた。近くにいたって比べられて蔑まれるだけだ。一体どこに、進んで引き立て役を演じたいと思うものがいるのだろう。
「あら、アンナ様」
そう思ってエルザから離れたのに、悪運からは逃げられなかった。
振り返った先にいた同級生を見つけ、私は心の中でため息を吐くと応えた。
「お久しぶりですね、エマ様」
それは学生時代の知り合いだ。
間違っても友人なんて呼べるような間柄ではない。
「そのドレス。アンナ様みたいで、お似合いですよ」
「ありがとうございます」
出会い頭に嫌味をぶつけてくるその性格も、相変わらず。
「そのお姿でローレンス様を射止めに? 私には分かりませんが、地花ならではのお考えがあるのでしょうか」
そう言ってこちらを馬鹿にして微笑むエマに、愛想笑いを返す。
シリアン、とは地面に咲く小さな白い花をさす。
誰も目を向けることのないつまらない花……才能のない私を指すにはぴったりの言葉だ。
しかし、その嫌味も今に始まったことではない。
私は「さて、どうでしょう」と返すとその場を離れると、逃げ出すように中庭に向かった。これ以上とどまっていると、もっと面倒な者に絡まれるのが目に見えていたから。
中庭に出ると、誰もいなかった。
パーティーが始まったばかりだからだろう。華やかな建物からは、喧騒が響いているが一歩離れたこの場所は、まるで異世界のように静かだった。
空には大きな月がぽっかりと浮かんでいて、優しく庭園を照らしあげる。
誰に会っても嫌味を言われるここで、月だけが受け入れてくれた気がした。
「……いやだなぁ」
誰も見ていないからぽつりと本音が漏れる。
馬鹿にされることに慣れてると言っても、嫌なものは嫌だ。
でも、それを表に出したところで何も変わらない。
むしろ、『無能がつけあがるな』と余計に彼らを刺激するだけだろう。
だから、パーティーではこうして誰もいないところで時間を過ごすのが私の処世術だった。それで、これまでは上手くいっていた。
……これまでは。
「俺が最初だと思ってたんだけど……今日は先を越されちゃったかな」
「……!?」
聞こえてきたのは、驚くほどに通る声。びりびりとする魔力。
振り向くと、そこには彫像のように美しい青年が立っていた。
背は私よりも頭1つは高く、目にかかるほどの長い前髪は月の光を反射する銀。瞳は宝石のような青で、ぱちりとしたまつ毛は優れた人形師が作り出した逸品のように思える。そんな、青年。
驚いた私は、思わず目を丸くして聞いた。
「だ、誰ですか!?」
「すまない。驚かせるつもりはなかったんだ。失礼……君は?」
尋ねたのに、逆に聞き返されて思わず私は苦笑した。
エルザと違って社交界に連れ出された経験の少ない私のことを知らないのも、仕方のないことだ。だから私は名乗りあげた。
「私はハルトラシア家一女のアンナと申します」
「ハルトラシア……あぁ、公爵家のご令嬢だったのか。これは失礼」
そう言って微笑む青年からは、不思議と嫌味を感じなかった。
「どうしてこんなところに?」
「……人が苦手なので」
「俺と一緒だ」
「…………」
目の前の名前も知らない青年はそう言うと、そのまま私の隣に立った。
「な、なんで横に立つんですか」
「なんとなく」
「……そうですか」
自由人なんだな、と思った。
それが許されるのが羨ましいとも思った。
「公爵令嬢というのに俺が名前を知らないとは……訳ありな感じがするね」
「有名ではありませんから」
「それだけの力がありながら?」
「…………?」
青年の言っている意味が分からず首を傾げると、ばっ! と、中庭と会場をつないでいる扉が開いて、そこから令嬢たちがわらわらとやってきた。
「なんだろう? 何かあったのかな」
「あなたを探しに来たんじゃない?」
気の抜けた問いかけをしてくる青年に、軽口を返す。
だが、それを聞いた青年は「あちゃー」と顔に手を当てると、私の目を覗き込みながら頼み込んできた。
「アンナ。少し俺に協力してくれないか?」
「協力? 私があなたに?」
「そう。ちょっとの間で良いから」
「……私にできることで良いなら」
思わず眉をひそめながらそう言った。
もし他の貴族だったら、断っていただろう。
なぜ、無能と馬鹿にしてくる者の相手をしなければいけないのだ。
だが目の前にいる青年は私のことを馬鹿にしなかった。
だからその親切を返そうと思ったのだ。
集団でこちらに向かってくる令嬢たちの先頭は……エルザだった。
一瞬、目があったがすぐに視線を外して青年に微笑みかけながら言った。
「探しましたわ。ローレンス様」
……ローレンス様?
思わず私は耳から入ってきた言葉を頭の中で繰り返す。
この国において、少なくとも貴族の中で、ローレンスという名前を持っているのは1人しかいない。第一皇子その人だ。
「皆様、探しておられますわ。さぁ、戻りましょう?」
「いや、俺はもう良いかな。相手も見つけたしね」
そう言って、目の前の青年――ローレンス様は私の肩にそっと手を置くと、
「紹介するよ。僕の妻になるアンナだ」
「え、妻!?」
寝耳に水すぎて、驚いた私にローレンス様はそっと「話を合わせて」と耳打ちしてきた。
協力って、婚約者の振りをすることだったんだ……と思いながら、私は頷いた。
「お戯れを。ローレンス様」
けれど、エルザはそれを冗談だと思ったのだろう。
だがそれは私だって同じだった。
“協力”の内容がまさか婚約者になれだなんて……予想できるわけがない。
しかし、ローレンス様はエルザに真正面から応じた。
「戯れかな? 俺は本気だけど」
「ローレンス様にお伝えするまでもないと思いますが、帝国の貴族は魔法の才能が物を言う世界です。そのような者を王妃にするなど、戯れ以外の何と言いましょう」
実の姉である私のことを『そのような』と言ったエルザの表情は硬い。それもそうだろう。彼女は社交界でよりよい相手と婚約するために育てられてきたのだ。
この凱旋パーティーはその集大成とも言って良い。
なにしろこの国で最も優れた男性であるローレンス様の相手探し。なりふり構わず蹴落とそうとするエルザの言葉を聞いて、思わず私の身体は強張った。
私は無能で、無才だ。
それを知って、初対面の私を1人の人間として見てくれたローレンス様がどういう風な反応をするのか……それが怖かった。
だが、そんな私の心配とは裏腹にローレンス様の表情は疑問のそれで、
「『そのような』ってのは誰のことを指してるのかな』
「……? アンナのことですが」
「君には分からないのかい?」
「なんの話でしょうか?」
ローレンスの問いかけにエルザが困惑しながら返す。
その様子を見ながら、彼は深くため息をついた。
「うーん。そっか。見えないのか」
それをエルザがどう見たのか私には分からなかったが、彼女は気を取り直すと再び笑顔を浮かべると、自分を売り込みだした。
「ローレンス様が何をおっしゃってるか分かりませんが……。私は5歳の時より基礎魔法を使いこなして10歳の時に大魔法を使いこなしていました。アンナより魔法の才能に溢れていますわ」
「そっか」
だが、ローレンス様はそれだけ言って私の肩にそっと手を置いた。
「戻ろうか。中庭も人が増えてきたし」
「え? で、でも……」
エルザのことを無視して私を会場に戻そうとするローレンス様。彼に手を引かれながら、私はエルザを振り向いた。
そこには唖然としたエルザがいて、彼女はすぐに歯噛みすると私に向かって怒りの表情を浮かべた。
「あ、あの! なんで私なんですか!? もっと他に良い方が……」
「良い方って?」
「エルザとか……」
私がそういうと、ローレンス様は少し笑った。
「5歳で基礎魔法全部、だっけ? でもそれって早熟なだけじゃないのかな?」
「えっ……?」
私の中で培われてきた価値観が粉々になるようなことをローレンス様は言うと、
「10歳で大魔法だっけ。そんな誰でも使える魔法だけだとね」
「で、でも! 私は魔法が何もつかえません!」
「だろうね。君には魔法の才能がないから」
「では、なぜ」
「ハルトラシア家で教えてもらわなかったの?」
不思議そうに尋ねてきたローレンス様に私が『教えてもらってません』と言うよりも先に、私の足が会場の絨毯を踏んだ。
その瞬間、会場の談笑が止まって全ての視線が私に集まった。
静寂、そして吐き気がするほどの注目。今までの人生で間違いなく一番注目されている。だが、その注目を跳ね除けるようにローレンス様は胸を張って前に進む。
そんな彼に手を握られている私は彼の後を追うしかなく針のむしろのようになっている会場を歩いて抜けると、ローレンス様は皇帝陛下の前で立ち止まった。ローレンス様が生まれるまで最強と呼ばれていた魔法使いに睨まれて、思わず私は震えた。
けれど、ローレンス様はそんな私の怯えを振り払うように微笑むと会場全体に伝わるようにはっきりと宣言した。
「父上、紹介するよ。こちらの女性が俺の妻になるアンナだ」
思わず私は目を丸くした。
さっきの『婚約者』はエルザたちを追い払うための嘘じゃないのか。
それを皇帝陛下の前で直々に宣言するなんてこの人は何を考えているのか。
私のとりとめのない思考はぐるぐると回ると、一周回って冷静になった。
いや、でも私は無能なのだ。皇帝陛下も私をローレンス様の婚約者と認めるわけがない。そう思って安心した私の思いを打ち砕くように、皇帝陛下は頷いた。
「ようやくお前の目にかなう者がでたか。婚姻の準備を急ごう」
なんと受諾してしまったのだ。
「ありがとう。助かるよ、父上」
「人前であるぞ。言動に気をつけろ、ローレンス」
皇帝陛下に注意されているというのに、ローレンス様はどこ吹く風と言った様子で飄々と笑う。
私はローレンス様の真意が掴めず、困惑しながら聞いた。
「あ、あのローレンス様……」
「様は要らないよ。これからは婚約者同士だしね」
婚約者同士でも、あなたには必要でしょう……と、思いながら私は小声で聞いた。
「あ、あの。これは、どういうおふざけなのでしょうか?」
「だから言ったでしょ? ちょっと協力してって」
「それは……言いましたが。でも、あれは私に婚約者の振りをしろってことだったんじゃないんですか!?」
「違うよ。俺はすぐにでも結婚しないといけない理由があってね。それで『魂の伴侶』を探していたんだ」
「魂の伴侶……ですか」
「そう、君も知っているとは思うけど魔法使いは相性の良い相手と結婚することで、その力を何倍にも強くすることができる。俺はそれを使ってやらないといけないことがあるんだよ。だから、君の力を借りたい」
ローレンス様はそう言うと、にこりと笑った。
「でも、俺のわがままに巻き込んじゃうからさ。俺と仮初でも結婚をしてくれるなら、君のやりたいことを1つだけ叶えてあげる。俺のやるべきことが終わった後になるけどね」
そういうと、「何でもはできないよ。俺にできることだけね」と言って子供のようにローレンス様は言った。だから私はよりいっそう声を潜めて……彼に聞いたのだ。
「あの、ローレンス様。私を……平民にすることは、できますか」
「平民に?」
「はい。公爵家と私の縁を切ることはできますか?」
「なるほど……」
ローレンス様は私の『やりたいこと』を吟味するように目を細めると、「うん」と頷いた。
「できるよ。それが君の『やりたいこと』で良いんだよね?」
「はい。私は自由の身になりたいのです。家に、血筋に束縛されることのない、自由の身に」
「分かった。他ならぬ奥さんからの頼みだからね。全力で取り組ませてもらうよ」
「では、これで取引成立ということで」
私がそう微笑むと、ローレンス様もいたずらを思いついた子供のように笑って私の手を取った。そして、誰も知らない仮初の婚約関係が結ばれることになったのだ。
婚姻の準備はその日のうちに行われることになった。
私は屋敷に帰る途中の馬車で、何が必要になるのかを考えた。
公爵令嬢が皇家に嫁ぐのだ。相当な準備が必要だろう。
だが、そのために必要な代物を果たしてあの父親が用意してくれるのだろうか。そんなことを考えていたら、目の前に座っていたエルザが、バン! と馬車の壁を叩いた。
急なエルザの怒りに、私の意識は無理やり目の前に向けられた。
「なんで、あんたなのよ。なんであんたが選ばれるのよッ!」
その目にははっきりと見て取れる悔しさがにじみ出ていて、今にも私を殺さんばかりに睨んでいた。
「……私だって、わからないわよ」
深く息を吐く。
ローレンス様は私に何かの力があるようなことを言っていたが、それが何なのかもわからないままに私が選ばれたのだ。
むしろ、私の方がなぜ選ばれたのかを聞きたいくらいで、
「どんな色目を使ったのよ。魔法も使えない落ちこぼれのくせに」
エルザの言葉に、私は無言で返した。
そう言われるのには慣れている。
今さら煽られたところで、怒るようなみっともない真似はしない。
「そうだ! 良いことを思いついたわ。あんたが婚約を辞退するの。そして、代わりに私をローレンス様に勧めるの。これで私がローレンス様の婚約者になれるわ」
「…………」
「ローレンス様だって、アンナみたいな黒髪の落ちこぼれなんかを選ぶはずがないわ。貴族の社会は才能の社会ですもの。そうよ。あんたみたいな落ちこぼれじゃなくて。私こそがローレンス様のお相手にふさわしいのよ」
私は頭に血の上った妹の諌め方を考えて、すぐにその考えを振り払った。彼女は一度、ローレンス様に無視されている。それを受けてもここまで前向きに考えられるのだから、手のつけようがない。
そんなことを考えていると、馬車が停まった。
私は一人の世界に閉じこもっていくエルザを尻目に、馬車を降りて自分の部屋に向かう。
婚姻には何が必要なのだろう。お父様は教えてくれるだろうか。
そんなことを考えながら屋敷の扉の中に入ると、一足先に屋敷に入っていた父上が重い表情のまま立っていた。
「アンナ。話がある」
「なんでしょう、お父様」
いつにも増して真剣な表情の父に尋ねると、返ってきたのは予想していない言葉だった。
「ローレンス様との婚姻を辞退しないか?」
「はい……?」
「安心しろ。理由は考えてやる。そうだな……」
父は少し考えるようにして、顎に手をあてると「そうだ!」と言って目を輝かせた。
「子供ができないという体質ということにしよう。なに、私にも医者の知り合いくらいいる。診断書くらい書いてもらえるさ。世継ぎができないのであれば、ローレンス様も婚姻を諦めてくださるだろう」
「……あの、父上。話が見えてこないのですが」
「分からないのか。やはりお前は無能だな。公爵家の娘なのだから、少しは考えてみたらどうだ? お前のように魔法を1つも使えない者を嫁に送るということが、一体どれだけの恥を重ねることになるのか、考えただけでも恐ろしい。あぁ、どうしてローレンス様はエルザではなく、アンナを選ばれたのか……」
天を仰いで、深くため息を吐いている父に対してどう返すべきかも分からずに困り果てた私は父を無視して自室に向かおうとした時に、その手を掴まれた。
「待て、アンナ。話はまだ終わっていない。私はいま、お前をどうするべきか考えているのだ」
「どうする……って」
「今からでも遅くはない。医者のところに向かおう。いや、それよりも先に幻惑師のところに言ってエルザの姿を変える方が先か。私は考えることが多いのだ。これ以上、心労を増やすようなことを……」
だが、彼が自由に言葉を言えたのはそこまでだった。
暴言を吐き続けた彼の口は強制的に閉じられており、もごもごとなにかを口ごもっていたが……それが言葉になることはない。彼の身には強力な魔法がかけられたからだ。
それの名は『操身魔法』。
人の身体を直接操る、難易度が高い魔法。
一体誰がそんな魔法を……と、驚く私の肩に手がぽんと置かれた。
「夜分遅くに失礼します。公爵」
「ローレンス様……!?」
慇懃に礼をしたのは、間違いなく先ほどまでパーティー会場にいたはずのローレンス様。なぜか彼が屋敷の中にいて、私の隣に立っている。
どうして彼がここにいるのか分からなかったが、分かったことが1つ。
父の口を封じたのは彼だ。その証拠に、魔力がローレンス様の手元で煌めいている。
「危ないところでしたね。俺が口を閉じていなければ、あなたは皇族への偽証罪として有罪判決をくだされるところでしたよ」
「ど、どうしてローレンス様がここに……」
口の開けぬ父の代わりに私がそういうと、ローレンス様は微笑んで、
「愛しの人を待ちきれなくてね。迎えに来たんだ」
「……出会ったばかりでしょう?」
「一目惚れだよ」
そういってローレンス様は続けると、父にしかけた口封じの魔法を解いた。
「俺はアンナを選んだ。他の女性じゃない。他ならぬこの人だ」
笑みを絶やしたローレンス様は何よりも真剣な表情を浮かべると、私の肩においた手をそっと背中に移動させた。その手は私の心を暖かく解きほぐして、
「公爵、あなたが心の中で何を思っていようがそれはあなたの自由だが、実際に俺の選択を邪魔しようとするのなら……俺も少しは考えないといけない」
そういって父に脅しをかけたローレンス様の横顔を見ながら、私は言葉にできない気持ちを抱えた。
しかし、そんな私の気持ちをよそにこの国一番の皇子に睨まれた父は、まるで蛇に睨まれた蛙のように震え上がり、慌てて体裁を取り戻すと、「た、大変申し訳ありません……!」とかすれた声で応えた。
返事を聞いたローレンス様は父から視線を外して、私に微笑みかけた。
「じゃあ、帰ろうか」
「帰るって……?」
「俺たちの新しい家に」
彼の瞳に飲み込まれるように私の視界がぐるりと回転すると、そこは見慣れた屋敷の入り口ではなかった。その真っ赤な絨毯に、高価な魔導具であるシャンデリアが照明として輝いている。
視線を動かせば、そこには天蓋のついた大きなベッド。
そして壁にはいくつもの過去の皇帝の姿絵が大きく飾ってある。
「あ、あの、ここは……?」
「俺の部屋だよ。大丈夫。人払いはしているから」
「で、でも……私はさっきまで屋敷の入り口にいて」
「『転移魔法』だよ。歩くのが面倒だからよく使うんだ」
そういってローレンス様は笑った。
「歩くのが面倒……」
私はローレンス様のとんでも具合に目を丸くした。
『転移魔法』を扱える魔法使いは100万人に1人の割合で生まれると言われているほどに少ない。また、生まれたところで魔法練習の事故で亡くなる割合も多いと聞く。
それなのに、目の前にいる皇子は簡単に使いこなしているのだ。
目を丸くしない方が無理というもので、
「それにしても、思ってた以上にひどいところだね。君の家は」
「そう、でしょうか。私にとっては、あれが普通なので」
「あれは異常だよ。君が平民になりたいって言うのもよく分かった。ちょっと早いけど君の問題の解決を早めておくよ」
「あ、ありがとうございます……」
私が頭を下げると、ローレンス皇子はぐったりとした様子でベッドに倒れ込んだ。
「じゃあ寝ようか」
「は、はい?」
この人は急に何を言いだしたのだろう?
私はベッドに倒れ込んだローレンス様に驚きの視線を向けると、彼はまどろみながら微笑んだ。
「夫婦になるんだから……一緒のベッドで寝るのも当たり前だよ」
「い、いえ。私はドレスのままなので、脱がないと。それにお化粧も落とさないといけないですし……」
「だったら、メイドを呼ぼう……」
すでに眠いのか、間延びした声でローレンス様はそういうと鈴を鳴らした。
少し遅れて扉をノックする音が響く。
「ローレンス様、失礼致します。あら、そちらの方は?」
中に入ってきたのは中年の女性。
大変にかっぷくがよく、ふくよかなその女性は私を見ながら首を傾げた。
「俺の……婚約者だよ。寝る、支度を……」
「承知しました」
それだけ言って本当に眠りに入ってしまったローレンス様の代わりに、彼女は私に微笑んだ。
「ローレンス様はいつもこうなんです。あちこち飛び回って、私たちに後を任してお眠りになるんですわ」
「あ、あの……。何も言わないのですか? 私がローレンス様の婚約者だなんて……」
この人たちはよく笑う。よく笑うのは、幸せだからだろう。
私はあの屋敷で笑いかけられたことなど数回しかない。
だから、思わず居心地が悪くなって私は彼女にそう聞いた。
けれど、返ってきた言葉はそれも私を受け入れてくれるもので、
「皇子が選ばれた方ですもの。あなたも素敵な方なんでしょう?」
そう言って微笑まれて、私は言葉を失った。
「さぁさ、こちらに。ドレスを脱いでしまいましょう。どうせ皇子のことだから寝間着も準備せずに連れてこられたのではないですか?」
「は、はい。何も持たずに……」
「そんなことだろうと思いましたよ。私に全てを任せてください」
そう言って彼女の手に引かれる私は……今までの生活とはがらりと変わる生活に少しだけ、胸を踊らせた。
「おはよう。昨日はごめんね。先に寝ててさ」
太陽の光が窓から差し込む中、ローレンス様は私がいる客室にやってきた。その横には、昨夜世話になったメイドも一緒だ。
「いえ、皇子はお疲れのようでしたから」
「皇子。女性に気を使わせてどうするんですか」
私の答えに、ローレンス様がメイドに叱責されていた。
それだけで、この二人がどんな関係か分かる。仲良しだ。
「……俺の朝ごはんをここに持ってきてよ。今日はここで食べたい」
「承知しました。すぐに手配いたします」
しかし、皇子の言葉でメイドは深く頭を下げて部屋を後にした。
「わ、私なんかと一緒に食べて良いんですか?」
「どういうこと?」
「ご家族で食べられたりとかは……」
「父上は忙しい方だからね。俺たちが家族で顔を合わせながら食事をするなんてパーティーの時くらいだよ」
そんなに時間が合わないんだ……と私が息を呑んでいると、彼は続けた。
「だから、いつでも一緒に食べれるね。アンナ」
屈託のない笑顔でそういうローレンス様に、私はなんと返すべきかを迷って……そっと、視線をそらした。それ以外に、応え方を知らなかった。
メイドが運んできてくれた朝食を囲んで、私たちはいくつかの話をした。
家族のこと。魔法のこと。
才能のこと。そして、これからのことを。
ローレンス様はとても優しくて、何でも笑って頷いてくれた。私はそんな彼と話しているうちに、しだいに惹かれていく自分を見ていた。ローレンス様は初めて私を1人の人間として見てくれた。私の話を遮ることなく聞いてくれて、私の意見を受け入れてくれた。
それに何よりもことあるごとに「かわいい」と言ってくれるものだから、言われ慣れていない私はその度に言葉を失って、そんな言葉を失った私を見てローレンス様はまたかわいいと言ってくれた。
1時間にも満たない朝ごはんの時間だったけど、私はその時間が永遠に続けばいいと願ってしまった。
「これからはいつでも一緒の時間を取れるんだからさ。そんな名残惜しそうな顔をしないでよ」
けれど、ローレンス様にそういって笑われてしまって……私は思わず赤面したのだ。
私とローレンス様が仮初の婚約関係を結んでから、1週間。
正式に婚姻関係を交付するための準備期間の時に、私はローレンス様に手を引かれて城の地下へと向かっていた。
長い長い、冥府の底にまでつながっているんじゃないかと錯覚してしまうほどの地下へと潜っていく最中で私はローレンス様に尋ねた。
「あの、ローレンス様。ここは……?」
「そろそろ言わないといけないと思ってね。俺が君を『魂の伴侶』に選んだ理由を」
「お城の地下にその理由が? いえ、そもそも城に地下があったなんて……」
私が知らないのは、貴族の知り合いが少ないからなのかな……なんて思っていたら、ローレンス様は笑いながら教えてくれた。
「ここは皇族の中でも、皇帝とその后しか知らない秘密の場所だよ。君が知らないのも当然だ」
「そ、そんなところに私を招いても良かったんですか!?」
「大丈夫。父上に許可はもらってるから。それに、そろそろ俺一人の力だと限界が来る頃だったしね」
「……それは、どういうことでしょうか?」
「説明するより見たほうが早いよ。そろそろ底だし」
ローレンス様が言うが早いか、先ほどまで何もなかった螺旋階段の最奥から地面がゆっくりと近づいてきていた。そしてその先には、人1人が通れるほどの小さな扉。
「この先だ」
そういってローレンス様が開いた扉の先にいる物を見て、私は思わず息を呑んだ。
狭い狭い螺旋階段を抜けた先に広がっていたのは、大きな洞窟。
淡く光る水晶が周囲に散らばっていて、地下だというのにその場所は明るかった。
でも、息を呑んだのはそれが理由じゃない。
その洞窟の中心には水晶に閉じ込められた巨人が眠っていたのだ。
おとぎ話でも聞いたことがない存在に、私はしばし言葉を忘れ……たっぷりと時間を要した後に、ようやく口を動かせた。
「……な、なんですか。これは」
「『邪神』って言われてる。初代皇帝が城の地下に封印して、俺たちがその封印を代々守ってきたんだ」
「では私を『魂の伴侶』に選んだのは、この封印を続けるため?」
「正解。やっぱりアンナは頭が良いね」
そう言ってローレンス様は私の手を離して一歩前に進んだ。
「この封印が弱くなると数え切れないほどのモンスターがこの国を狙ってくる。だから、封印を弱らせないように定期的に封印をかけ直す必要があるんだよ。そのためにアンナの力が必要だったんだ」
「で、でも……。私は、何も……」
今まで無能と呼ばれ続けていた私の力が必要なんて言われても、どうすれば良いか分からなくて私は戸惑った。
「大丈夫だよ、アンナ。まだ君の出番じゃない。俺が封印をするから、そこで見ていてほしいんだ」
「わ、分かりました」
「好きな人に応援されると力も倍増するしね」
いつものように本気なのか冗談なのか分からないことを言って、ローレンス様は地面に描かれた魔法陣の中心に立った。そして、いつもと違って真剣な表情を浮かべると……そのまま顔を上げた。
「……まずいな」
「どうされましたか!?」
「封印が思ったより弱まってる。今日の封印で1ヶ月は持たせるつもりだったんだけど……これじゃあもって1週間だ」
ローレンス様は難しい顔を浮かべたまま、魔力を精緻に練っていく。それはたんぽぽの綿毛を織って一枚の服を作るよりも遥かに難しい作業。見ているだけで私も手に汗を握ってしまう。
封印作業はいったいどれだけかかるのだろう。
何もできない私はぎゅっと手を握りしめて、その光景を見ていることしかできなくて……思わず視線を上げたその瞬間、私は思わず叫んでしまった。
「ローレンス様!」
「……どうしたの!?」
「『邪神』の目が!」
目をつむったまま氷漬けにされているはずの『邪神』の目がぼんやりと開かれているではないか。
「……ッ! しまった。ゆっくりしすぎた。急いで封印をしないと……ッ!」
だが、不幸なことはそれで終わらなかった。
『邪神』の目がまっすぐと私とローレンス様をねめつけると、その口角が持ち上がって……嗤った。
その瞬間、ぐるり、と私の後ろの世界が歪むのが分かった。
そして、その歪みから吐き出されたのは荒んだ金の髪の少女。
肌は荒れて、痩せこけている。だけども、目だけが爛々と輝いていて、とても不気味だった。
「『転移魔法』だ! 逃げろ、アンナ! こいつ、俺たちの邪魔を……ッ!」
ローレンス様がそういって邪神を睨んだ瞬間、『転移魔法』で飛ばされてきた少女が口を開いた。
「……アンナ?」
その声を、忘れるものだろうか。
私の身体が思わずこわばった。
そして、恐る恐る尋ねた。
「……エルザ?」
そこに居たのは、間違いなく私の妹だった。
けれど、あの家で蝶よ花よと苦労すること無く育てられた妹の姿はそこになかった。ひどく見すぼらしく、まるでゴブリンのように醜くなった少女がいた。
「こんなところにいたのね、アンナ。あんたのせいで、私の人生は狂ってしまったの。あんたのせいよ。あんたのせいで……!」
「な、何を言ってるの……?」
「あんたがいなければ。あんたさえいなければ……!」
エルザは手負いの獣のようにふらつきながら前に踏み出すと、手元に炎の球を生み出した。それを見て、私はぞっとした。簡単な魔法だが、魔法が使えない私にはそれを防ぐ術がないのだ。
エルザを落ち着かせないと……!
「落ち着いて、エルザ。どうしたの? 何があったの!?」
「うるさい! あんたが生きてるから私はこんな目にあってるの! あんたさえ死ねば、あんたさえいなければ私はっ!」
そういって手元の火球に魔力を集めていくエルザ。
「逃げろ、アンナ! 『邪神』の手によって精神が歪められてる!」
「逃がすわけないでしょう!」
全ては一瞬だった。
逃げようと背を向けた私。
火球を放ったエルザ。
そして、私を突き飛ばしたローレンス様。
「ローレンス様っ!?」
エルザの火球は一瞬で駆け抜けた。
その途中にあったローレンス様の身体を貫いて。
ばず、と重たい音がローレンス様の身体から響いて、どろりとした温かいものが地面にこぼれていく。それでも、ローレンス様は私を見ながら心配そうに聞いてきて、
「け、怪我はないか……」
「私の心配は良いです! ローレンス様、血が……!」
左胸を貫かれたローレンス様は、ひどく苦しそうに笑った。
「アンナに怪我が無いなら……良かった」
「喋ってはダメです。血を止めないと……」
「……無駄、だよ。止めたところで……俺は、助からない」
「なら、どうすれば……」
「俺の命で、この封印をより強固にして……君の妹も、止める」
「そんな無茶なこと……」
「できるさ……。俺には、アンナがついている」
ローレンス様が虚勢を張っているのは、明らかだった。
彼はこんな時でも自分を不安にさせないために、強がっているのだ。
「それに、君をここに連れてきたのは……俺の、せいだ。俺が守らないと……」
だが、ローレンス様の身体を再び炎が貫いた。
「どうして思いつかなかったのかしら。最初から、こうしていればよかったんだわ」
皇子を撃った狂人はそう、うそぶく。
「そうだわ。皇子が私じゃなくてアンナを選んだから、こんなことになったんだわ。愚かな人。死ねばいい。みんなみんな死ねばいい。私が一番になれないなら、死ねばいいんだわ」
エルザは私を無視して、ローレンス様を睨む。
再びその手に魔力が集まる。炎が熾る。
「ローレンス様!」
思わず私は倒れたローレンス様に手を伸ばした。
彼の血で私の手と服が真っ赤に染まっていく。
ゆっくりと、でも確実に彼の体温が失われていく。
死ぬ。ローレンス様が死ぬ。
初めて私を1人の人間として見てくれた人が、どんなときでも笑顔を絶やすことのない優しい人が、私のせいで死んでしまう。
『……だめ』
それは、願いだった。
他の誰にも負けないほどの、強い願い。
『死んだら、だめです……! ローレンス様』
だから、世界はそれに応えた。
まるで時間が逆回しされているようだった。
ローレンス様の身体から、何かが2つ抜けていくと傷口と服がふさがった。
そして大きく咳き込むと、傷跡が何もない自分の胸を見下ろして首を傾げた。だが、すぐに合点がいったのか、深く頷いた。
「な、なんで傷が治るのよ! あんたは魔法なんて1つも使えないじゃない!!」
最初に声をあげたのは、エルザだった。
だが、それが何なのか私にだって分からない。
けれど、ローレンス様の傷が完治したことは分かった。
傷が治ったばかりのローレンス様は、先ほどまで死んでいたとは思えないほどに顔色が良くて……呆れたようにつぶやいた。
「……本当に、公爵家は知らなかったのか。『奇跡』の担い手を」
「何のこと!? アンナに何をしたのよぉ!!」
そういって火球を作ったエルザだったが、その身体は金縛りになったように硬直すると地面に倒れた。『操身魔法』だ。
「悪いが今は身体の調子がすごく良いんだ。君を相手にしてる暇は無いよ」
ローレンス様はそういうと、邪神を見た。
邪神の顔は悔しさに染まっており、
「眠れ」
ローレンス様の一言で、再び封印の中に閉じ込められた。
私は全てが終わるのを見届けて、急に緊張の糸が思わず溶けてしまい、
「ごめん、心配をかけたね。アンナ」
「良かった。ローレンス様が、無事で……」
こちらに駆け寄ってくるローレンス様を見つめながら、私は気を失った。
目を覚ましたとき、私はベッドの上にいた。
すっかり部屋は暗くなっており、部屋は魔導具の光でぼんやりと照らし出されていた。私が身体を起こそうとした時、ベッドの横にいた人がはっと目を覚ました。
「アンナ、大丈夫!?」
「ローレンス様。私は……わぷ!」
ローレンス様に抱きつかれて、思わず私は息を漏らした。
「だ、大丈夫ですよ。ちょっと眠くて……気を失っただけですから。それよりも、ローレンス様の方こそ、ご無事なんですか?」
「あぁ、もちろん。アンナのおかげだよ」
「私のおかげ……? いや、でも私は何も……」
私がしたことは、ただ祈っただけだ。
ローレンス様が死なないようにと。
「いいや。間違いなく君の力――『奇跡』だよ」
「奇跡、ですか?」
「そう。俺たちが使う魔法とは、その術理も結果も全てが違う。本当に限られた人物しか使うことができない……それが奇跡だ。アンナ。君は、その使い手なんだよ」
「そんなことが……」
ローレンス様がこんなことで嘘をつくような人ではないことなど百も知っているが、それでも今まで魔法が使えなかった私が『奇跡』を使ったなんて……とてもじゃないが、信じられない。
「『奇跡』を使うには強い願いが必要なんだ。本当に公爵家で教えていなかったんだね」
「……きっと、父は知らないと思います。私も初めて聞きましたから」
「魔法が使えないのであれば、それを疑うべきだと俺は思うんだけど……。けど、それをいま言ってもしょうがないか」
そう言ってローレンス様は微笑むと、ベルを鳴らした。
「お腹が空いているだろう。今、夕食を持って来させるから」
「あの……。ローレンス様」
確かにお腹は空いていたが、今の私にはそれ以上に重要なことがあった。
「エルザは……どうなりましたか」
「逮捕されたよ」
「……そう、ですか」
「邪神の影響とはいえ、皇族を撃ったんだ。今は取り調べを受けているが……どうにも、君の両親も捕まりそうでね」
「父と母が、ですか?」
「君の妹を監禁して……どうにも“君”にしようとしていたというんだ。洗脳、監禁。どれも立派な犯罪だよ。ハルトラシア家は終わりだろうね」
「…………」
私はどんな顔をすれば良いか分からなかった。
あれだけ無くなってほしいと思っていた両親の呪縛が無くなったと思ったら、その流れで家まで無くなってしまったのだ。
「父上も困っていたから、君の『願い』を話したら快く引き受けてくれたよ。明日から君は誰にも縛られない自由の身だ」
「……自由、ですか」
「あまり嬉しくなさそうだね」
私は首を横に振った。嬉しくないわけではない。
ただ実感がわかないだけで。
「俺とのお願いを果たすよりも先に、君の願いを叶えることになっちゃったけど、それでも俺と結婚してくれるかな? いや……この聞き方は卑怯か」
ローレンス様は優しく微笑むと、天を仰いだ。
そして、意を決したように真面目な顔になって私を見つめた。
「俺は、アンナと結婚したいんだ」
「……『魂の伴侶』として、ですか?」
「違う。そんなものを抜きにしてもだよ」
彼は私の父を前にしたときのように毅然と、そしてその時にはなかった大きな優しさを持ってそう言ってくれた。
「初めは気の合う人だと思ったんだ。同じように人混みが苦手で中庭にいて……月の光に照らされて、綺麗な人だと思ったんだ。あわよくば仲良くなれれば良いなと思ったんだ。これは本気だよ」
「……あの時に、ですか?」
「一目惚れだって言っただろう? あれは嘘じゃないんだ。でも、あの時は本当に『魂の伴侶』としか君を見ていなかった。やがて奇跡を使えるようになる君と一緒になれば、『邪神』も封印できる……そう思ったんだ」
ローレンス様はそういうと、私の隣に腰掛けた。
「でも、今は違う。君の妹に襲われた時、君は俺を見捨てなかった。最後まで一緒にいてくれた」
「違います。あれは、私のせいで狙われたから……!」
「そんなの些細な問題なんだよ、アンナ。俺は君と喋るのが楽しいんだ。君と一緒に歩くのが楽しいんだ。共に食事をするのが楽しいんだ。俺は君のことが好きなんだよ」
「……ローレンス様」
それは、私だって同じだ。
初めて私を、私として見てくれたのがローレンス様だった。
いつだってローレンス様は私のことを褒めてくれた。彼と話すと時間を忘れることができた。
「だから、俺は君と結婚したいんだ」
私は思わず言葉を失った。
そんなにまっすぐ想いを伝えられたのなんて初めてで、なんて言えば良いのか。どう言葉にすれば良いのか分からなかったのだ。
困惑している私に、ローレンス様はそっと手を差し出して、
「俺と結婚してほしい」
何かを言わなければいけないと思った。
彼の想いは、彼だけのものではないのだから。
でも、言葉にならなかった。
だから、その代わりにその手を取った。
暖かいその手を握った時に、私の口は氷が溶けたように動き出した。
「……よろこんで」
私がそう言うと、ローレンス様は立ち上がって私をぎゅうっと抱きしめた。
「苦しいです、ローレンス様」
「アンナへの気持ちだよ」
ローレンス様はそう言って全然離してくれなくて、
彼が呼んだメイドは、朝になるまでやってこなくて、
月が大きく昇ったその夜は、私たちだけの夜だった。