聖女でしたが、婚約破棄をされて闇落ちしたので、全て手遅れですっ!
「今日、ここに来たのは他でもない。ミア、お前との婚約を破棄する」
私の婚約者、バリー皇太子が声も高らかに言い放った。
彼の背後には、衛兵が十人程度控えている。
さらに純白のドレスを身につけた、ヘザー公爵令嬢の姿が見える。何しに来たんだろう?
ここは私の居所と指定された、皇城西側の塔。
住んでいるといえば聞こえが良いが、自由に外に出られるわけでもなく実質的にはここに幽閉されている。
大地の聖女として。
「ミア、理由は分かっているな?」
「いえ、全く分かりませんけど?」
「じゃあ、言ってやろう。お前は聖女として認定され公務を行っていたが、その立場を利用して私と婚姻し、国を乗っ取ろうとしていたのだ」
「国を乗っ取る? 何のことですか?」
初耳だ。
孤児院にいた私を強引に連れ出したのはあなた方、皇族の者たちだ。
昔から続く仕来りだからと、欲しくもない聖女の称号を与え、私の意思に関係なく婚約の手続きを進めたのもそう。
皇城の塔を神殿に見立て私を幽閉し、行動を制限したのもそうだ。
「しらばっくれるな。その上、《聖女の儀式》の手を抜き、皇国を疲弊させようとしたことも分かっている!」
「いいえ。《聖女の儀式》は気を抜くと死を招くほど、大変過酷な儀式です。手を抜くことなど不可能です」
「嘘をつけ」
聞く耳を持ってもらえない。
はあ……私は心の中で大きな溜息をついた。これは、何言っても無駄なやつだ。
目の前で行われている全てが、バリー皇太子の筋書き通りなのだろうか。
「今年は農作物の収穫量があまり多くないという。全てミア、貴様が怠けていたのが理由ではないか?」
「多くないと言っても、私が聖女になる前と比較すると、見違えるほど豊かになっているはずですが?」
「ふん、黙れ!」
言い争う私たちの間に、皇太子の横にいたヘザー公爵令嬢が口を挟む。
「ミア様。見苦しいわ。今後はあたしが《聖女の儀式》を執り行います。安心して」
「あなたは聖女だというの?」
「ええ。あなたと違い、癒やしの能力に長けた、聖属性の聖女だと認定されました。無垢な白き聖女として、あたしが今後儀式を執り行います」
私を見下すようにしているヘザー公爵令嬢は、美しいシルバーブロンドをかきあげ自信満々に言った。
彼女はバリー皇太子にしなだれかかる。まるで私に見せつけるように。
二人の様子を見て私は思う。無垢って本当なのか?
「——お前はこの可愛らしいヘザー令嬢をいじめていたというではないか?」
「うーん、初耳ですね」
「うるさい!」
バシッ。
うっ……。
予想もしない大きな衝撃にフラつき、思わず膝を突いた。
視界が一瞬歪み、右頬に痺れるような痛みが広がる。
次第にじんじんとした痛みに涙がこぼれる。
バリー皇太子が私の左頬を叩いたのだとようやく理解する。
さっきまで懸命に口答えしていたけど、この一撃で気分がへこむ。
口の中に鉄の味が広がり、頬の裏側にも鈍い痛みが伝わってきた。
ああ、もうこの人たちに何を言っても無駄なのか。
「お前を国外追放する。行き先はこの世の地獄、クロサンドラ王国だ。あの国は聖女をご所望のようでな。
幸い、お前はまだ無垢な身体であろう? それが役立たずの薄汚い土属性の聖女だろうと、さぞ喜ぶだろう!」
バリー皇太子は目配せをする。
すると、屈強な衛兵たちが迫ってきて私の腕を掴み、両腕を拘束して自由を奪った。
もう……。
今まで身を削って《聖女の儀式》を行ってきたのに、その結果がこの仕打ちとは。
でも、儀式のためだけに生きる状況から開放されるのなら、それも悪くないかもしれない。
だいたいヘザー令嬢は儀式の本当の内容を知っているのか?
聖女の自らの血と身体を捧げる過酷な儀式。
そのため代々聖女となる者は例外なく短命だという。私だって、きっとそうだ。
でも、私は《聖女の儀式》を行わなくてはいいと宣言されたんだ。
思わず口元がほころぶのを隠す。
また殴られでもしたら、たまらない。
ヘザー公爵令嬢は、勝ち誇るようにして腕を組み私を見下すような視線を向けてきていた。
その笑顔が、さらに歪まないと良いのだけど。
☆☆☆☆☆☆
私は兵士と共に馬車に乗せられ、国外追放——そしてクロサンドラ王国へ連行されることになった。
クロサンドラ王国は、今いるモリア帝国の南部にある。そこは人間が住むエリアの最南端でもあった。
さらに南に行くと、魔物の住む世界——魔界——だと言われており、クロサンドラ王国は魔物からの侵攻を抑える緩衝地帯のような役割を果たしている。
バリー皇太子の顔が頭にちらつく。
ニヤリと口角を上げ「クロサンドラ王国に」と言った、歪んだ顔が。
クロサンドラ王国——。
魔物からの襲撃が頻繁にあり、時に国土に侵入することもあるという。
言葉も通じぬ魔物たちに蹂躙され、かの王国はいつも疲弊しているとの話だ。
そんな状況を打開するため、クロサンドラ王国は各国に聖女の派遣を要請していた。
バリー皇太子にとって「いらないモノ」となった私を処分するのにちょうど良かったのだろう。
土属性の聖女の儀式は、大地へ干渉し、活力を与え作物の成長を早めたり、農作物の病気や外敵から守る効果があった。
その代償として、供物として聖女の血液を捧げるのだ。
他の属性だと別のものを捧げるのだろうか? 実は良く知らない。
馬車に揺られること三週間。
帝国の馬車は特別な魔法により揺れも少なく快適だった。
馬や兵士を交代しつつ、夜以外は不眠不休で走り続ける馬車のなかで、私はぼーっとして過ごす。
手足に枷はない。その代わり、【強制】の魔法をかけられ自由に行動ができなかった。
いざとなったら逃げてやろうとも思い、聖女持つ解呪の魔法を用いたものの、外すことができなかった。
チッと私は舌打ちをする。
沈みゆく夕日を見ながらぼけっとしていると、同乗している帝国兵士の声が聞こえてくる。
「もう夕暮れ時か。間に合いそうか?」
「ああ。忌々しい夜め……移動のたびにビクビクしなきゃならんのは参るな」
夜になると、誰も、何も見えなくなる。
そのため、日が暮れる前に宿営地を設け、夜明けと共に移動を始める。
「火を焚いても、ランタンを用いても狭い範囲しか見えない。もっと明るいものが欲しいな」
「そうだよな……皇都の中心部でさえ、どんなに松明を焚こうと真っ暗だ」
古い書物によると、夜の空には白い月やまたたく星が見えたらしい。
でもそれは、創作とされている。現実は夜の空は漆黒に覆われていて、何一つ見えない。
「なあ、聖女さん……いや、今はただの平民の女か。
もし生きながらえてこっちに戻ることがあれば、クロサンドラ王国の土産話を聞かせてくれよ?」
兵士はまるで私を哀れむように言う。
クロサンドラ王国。私がこれから連行される、過酷な地域。
噂でしか語られないため、それが本当かどうか知っている人は少ない。
「おいおい。そら無理だろ。いくら聖女をご所望とはいえ、役立たずだと分かったらすぐ殺されるだろ」
「残虐なクローレンス王のことだし、そうなるか」
私は聖女としての可能性がある、とだけ伝えて引き渡されることになっているようだ。
もし聖女でなくても責任は取れないとも。
一人の兵士が私の身体に視線を向け、なめ回すように見渡した。
しかし、心底つまらなそうな顔をする。
「この女がここまで貧相とは……楽しむことも出来ねえな。殿下は何を食わしていたのやら?」
「やめとけ。何かあってみろ、俺たちも無事じゃ済まんぞ」
はあ、と私は心の中で溜息をついた。
何をされるにしても、今までの《聖女の儀式》をして過ごす生活よりマシじゃないか、と。
頬を打つ男がいるところにいるよりは……と。
「そうだな。あのコワーイ国のことだからな」
軽口を叩いた兵士は肩をすくめる。
クロサンドラ王国の実権は血も涙もない、冷酷なクローレンス王子が握っているという。
彼は逆らう者を八つ裂きにしたり、哀れな者を拷問で血を抜くだとか、少しずつ抜き干からびるまで放置するだとか、人の血を啜るとか……。
聞く噂はどれもおぞましいものだった。
クロサンドラ王国は野蛮な国で、犯罪も多くまともに生きることが難しいとの噂だ。
だけど私は思うのだ。
そんな国で辺境が維持できるのか? と。
噂は噂であり、現実は違うのでは? と希望を抱いてしまう。
☆☆☆☆☆☆
兵士たちは国境を超えた先で私を降ろした。
今いるのは森の中。少し先にクロサンドラ王国の紋章を掲げる馬車が見える。
私を連行してきた兵士たちは、クロサンドラ王国の男性に私を引き渡すと書類のやり取りをし、ぴゅっと逃げるように去って行った。
あのさあ……。
まあいいか。
これからはクロサンドラ王国の人たちのとのことを考えよう。
多分、私はあの豪華な馬車に乗るのだろう。
初手で殺されないように……とりあえず媚びていくのがいいのかな?
なんとか愛想良く振る舞っていけば生かして貰えるかもしれない。
——本当に?
もし噂通りであれば、ろくな待遇は期待できないけど。
「はぁ……」
「ミア様ですね。クローレンス王子殿下がお待ちです。こちらへ」
頭の中で今後の方針を考える私に、話しかける男性がいた。
黒を基調とした執事のような服装をしている。
所作も整っていて、相当な身分であることが窺える。
もっとも、私はあまりそういった教育を受けてこなかったのでどうしていいのか分からない。
とりあえず返事をしよう。
「はっ、ハイッ」
「ふふっ。大丈夫です。何も心配することはありませんよ」
彼は私の様子を察したのか、優しく微笑んでくれた。整った顔立ちから不思議と温かい空気を感じる。
もしも噂通りだったと警戒していた私の心を溶かす。気持ちが軽くなる。
それでも、媚びようとする私の行動は変わらない。
「あ、あのっ、私……聖女として頑張りますので命だけは……何でもしますので」
私の言葉に、彼は目を見開き、黙り込んだ。
うっ。さすがにやりすぎたか?
「……侍女を呼びます。困ったことがあればお伝えください。私も力になりますので。怯えなくても、大丈夫ですよ」
彼は温かい目で見つめ、私を案内してくれたのだった。
☆☆☆☆☆☆
私はクロサンドラ王国首都にある城に着くと、早速王子と謁見することになった。
緊張はしない。
ただ、酷い目に遭うならできれば痛くなければ良いなと、ただそれだけを思っていた。
クローレンス王子は怠そうに椅子に座り、頬杖を突いている。
長い黒髪で絹のような白い肌、整った顔立ち、チラリと見える牙に金色の瞳……?
その瞳はどことなく怠そうにしている。
通された謁見の間で、あのとんでもない噂のクローレンス王子の前に跪く。
「お前があのバリーが寄越したという聖女か」
「は、はい。私は聖女……ミアと申します」
「ふむ」
彼は、私の前身に視線を巡らせた。
私の身体をジロジロと見てきた兵士と違う。
まるで何か人形を、モノを見るような、そんな冷たい視線だった。
「チッ」
「……ッ!」
突然の舌打ちに、ビクッとしてしまう。
やはり、私はあの兵士たちが言ったように処刑されるのかな?
やだなぁ。噂はウソであって欲しいけど。
しかし、クローレンス王子殿下は予想外のことを口にする。
「聖女、今までどうだったか知らないが、これからは毎日ちゃんと食事をとれ。
この後すぐに準備させるからしっかり食べろ。食べられないものがあれば侍女に言え」
「えっ?」
突然の発言に意味が分からず聞き返す。
私のこの見窄らしい身体を見て、気遣ってくれたのだろうか?
「食事ですか? どうして?」
クローレンス王子殿下は私の問いに答えてくれなかった。
「休養もしっかりとれ。話はそれからだ」
「は、はあ」
「……それにしても」
クローレンス王子殿下が私の胸の辺りに目をやる。
「クソが」
再びの罵りに私はびくりとしてしまう。
そんな私の様子を見ながら、クローレンス王子殿下はパチリと指を鳴らした。
次の瞬間、ガシャンという音が頭に響き、身体にかけられていた枷が外されるような衝撃があった。
【強制】の魔法が壊されたみたいだ。身体が軽いような気さえする。
「えっ?」
「下らん呪いだ」
クローレンス王子殿下は、忌々しげに今鳴らした指を見つめている。
見ると中指の付け根に赤い線が見えた。どうやら切り傷ができ、赤い血が流れ出ている。
【強制】の魔法を壊したのが理由なら、私のために怪我をしたことになる。
聞いていた噂と随分違う展開だ。
今はきっと、このまま、何か言われるまでじっとしているのが正解なのだろう。
しかし、ここは媚びる……のではなく、聖女の力を見せるチャンスかもしれない。
「殿下、失礼しても?」
「ん? あ、ああ……?」
私は思い切って駆け寄り、彼の腕を取り血の滲む手のひらに私の手のひらを重ねる。
すると僅かに私の身体が輝く。
振り払われることも覚悟したけど、クローレンス王子殿下は私の放つ光から目が離せないようだ。
次第に傷が塞っていき、発光も緩んでいく。
「ん?」
癒やしの手の発光は白色なのに、紫色が混じっている。
何かおかしいけど、気にしないことにした。実際に傷はふさがっていっているのだから。
さっきまで怠そうにしていたクローレンス王子殿下は目を見開いて私を見つめている。
「……これは?」
「これは、【癒やしの手】と呼ばれる傷を治す聖女の能力です」
聖女の能力というのは嘘じゃない。
でも、この程度なら下級の神官でも行えるし、聖属性の聖女であればもっと強い治癒の力がある。
あのヘザー令嬢が聖属性の聖女というのが本当なら、欠損した手足さえ再生できるはずだ。
「ふむ。赤い血を流し、聖女の力で癒やされるか……ククッ」
クローレンス王子殿下は、やや自嘲的な笑みを浮かべ手のひらを見つめた。
「人間のフリをして何になる?」
人間のフリ。自分が人間じゃないつもり?
でも、どう見ても彼は普通の人間に見え……。
いや、違う。
瞳の中心の黒目の部分が普通の人より大きいような……?
それに口を開くときに見え隠れする牙。
「今日はもう下がってよいぞ。聖女」
クローレンス王子殿下はそう言って、虫を払うように手をひらひらとさせた。
よかった。処刑は免れたようだ。今のところ酷い目に遭うことなさそうだと安堵する。しかも、ちゃんとした食事をたくさんいただけそうだ。
と、思わず口元が緩んだのも束の間。
下がろうとした私に声がかけられる。
「おっと、一つ忘れていた。十分に体力が回復したら、大地の聖女其方に《聖女の儀式》を行ってもらう」
「えぇぇ? やだ……」
せっかく儀式から解放されたと思ったのに、またやるの?
浮ついた気持ちが油断を呼び、私の口から本音がこぼれた。
もっとも、私が求められた理由を思えば当然のことだ。
はっと気付き、慌てて自分の口に手を当て塞ぐ。
私はうつむきつつ、気分を害したかもしれないクローレンス王子殿下の顔を上目遣いで見た。
「嫌なのか……ふふっ」
つまらなそうにしていたクローレンス王子殿下の表情がわずかに変化し、目元と口元が緩んでいる。
咎められなかったのはよかったけど、その微笑みは何?
もしかして私が嫌がったのを喜んだの??
周囲の侍女や騎士、執事などがクローレンス王子殿下の様子を見てざわついている。
驚きの表情に混じって、安堵するような顔をする人もいる。
まるで、何か変わったものを見たようなその様子に、私は強い違和感を抱いた。
☆☆☆☆☆☆
二週間後。私はまだ聖女の儀式を行っていなかった。
待っていたのは、まるで病気の療養をするような生活だった。
クローレンス王子殿下の言っていたとおり、美味しい食事をたくさん用意され、それが終わると身を清めるために湯に浸かる。
城の外には出してもらえなかったものの、緑の庭園を散歩し、お茶を飲むことが許された。お菓子だって食べる。
いつも侍女たちが甲斐甲斐しく私を世話してくれた。
彼女たちの瞳もまた、黒目の部分が私より大きい。特に日が暮れ夜が近づくとより大きくなっていくようだ。
また、王子殿下ほどではないものの、時折牙のようなものも見える。
その上、いくら働いても疲れる様子のない侍女たち。私は彼女らに圧倒され続けていた。
いや、それだけではない。
時折見える、執事や騎士たちも同じような特徴を持っている。
私のような瞳や、歯並びの人はいるのだろうか?
私がこの王国に来て二週間が経った頃、再び私はクローレンス王子殿下と接見することになった。
しかし、その時間は奇妙なことに外が暗くなってからだった。
「ふむ……」
殿下は跪いた私を見るなり、口元を緩める。
とはいえ、もう夜だ。
明かりがあるとは言え、室内は薄暗い。私が見えているのだろうか?
「なるほど……顔色もよければ、頬に肉が付いている。ふっくらしてきたな」
そう言われ、私ははっと自分の自分の頬に手を添えた。それって太ったってこと?
いや、それよりもクローレンス王子殿下はこの薄暗い中で私の顔色が分かるみたい。随分、目が良いんだな。
「侍女たちはよくしてくれているようだな? 身体の方にも、十分に肉が付いた」
それにしても……言い方!
女の子に言うことかしら?
とはいえ、彼の言葉に間違いは無く、痩せ細っていた頃の私はどこにもない。
上半身も下半身も、今までかつてないくらいにふっくらしたように思う。
とはいっても、たかだか二週間。私の基準はともかく、侍女たちによると「まだまだ痩せている方」とのこと。
個人的にはこれくらいスラッとした身体の方がいいと思うのだけど。
「食事も大変美味しくいただき、感謝しています」
「そうか。侍女らには褒美を出すとしよう」
ざわっとする謁見の間。
殿下は気にもせず話を続ける。
「ところで聖女、お前の元いた国——モリア帝国から使者だ。聖女に戻って来て欲しいと言っている」
「えっ」
私は困惑した。どうして? なぜ?
モリア帝国に戻る選択なんて、考えたことが無い。
クロサンドラ王国での生活にも慣れてきたし、特に美味しい食事が食べられるこの生活は手放したくない。
いや、食事だけじゃないけど……侍女の方々にはとても良くしてもらっている。
まだ外には出させてもらえないけど、いずれそのような機会もあると聞いた。
城の塔に軟禁されていたのと雲泥の差だ。
これなら、正直多少辛くても聖女の儀式を行ってもいいかも、そう思い始めていた。
「戻るのは嫌か?」
「は……い。嫌です」
促されたとは言え、あっさりと拒否の言葉を言えたことに驚く。
私の返事を聞いたクローレンス王子殿下は、私の後ろに向かって言う。
「だそうだ。そう伝えてくれ」
「はい。殿下」
声に驚き振り向くと、そこには精悍な二十代くらいの騎士が跪いている。
彼が身に付けている鎧には、モリア帝国の紋章が描かれている。
使者なのだろう。しかし、どうにも様子がおかしい。
「どうして聖女を返せと言うのだ?」
「帝国は不作に喘いでいます。国内の食料品の価格が暴騰し、各地で暴動すら起き始めています。なぜなら、鳴り物入りで新聖女と認定された公女が《聖女の儀式》をまともに行えないからです」
やっぱり。
聖属性だろうと大地を癒やす儀式を行うことはできる。でも、あの過酷な儀式に耐えられなかったのだろう。
一度でも、皇太子が私の儀式や消耗して疲弊しているところを見ていたら、認識も違っただろうに。
無関心ここに極まれり。
そんなことをしておきながら、今さら、戻って来いなんて。
「どう出る?」
「恐らく、何度か使者を寄越した後、焦れたバリー皇太子は兵を出すかもしれません。あるいは、工作部隊を。それでもダメなら、皇太子自ら、聖女ミア様を連れ戻しにやって来るでしょう」
「皇太子自ら?」
「はい。バリー皇太子は、聖女ミア様が自分に好意を抱いている、だから自分が声をかければ戻ってくるはずだ、と考えているようです」
「そうか。では『戻らぬ』と伝えよ」
「はい。承知いたしました。クローレンス殿下」
彼は立ち上がり一礼すると、謁見の間を去って行った。
間違い無く、彼はモリア帝国の使者だ。しかし……クローレンス王子殿下に忠誠を誓うような態度に加え、バリー皇太子の情報を簡単に漏らす様子は、なんというか……。
「あの、彼はいったい何があったのですか?」
「ふむ、聡いな。先ほどの騎士は、既にこのクロサンドラ王国の一員となった」
「え? 一員って?」
「聖女、これから儀式の間に来い」
儀式の間。いよいよ、あの聖女の儀式を行うということなのだろうか?
でもその前に、せめて名前で呼んで欲しいな。
「は、はあ……」
「帝国に戻りたくないと言ったな。もう一度その真意を問うことにする」
☆☆☆☆☆☆
私は儀式の間に通された。
「ふむ……来たか。いや、跪く必要は無い。ここに来い」
その部屋は非常に質素、というか何もない部屋だ。壁も一方はなく、柱と柱の広い隙間から、外の景色が見えた。
日が沈み時間が経っているため、相変わらず外は真っ暗で闇に包まれている。
私は、部屋の中央に立つクローレンス王子殿下の近くまで歩いて行く。
「今日は月が美しい。銀色の月が——」
何を言っているんだろう?
クローレンス王子殿下が見上げる視線の先には、ただ暗闇があるだけなのに。
「月? 私には見えませんが……真っ暗で……暗闇で……」
殿下は宙を彷徨う私の手を取る。
「俺の力を半分授けよう。戻らないと決心した聖女に、我が王国の一員になる資格を与える。これから、吸血の儀式を行う。よいな?」
急にそんなことを言われても、私は困らなかった。
正直もう、戻りたくはない。
ここにいたい。そもそも、あのような暴力をふるう男の元に戻るなど考えられない。
だったら、返事はただ一言だ。
吸血の儀式って何だろう? とは一瞬思ったけど。まあいい。
「はい」
クローレンス王子殿下は僅かに口元を緩め、私の手の甲に顔を近づけた。
彼の金色の瞳が輝き、瞳孔が大きくなる。少し開いた彼の口元から鋭い牙が見える。
不思議と、怖いとは感じない。
ただ私が抱いたのは——好奇心。それだけだった。
殿下の牙が私の手の甲に突き刺さる。
「うッ……」
ちくりとした痛みに、私は声が漏れそうになったので空いた手で自分の口を塞ぐ。
しかし、とても甘い甘美な快感が、手の甲から全身に広がった。
「んんっ」
今まで出したことのないような、変な声が私の鼻奥から漏れた。たまらず目を閉じる。
な、何……この感覚は……?
足から力が抜け、倒れそうになったので思わず手を伸ばした。
掴めそうなので、思いっきり掴むことで、辛うじて倒れることは避けられた。
甘い蕩けるような感覚は去っていき、クローレンス王子殿下の口元が私の手の甲から離れる感覚があった。
「目を開けてみろ」
相変わらず、私の手をつないだままだった。もう片方は、彼の胸元の服を掴んでいる。
一瞬紫色の光が残っていたがすぐ消えていった。
前にも見たような気がするが、一旦後回しにしよう。
私は、空に視線を送った。
「…………赤い月が見えます」
今まで暗闇に覆われていた暗闇の空に、小さな月が浮かんでいた。
初めて見るのに、それが月だという確信がある。
空を見渡すと、所々に薄暗い光の点がある。
弱々しく瞬くそれは、きっと星なのだろう。いつの間に現れたのだろうか?
「……」
突然の視界の変化に、言葉を失う。話に聞いていたのと違い、月は赤く星は弱々しい。
しかしそれでも、今まで見えなかったものが見えている。
部屋の中が随分明るくなっている。クローレンス王子の表情も分かるくらいに明るくなっている。
「これが、儀式?」
「王族に伝わる儀式だ。本来は首元に牙を突き立てるのだけど、それは体力が完全に回復してからだ」
「……はい。では、先ほどの使者も殿下が?」
「いや、他の者が行った」
じゃあ、どうして私には殿下が手を下したのだろう?
聞いても答えてくれない予感がする。
でも、気になる。
「じゃあ、私はどうして殿下自ら?」
「さぁな……初めてだったから、実験だ」
「実験」
えぇ……という私を見て、クローレンス王子殿下はまた口元を緩めた。
「その様子だと、意思も維持しているな。気分はどうだ?」
「悪くありません。いえ、むしろ全身から力が湧くような……そんな感覚さえあります」
「ふむ、成功か。眷属化したな」
殿下は、ちなみに、と前置きしてから続ける。
「先ほどの使者は力を与えた者の僕となっている。僕になれば主に逆らうこともできないし、従順に従う。自由な意思が一部奪われる」
よく考えたら怖いことをさらっと言った。
「では、私はどうして僕にならなかったのですか?」
「お前が男を知らないからだ」
うん?
どういう意味なんだろうと考え始めてすぐに気付く。
あっ……なるほど……と。
察した瞬間、私は頬が少しだけ熱を持つのを感じた。
「聖女ミア。下がれ」
「……あっ、はい!」
初めて私の名を呼んでくれたことが嬉しい。
思わず、声が弾んでしまったのだった。
☆☆☆☆☆☆
さらに二週間の時が過ぎたある日。
「聖女を国民に披露する」
クローレンス王子殿下の声に、宮殿内がざわめいた。
お披露目は夜に、王宮の大広間にて行われるという。
私が元々いたモリア帝国は、そのような会は昼間に行っていた。
夜は誰しも視界が狭くなるし、それは屋内でも変わらない。
お披露目の日。
太陽が沈み、慌ただしい時間が過ぎる。
まずは、と、私は風呂に入らされた。白い花が浮かべられた、心地よい香りがするお湯が満たされている。
数人の侍女に身体を洗われたり、身体を拭くのも髪の毛を整えるのも全ておまかせだ。
次に服を着せられる。
髪飾りを付け、赤い宝石をあしらえたネックレスを身に纏う。
「わあああ、可愛い」
「これならきっと、クローレンス王子殿下もお喜びになられますわ」
私を見てニコニコしながら侍女がそう言うのだけど。この侍女たちはどうしてしまったんだろう?
可愛い? 私が?
まあきっとお世辞だろう。
そんなことより、私はずっと抱いていた疑問を口にする。
「あの、殿下なんだけど、みなさんは怖くないの?」
「怖い? 確かに何を考えておられるのか分かりにくいことがあるけど——」
うんうん。それ。私は思わず大きく頷いてしまった。
侍女は続ける。
「最近はそうでもありませんね。ミア様がいらっしゃってから、随分温和になられたように思います」
温和に?
私が来てから?
いやいやいやいや、無愛想すぎるでしょう。あれのどこが温和なの?
「じゃ、じゃあ……あの噂は本当なのかしら。ある犯罪者を拷問して血を抜いたと……」
「ああ、それは、王子殿下の身内が毒殺されかけまして。その実行犯に対して、見せしめ的なことは行われましたね」
王族を毒殺……!
そ、それは確かに、見せしめ的に行うのは仕方ない気がする。
「じゃあ、少しずつ抜き干からびるまで放置したというのは?」
「事実ですね。毒殺の首謀者の貴族の身内の全員の首をはねた後、荒野に放置しました」
う……想像すると冷や汗が出るけど、それくらいは王族として普通にすること……なのかな。
「人の血を啜るというのは?」
「この国には、王族が行う吸血の儀式というものがあります」
「う、うん……」
昨日のことを思うと、頬が熱くなる。
この身体の感じ……思い……クローレンス王子殿下は否定していたけど、実は私も僕になってしまったのだろうか?
いや、違うような気がする。
「実は……私たちの祖先は過去に、国民全員が王族から儀式を受けたという話です。もっとも、今生まれてくる子供は全て、儀式を受けたものとして生まれてくるのですが」
王族が行うことができるという吸血の儀式。それが血を啜るという噂に変化した。そういうわけだ。
私は儀式を受けて、身体に変化が起きた、と。
「——完成!」
ついに、私の化粧や身だしなみが終わった。
「お美しい……」
「綺麗……」
侍女たちの様子がおかしい。彼女たちが大げさに私の容姿を褒めている。
鏡を見て、確かめてみる。
「これはすごい……」
鏡に映る自分にと驚く。もはや芸術の域にあるよう力作だ。
正直、それが自分だというのは全く感じないまま、私は侍女たちの言葉に同意をせざるを得なかった。
聖女のお披露目会というのはそれほど、大層なことなのだろうか?
お披露目会の開始時刻には、まだ少し時間があるようだ。
私は一人、自室で待つことになった。
私が纏っているのはこの国の神官着だ。白をベースとし、所々金色の帯や刺繍が施されている。
正直、ドレスのようなものに憧れるけど、これはこれで良い感じだ。
ふと、外からザワザワという喧噪が聞こえた。
一体何だ? と思い立ち上がったところで、近くから、ブオンという不思議な音が聞こえた。
音の方向に振り向く。
そこには、何やら白い霧のようなものが立ちこめていた。
「ま、まさか……ミアなのか?」
「はい、そうですが……あなたは誰ですか?」
一人の男が霧の中から飛び出してきた。まばゆく発光する杖を持っていて、無駄に眩しい。
この部屋の入り口は閉まったままだし、廊下には侍女が待機しているはずだ。
どうやって入ってきたんだ?
「私の顔を忘れたのか?」
眩しさに慣れてきたのでよく顔を見ると、バリー皇太子だ。
私と対照的に随分やつれている様子。
「バ、バリー皇太子殿下……いったい、どうしてここに?」
「私に会いたいと思っていてくれたのだね。こんなに素敵な女性になって……。美しい、まさに聖女だ。こんな場所から、とっとと出て我が国に帰ろう」
「はい?」
帰るわけないでしょ?
当然抵抗する。というか、正直気持ち悪い。
美しい? 素敵な女性?
あなたが私に何をしたのか……覚えていないというの?
まさに聖女ってどういう意味?
バリー皇太子は私の手を取って、部屋の入り口方向に引っ張った。
ぐっと足に力を入れ、引っ張る力に抵抗する。
無理矢理連れて行こうとしているけど、私はびくともしない。
「おい……ぐずぐずするな!」
バリー皇太子が声を荒げる。
「嫌だっ」
「何だと?」
突然の豹変。
バリー皇太子は顔を歪め私を睨む。
そして、手を振り上げ、私の顔めがけて振り下ろしてきた。
婚約破棄を告げた時のように、私をぶつつもりなのだろう。
でも——。
遅い!
あまりの緩慢な動きにあくびが出そうになった。
私は振り下ろそうとした皇太子の手首を掴み、動きを止める。
「ぐっ……」
バリー皇太子は、目を見開く。
私は掴んだ手を押し出して、距離を取ろうとした。しかし……。
「な、何だ……黒いもやが……?」
彼の言うとおり、私の背中から黒い霧のようなものがあふれ出て、意思を持つように私の手の上から彼の手首を掴んだ。
バキバキッ。
何かが折れるような嫌な音がすると同時に、皇太子の顔がさらに歪む。
「ギャアアアアアアアッ」
悲鳴を上げた彼の手首が、ぐしゃりとひしゃげている。
次の瞬間には、私の身体が仄かに光っている。
「……あら、癒やしの手が——」
私が握る皇太子の潰れた手首が元に戻っていく。
「癒しか。だが、この黒いものは何だ?」
痛みが引いたのか、穏やかな声になったバリー皇太子が言う。
でも、私の手は、まだ彼の手を掴んだままだ。
まるで繰り返すように黒い霧がさっきと同じように動き、再び嫌な音と共に、彼の手首を握り潰した。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアッ」
さっきより大きな悲鳴を上げ、皇太子は後ろにのけぞり離れた。
見ると、手首がさきほどと同じようにひしゃげている。
「おっ……お前、ミア……まさか……」
バリー皇太子は、目を見開き続ける。
「金色の瞳……黒い瞳孔……口元の牙……」
「どうかしましたか?」
「まさか、まさかと思うが、お前は夜空に月が見えるか?」
「そうですね、最近見えるようになりました」
「……吸血鬼になったのか? 聖女を捨てて」
「吸血鬼?」
がちゃりと部屋の入り口が開く。
見ると、クローレンス王子殿下が入ってきた。
「ふん、ここにもネズミが侵入していたとはな」
その声には、僅かに怒気が含まれている。
明らかに怒っている。今まで見たことのないくらいに。
「ミア、無事か?」
「はい」
私のために怒ってくれたのかな?
などとのんきに考えているうちに、バリー皇太子がクローレンス王子殿下を睨んでいる。
「……クローレンスか。貴様、ミアに何をした?」
「さあな。お前が知る必要は無い。それにミアは、この国の聖女だ。何をしようと構わないだろう?」
「こんなものが聖女だと? まるで吸血鬼ではないか。貴様もだ。いや、むしろ……元凶がお前なのか? クローレンス王子!」
「ふむ、吸血鬼か。だが、別に我々は不死者ではないぞ? 太陽の光を浴びても灰になることはない」
「嘘を吐け。それに……お前どうして……まだ朽ちていないのだ?」
「死んでいないのが不思議か? くだらんな。逆にお前らはどうしてそんなにひ弱なのだ」
部屋にクローレンス王子殿下の騎士たちが入ってくる。
彼らを見て、さらにバリー皇太子は顔を歪めた。
「まさか、暗殺部隊が全滅したのか?」
「騎士たちが全員倒してくれた。彼らはその暗殺部隊とかいうのより闇に紛れるのは得意だぞ」
「ぐっ……まさか貴様ら全員吸血鬼か? 国が乗っ取られているのか?」
何かを察したバリー皇太子は、手首を押さえながら逃げるように魔方陣の上に立つ。
魔方陣は転送の効果を持つようだ。
「聖女を闇堕ちさた吸血鬼の国を、全世界の国々が滅ぼしに来るだろう」
「何度も言わせるな。吸血鬼ではない」
バリー皇太子の姿が消える。
「追え。そして殺せ。お前らの元、主を」
「ハッ!」
クローレンス王子は、騎士とは別の者たちに指示をした。
バリー皇太子を追うように数名、魔方陣に消えていく。
彼らは皆、モリア帝国の紋章の付いたフードを身に纏っていた。
騎士と侍女たちが去り、部屋に静寂が訪れる。
すると、クローレンス王子殿下が私を見て口を開いた。
「ミア、平気か?」
「はい、殿下——」
私への気遣いが嬉しい。
ただ、バリー皇太子が去り際に放った言葉が気になる。
「全世界がこの国を攻めると言っていました。これからどうなるのでしょう?」
「大丈夫だ、ミア。あの言葉はもう、帝国の力が失われていることを示している。攻めてくるにしても、時間がかかるだろう」
彼は自信ありげに答えた。視線の先は、バリー皇太子が去った魔方陣だ。
私は一息つくと、疑問を投げかける。
「あの、変な黒い霧のようなモヤが私から生えて……勝手に動いたのですが」
「俺が与えた力だ」
なんでもないことのように、クローレンス王子殿下は言い放つ。
「さて、とんだ余興だったが、行けるか?」
「はい。もちろん」
バタバタしてしまったけど、今から私を聖女としてお披露目する会が開かれる。
私は部屋を出て行こうとするクローレンス王子殿下の側に駆け寄る。
「ミア、妙に嬉しそうだが?」
「それは、王子殿下もです」
「……ふむ。確かに悪くない」
こうして私たちは大広間に向けて、並んで歩き始めたのだった。
☆☆☆☆☆☆
お披露目のあと、私はクローレンス王子殿下の自室にいた。
神官着を脱ぎ、緋色と黒を基調としたドレスに着替えている。
——私と殿下は向かい合って立っている。
「ミア、これから吸血の儀式を行う」
「はい。クローレンス王子殿下の意思のままに」
私が目を閉じると、そっとクローレンス王子殿下が抱きよせてくれた。
まだ触れていないものの、首元の近くにクローレンス王子殿下の熱を感じる。
きっと再び、あのチクリとした感触と、その後の快感が襲ってくる。
私はその感覚に備えるものの、一向に何もやってこない。
彼の腕の温もりを背中に感じるだけ。
「あ、あの? 殿下? そ、その、溜められると緊張するので、一気に行っちゃってください」
目を開けると、私の首元の近くで大きな口を開けたまま殿下が固まっている。
牙がキラリと光っていた。
私の視線に気付いたのか、殿下はコホンと咳払いをする。
「そうしようと思うのだが……傷付けると思うと……あまりに肌が美しく……」
ぷっと私は吹き出してしまった。
今さら、何を言っているんだろうこの人は。
「実験ですよね? ちなみに、首にするのは初めてですか?」
「ああ、そうだな。初めての……実験だ」
「心配しないで下さい。私には癒やしの手があります。終わった後は回復力も増すのでしょう? 傷なんてすぐ消えますよ」
「そうか。では、いいな?」
「はい」
儀式の後、私は他人の血を吸うことで、自らの力に変えることができるようになるという。
相手は誰でも良いそうだ。私に力を与えてくれたクローレンス王子殿下も例外ではない。
ただ、それが必要になるのは、儀式など多くの血を必要とする時だけらしい。
「ミア」
「んッ……殿下……」
こうして私は、自らの血を大地に捧げる聖女であると同時に、血を求める者となったのだった——。
☆☆☆☆☆☆
私は、以前と同じように血液を《聖女の儀式》で大地に捧げる。
苦痛だった儀式が、もはや鼻歌を歌いながらできるくらいになっていた。
威力も大きくなっていて、いつしか儀式を行わなくても、その効果が持続するようになるらしい。
ちなみに、殿下が首元につけた牙の痕は消えていない。光を当てると分かる程度にうっすらと残っている。
どうやら癒やしの手を含め、自分自身に行使する聖女の力は弱体化されるようだ。
一方、他人には強い効果を発揮する。
聖女の力には解呪の能力もあり、私は知らず知らずのうちにクローレンス王子の呪いを弱めているらしい。
彼に触れる度に見えた紫の光は、解呪を行ったときに発生する光だった。
いずれ彼の呪いが消えたら、情熱的に私を求めてくれるのだろうか?
クロサンドラ王国の大地が潤い、国力が増していく。栄華を極めていく。
一方帝国は、疲弊していく。国力が奪われていく。
帝都では、黒い霧を纏う者が夜の闇を自在に飛び回り、人々を襲うという噂が広まっている。
聖女を連れ戻しにクロサンドラ王国に向かった皇太子は、ひどく怯えて仕事も何もできなくなったと聞く。
「吸血鬼が来る」とひたすら頭を抱え、暗闇を恐れ、ひどく衰弱していてもう長くないらしい。
そして。
私は夜、じっと王宮にてクローレンス王子殿下をお待ちする。
お帰りになった時には、笑顔で迎えるのだ。
「月は白く見えるようになったか?」
「はい。殿下も、この国の皆様も毎晩こんな景色を、素敵な夜空を見ていたのですね」
顔を上げると、白い月や輝く星々が瞳に飛び込んでくる。
昼間の青い空や紅い夕焼けも綺麗だけど、夜は別の趣がある。
「夜空がこんなに明るいなんて。綺麗だなんて」
いつまで見ていても飽きない風景に溜息が漏れる。
私たちを吸血鬼と呼んだバリー皇太子や帝国の人々が見る夜空は漆黒で闇に包まれている。
昔の人は皆、月や星が見えていたとすると、いったい人として正常なのはどちらなのだろう……?
私は言うほど、闇に堕ちたのだろうか?
帝国やその周辺国は、吸血鬼の国を倒すために結託し、戦争の準備をしているという。
しかし、夜目も利かず脆弱な人々が、私たちに勝てるとは思えない。
さらに、私が行う聖女の儀式により、この国はさらに発展する。
「ミア、何も心配することはない。我々の眷属や僕を増やす結果になるだろう。君にはずっとここにいて欲しい。それは、偽らざる俺の本心だよ」
「はい、殿下」
白く輝く月を背中に感じながら、クローレンス王子殿下と重ねる血の儀式に、私はうっとりとするのだった——。
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