はなくそ
』より引用
題名『はなくそ -紫陽の華‐』
書いたのはね:悪女
『0.序章』
〝江戸之出島〟なる幻の島に、
「鼻つまみの華子」と呼ばれる小娘が暮らしていた。
「鼻つまみ」とは、いわゆる、
〝厄介者〟や〝嫌われ者〟を意味する比喩の言葉だ。
そのような汚名で呼ばれる理由は、なにも彼女が嫌われ者の厄介者で、
奇人で変人で偏屈で、馬鹿で阿呆で蒙昧で、怠惰で無知で傲慢で、
鼻持ちならない糞餓鬼の小娘だから、というだけではなかった……。
◇ ◇ ◇ ◇
中国の思想家――〝孟子〟の言葉に、
「至誠にして動かざるものは、未だこれにあらざるものなり」
というものがある。
その意味は、「誠意を持って接すれば、心を動かされない相手などいない」
というようなものである。
この言葉を〝訓〟として掲げる学習塾が、江戸之出島には存在していた。
〝梅の花が集う塾〟と書いて――「梅花集塾」。
それが、その学習塾の名である。
幕府によって設立された塾であり、最大の特徴は――
――授業料が〝無料〟であることだ。
だが、「幕府が無料の学習塾を設立した」などと、
いささか〝旨い話〟であり過ぎ、その真偽を疑う者もいるであろう。
だがしかし、実際の前例として、似たような事例が存在している。
西暦1722年、享保七年、本土の江戸にて。
入院が必要なほど重症の患者に限り医療費〝無料〟となる診療所が、
幕府により設立されているのだ。
であるならば、
この江戸之出島なる島に授業料〝無料〟の学習塾が存在したとしても、
おかしなことなど何も無いのではなかろうか……?
◇ ◇ ◇ ◇
その梅花集塾の二代目の塾主|(塾長)である男――
――彼の名は、〝飯を囲う塩の梅〟と書いて、「飯囲塩梅」という。
すでに還暦を過ぎた老人であるが、英気は未だに衰えず。
彼は、武家である飯囲家の養子であり、武士の身分の者である。
武士として、いつ、いかなる時、世が乱れて戦が起きようとも、
すぐさま戦場へと馳せ参じようという心構えで、日々研鑽を積んできた。
かの山本常朝の秘伝書『葉隠』には、
「武士道とは、死ぬことと見つけたり」と記されている。
武士とは、死して忠義を示し、死して栄光を掴む、――
そのような生物なのだ。
されど、江戸の世は〝天下泰平〟。
日ノ本の歴史の中でも、比較的には「平和な時代」なのである。
群雄割拠の戦国の世ならばいざ知らず、この天下泰平の世において、
武士の〝道〟とは何処に在るのであろうか。
多くの武士が〝道〟を見失い、彷徨っていることであろう。
飯囲塩梅は、〝この世〟というものを、
「幾つもの支流が混じり合う〝大いなる河〟」であると考えて生きている。
その「大いなる河」の只中にて、奔流に呑まれることなく、
進むべき〝道〟を見失わぬためには、〝武〟だけではなく、
〝文〟――すなわち「学問」も重要となるであろう。
だからこそ飯囲塩梅は、「文武両道」の〝道〟を征くことにした。
かの戦国武将である上杉謙信は、七福神の毘沙門天を信仰し、
武運を祈願して「一生不犯」を誓い、独身を貫いていたという。
飯囲塩梅もまた、上杉謙信にあやかって毘沙門天を信仰している。
それと同時に、学問の神として奉られている菅原道真をも崇めており、
武運と文運――その両方を祈願して「生涯不犯」を誓い、
独身を貫いて清い身を守り通してきた。
そして梅花集塾の塾主の職を二代目として継ぐに至り、
武士として剣を振るうだけでなく、
教育者として教鞭を振るうことに心血を注いできたのだ。
新時代を担う次世代の若人たちを、強く聡く育てること――
それこそが己の役目なのだと信じて、人生を捧げてきたのである。
しかし、ここ最近⋯⋯――
飯囲塩梅は抜け毛が増えた。
生え際が後退し、徐々に額が広くなってきているのだ。
彼は武士の身分でありながら、〝武士の髪型〟をしていない。
髷は結っているが、月代――前頭部から頭頂部にかけての頭髪――
を剃っていないのだ。
だが、このまま抜け毛が進行してゆけば、
天然の月代が出来上がってしまうかもしれない。
それは過年に伴う当然の老化現象であるかもしれない。
しかし飯囲塩梅は、自身の抜け毛の要因を「心労」だと考えていた。
そう、〝心労〟こそが、己の頭皮の毛根を蝕んでいるのだ、と。
梅花集塾の塾生たちの中に、何人か問題児が居る。
その問題児の一人……。
名は、〝紫の陽の華の子〟と書いて、――
――「紫陽乃華子」という。
人呼んで、「鼻つまみの華子」。
この小娘の存在こそが、飯囲塩梅にとっては目下最大の難題であり、
心労の原因であり、悩みの種なのであった。
◇ ◇ ◇ ◇
では、〝紫陽乃華子〟とは如何なる小娘であるのか。
歳の頃は、九つほど。
年齢が曖昧であるのは、彼女の生年月日が不明だからだ。
容姿に関して特筆すべき点は――
――頭に「〝紫陽花〟が生えている」。
そう、彼女の頭には、「紫陽花が生えている」のだ。
一見すると、造花か切花を髪飾りにしているかのようにも見える。
だが、彼女の頭に在る〝紫陽花〟は、造花でもなければ切花でもない。
〝生きて〟頭に根を張り、血肉を糧に〝活きて〟いるのだ。
そして季節を選ばず一年中、狂ったように咲いているのである。
人間の頭に生える紫陽花とは――なんと面妖で怪奇なのであろうか。
さながら、昆虫に寄生して育つという珍しい茸類を彷彿とさせる。
このように不気味な紫陽花など、切り落とすなり引き抜くなりして、
除去してしまえば良いのではなかろうか。
だが、それを当の紫陽乃華子が拒否していた。
彼女は、頭の紫陽花を害されると、何かしらの苦痛を感じる様子なのだ。
医者の診断によると、
この紫陽花は、かなり奥深くにまで根を張っている、とのことである。
もしかすれば、神経と複雑に絡み合っているのかもしれない。
ゆえに、鎖国している日ノ本の医学では、
この紫陽花を宿主の肉体から除去することは難しい、とのことであった。
だが実際の所、紫陽乃華子が頭の紫陽花を除外したがらない理由は、
肉体的な問題よりも精神的な問題の方が大きい。
彼女は、些か特異な生い立ちであるから、
頭の紫陽花に特別な思い入れを抱いている様子なのだ。
さらに、その頭の紫陽花に、〝蝸牛〟を乗せて飼っている。
その名も、「でんでんためえもん」。
かの大相撲の横綱、〝雷電為衛門〟にあやかった名である。
この蝸牛だけが、紫陽乃華子の唯一の友人であるかもしれなかった。
だが、それを指摘されると、紫陽乃華子は
「あちきには、〝河童さん〟という友人もいらっしゃるんです。」
などと真偽不明の戯言を云うのである。
〝河童〟とは、あの有名な、川に棲む妖怪のことであるが、もしかすれば、
紫陽乃華子の脳内にのみ存在する空想上の友人なのかもしれない。
しかし、頭に紫陽花が生えている件や、
蝸牛を飼っている件や、河童と友人であるという件などに関しては、
その実、大した問題ではなかった。
そう、この物語においては、重要では無い。
問題点は、別のところに有るのである。