ゲボ蛙
田舎の農村で生まれ育った私や友人たちは、子供の頃、特定の体色をしたカエルのことを「ゲボ蛙」という汚ならしい通称で呼んでいた。
おそらく、辞書にも図鑑にも載っていない名称であり、私の周囲のごく少数の子供たちの間でしか共有されていなかった俗称であろう。
種族としては単なる「雨蛙」。
その雨蛙が、保護色によって身体の色を変化させ、茶色に黒の斑点模様という地味な柄と化したもの。
それが今現在の私が認識する限りでの「ゲボ蛙」という存在である。
おそらく、カエルとして最もポピュラーである緑色の雨蛙と比べれば美しくないという相対的な理由から、「ゲボ蛙」などという酷い別称が付けられていたのだろう。
私を含めた当時の子供は、カエルの鳴く時期になると、野山でカブトムシやクワガタを捕まえるのと同じように、田園地帯を駆け回ってカエルを捕まえて遊んでいた。
美しいカエル、大きなカエル、沢山のカエルを捕まえることが出来れば自慢が出来る。
だが、醜いゲボ蛙の存在は「ハズレ」として奇異されていた。
それは示し合わされたわけでもなく、皆が無意識の内に作り上げた「暗黙の了解」であった。
あれから10年以上の年月が流れた。
その日、私は競馬での賭けに大負けし、自棄を起こして暴飲暴食し、泥酔状態で帰宅するやいなや、トイレに駆け込み、洋式便器の中に向かって勢い良く嘔吐したのである。
焼き鳥、餃子、唐揚げ、刺身、それらが酒とラーメンとブレンドされ、さながら学校給食の「ちゃんぽん麺」のような状態でリバースされた。
こうなると、何のために金を払って飲食をしたのか分からなくなり、ついでに「食材となった動物たちは何のために生まれてきたのか?」という疑問まで沸いてきて、胃の中だけでなく頭と心までカラッポになりそうになってくる。
一頻り吐いてから、トイレの水を流そうとした、その時だった。
“それ”に気付いたのは。
吐瀉物に満ちた洋式便器の中で、“何か”が動いている。
眼を凝らしてよく見てみると、それは雨蛙で、しかも私たちが子供の頃に“ゲボ蛙”と呼んでいた柄だった。
吐瀉物の満ちた便器の中で跳ね回り、時には吐瀉物の海を“泳ぐ”ゲボ蛙。
田園に囲まれた田舎に住んでいると、こうして家の中に蛙が入り込んでくるから困るのだ。
しかし便器に入られたなどという事例は、私が認識している限りでは今回が初めてである。
便座の存在が無駄に「ネズミ返し」のような役割を果たしてしまっており、ゲボ蛙の脱出を阻んでいる様子だ。
この状況、ゲボ蛙の存在に気付くことなく水を流してしまう人もいるかもしれない。
流された場合、ゲボ蛙はどうなるのであろう?
真っ暗な下水道や浄化槽へと流れ着き、そこでジワジワと野垂れ死んでゆくのであろうか?
それとも、水中洞窟で迷子になった潜水士のように、最も苦しい死に方とされる“溺死”をしてしまうのであろうか?
想像すると、夜も眠れなくなりそうである。
なんにせよ、幸か不幸か、私は便器の中のゲボ蛙に気付いてしまったのだ。
気付いてしまった以上、見て見ぬフリは出来ぬのが人のサガであろう。
もっとも、気付いた上で文字通り「水に流す」という人も世の中には一定数存在するであろうが……。
むしろ、私のようにゲボ蛙を助けようとする人の方が少数派なのかもしれない。
しかも、相手は便器の中で吐瀉物にまみれているのである。
私は、どうしたものかと少し思案し、ゲボ蛙を塵紙で捕まえて屋外で解放するというシンプルな作戦を立てた。
だが、このゲボ蛙は、なかなかどうして元気一杯で逞しいワンパクであった。
私が便座を上げるやいなや、ゲボ蛙は便器の中から勢い良く跳び出して、トイレの中を縦横無尽に跳ね回ったのである。
しまいには、慌てて捕まえようとする私の手を掻い潜り、私の二の腕に着地すると、そこから更にジャンプし、私の顔面に張り付いて来たではないか。
これにはもう私もナリフリかまっていられなくなり、素手でゲボ蛙を掴むと、水洗いしてから、屋外へと放り投げた。
こうして一仕事終えた私は、風呂で5回も念入りに全身を洗った後に、枕を高くして就寝したのである。
それから1週間後のこと。
我が家に客人が訪れた。
客人は若い女であり、
「先日助けていただいたゲボ蛙です」
と名乗ると、恩返しがしたいから家に上げてほしい、と頼んできた。
確かに、女の顔はカエルを彷彿とさせる“のっぺり”とした造形であり、肌にはゲボ蛙の柄のような黒い斑点模様――すなわちシミが幾つも浮かんでいた。
時折、「ゲコッ」という音をシャックリのように喉から鳴らし、喉元を膨らませる。
極め付けは体臭。
田畑の泥臭く、それでいて仄かに生臭く、そして何より“吐瀉物”のように酸味の有る「すえた臭い」が鼻を突くのである。
私は、
「あなたに降りかかった不幸は人の業が生み出したものであり、それを祓うのもまた人の業。よってプラスマイナスはゼロに均しく、むしろどちらかと言えばマイナスに近いため、恩返しなど不要である」
と述べ、カエル顔の女の鼻先で玄関の戸をピシャリと閉めて鍵をかけた。
カエル顔の女は暫くの間、「ケロケロ」と音を鳴らしながら家の周囲をウロウロしたり、車の上で猫みたいな姿勢で気持ち良く日光浴したりしていたが、宅急便のトラックの近付いて来る音に驚いて飛び跳ね、逃げるように田園へと姿を消したのであった。