花の御所
室町将軍
1441年。6月24日。将軍足利義教が殺された。嘉吉の乱である。美作国守護、赤松満祐に招かれた宴の席で討たれて、悪御所とも呼ばれた義教は47歳の生涯を閉じた。跡を継いだ子の足利義勝はわずか10歳でこの世を去った。次の将軍は弟の義成である。1443年のこのとき、8歳。のちの足利義政である。
幕府政治の主導は畠山、山名、細川などの宿老が握っていた。
1449年。義成は14歳になると元服し、征夷大将軍の位を朝廷から賜る。室町幕府8代将軍である。
「将軍とはいかなるものか。」
そう烏丸資任に尋ねたことがある。
「至極道理に背かないことが肝要にございます。」
資任はそう言った。
「そのようなものか。」
言葉の意味は分からなかったが、何かそういうことなのだろうとは感じた。
「道理か。」
義成は烏丸屋敷で書を読み漁った。
「何をお読みでございますか。」
今参局。義成の乳母である。
「書を読んでいた。」
「学問熱心なことにございます。」
今参局はことに応じて、義成にいろいろ教えてくれた。手習いも教わることがあった。
「今参は賢い。」
義成はそう思った。今参局は困ったことがあると、義成に相談をしてくることがあった。どこから仕入れてきたのか義成の見知らないこともあった。
「それならばこうしたらどうか。」
義成はそう答える。しかし、それは暗に今参局の意向に沿った結論であった。
「義成様。お耳に入れたいことが…。」
有馬元家。義成の近習である。彼の父は有馬持家。またの名を赤松持家。義教を殺した赤松満祐の庶子であった。彼は父の謀叛には連座せず、逆に満祐追討の軍に参じた。持家は子の元家が将軍の近習であるのをいいことに自分に有利な情報を義成の耳に入れていた。
「なるほど。」
16歳の義成はそれらのことに疑いもなく素直に受け入れていく。
1451年。今参局は、尾張国の守護代の話を義成にした。
「それならば、織田敏広に代えて、織田郷広を守護代にすれば良いだろう。」
18歳の義成はそのことを、畠山、山名、細川ら幕府首脳に話した。彼らの返事は大反対であった。
「(何かおかしい。)」
その後、義成の生母日野重子が今参局のところへ来て何かを話していた。
「(何がどうなっているのだ。)」
義成はようやく自分の身の回りの出来事に矛盾を感じ初めていた。
「(彼らは何をしたい。)」
夜半、寝所の中で考えていた。
義政
1453年には名を義政に改めた。20歳。この頃には義政はなんとなく自身の周りに起こっていることが分かり始めた。
「(彼らはそれぞれがそれぞれの意志で動いている。)」
ということであった。彼らは自身の前ではいちおう分相応な振る舞いと言葉で不可分なく己を通してはいる。しかし、心の奥底では皆が皆それぞれの領地や知行のことを考えている。それが彼らの自己保存や自己防衛であった。
「彼ら」とは漠然たる言葉ではあったが、そう指摘する他なかった。余りにも、駒が多過ぎた。義政の周りに百人いれば百人ともがそれぞれのことを考えている。そして、彼らの言葉や振る舞いの裏にはお互いの牽制や利益確保がある。義政がそのすべてを知ることはできない。推測できたとしても、目の前の三、四人が限度であった。
そして、更には、義政の言う「彼ら」は百人程度では収まらなかった。この頃、各地で土一揆が蜂起していた。民衆である。領主がそれぞれの利益確保を目指していたならば、そのしわ寄せはその土地に住み利益を収奪される領民たちに来る。そして、彼らも彼らで、己らの利益確保を目的として、一致団結して、幕府に要求をしてくる。上の者は上の者で自らの私益確保に尽くし、下の者は下の者で自分たちの私益確保に取り組む。そのような義政の周りの状態は一言で言うなら「無秩序」であった。そのような無秩序状態は、既に、下剋上、戦国乱世という状態の萌芽であった。
富子
1455年。22歳のとき、妻ができた。名は日野富子。義政より6歳下の16歳の丸顔の少女であった。義政は縦長である。
「(気立ても良さそうな。)」
義政は婚姻の場で思った。
義政の周りは相変わらず安定しなかった。去年、関東で内紛が起こった。享徳の乱の始まりである。関東公方足利成氏は幕府に背いて、関東管領、上杉憲忠を謀殺した。
「成氏は親の敵を討ったということか。」
憲忠の父、上杉憲実は成氏にとって父持氏の敵であった。幕府は成氏の追討を決めた。
1458年には、僧から還俗した弟の足利政知が新しい関東公方として下向することになった。しかし、政知は関東に入れず、伊豆堀越にとどまることになった。
「(公方と管領が争うか。)」
享徳の乱には関東管領上杉氏の内紛も絡んでいる。
「(そういえば畠山の家も大変らしいな。)」
室町幕府管領畠山持国は6年前に管領を退いて以来、家督相論により揉めているという。
「(もし京で関東のようなことが起きたらどうすればいいのだろうか。)」
あり得ないことではないと義政は思った。そのとき義政はどうすればいいのだろうか。義政の危機管理能力、いや、自己保存、自己防衛の機能が働いたといえる。
「将軍とは道理に背かないことが肝要。」幼い頃、養父の烏丸資任は言った。将軍はそうであるかもしれない。では、義政自身はどうあればいいのだろうか。
「(人は皆、己というものを保とうと躍起になっている。)」
義政には周囲が世の中がそう見えていた。世の中は一枚の板ではない。ひとつにつながっているわけではなかった。皆がそれぞれ己が求めるものを求めている。
「(私利、私欲、私益。)」
すべてが私利私欲というわけではなかった。家族のため、役目のため、未来のためでもある。しかし、それらは根源すれば、自分のためであり、私利私欲といえるのかもしれない。少なくとも義政にはそう見えていた節があった。そして、義政にとっては、人々は皆、善人でも悪人でもなかった。
「(私も負けるわけにはいかない。)」
義政は心の中で一人静かな決意をしていた。
義教
1459年。義政は居所を今までの烏丸屋敷から、足利将軍代々が暮らしていた室町御所へ移した。この頃、義政は6代将軍である父足利義教の事績を古老から聞いていた。
「父は何をしようとしていたのか。」
義政の焦点はそれであった。
『万人恐怖』とまで言われた義教の所業。義教は家臣の家督相続にも将軍として口を挟んだ。そこには義教の確固とした将軍を頂点とした上下の秩序関係の世界があった。今の義政のように、どちらが家来でどちらが将軍かも分からないような状態はない。しかし、それらの体制を望まない家臣によって義教は謀殺された。義教の意図した世界は雲散霧消した。将軍による上下の秩序を否定した各地の守護領主らは、図らずも今度は自分たちが領民たちから、土一揆という形で自分たちの上下の秩序を否定されることになる。昨日、自分たちが否定していたものを今日の自分たちは肯定する。人々は一体、何を望み、何を拒むのか自分自身にも分からない。その中では、自己という存在が肥大化し、人々は自分の生存のみに価値を置く。そして、自分の仲間さえも自己の生存にとって有利がどうかで価値が計られる。そんな状態が続いていくことになる。乱世の始まりである。義教が臨んだ武力による統一。それは、この時代から150年を経ないと完成することはなかった。
「(私も父のようにあるべきなのだろうか。)」
父は最期、家臣に謀殺された。
「(殺されるのは困る。)」
義政は思った。その頃、妻富子のお腹に命が宿った。世間は、干ばつと台風襲来により、畿内一帯や西日本は食糧不足に陥っていた。
今参局
1460年。去年、富子のお腹に宿った命は息吹くことなく、この世を去った。
「呪詛に違いない。」
そんな噂が立った。富子を呪ったのは義政の乳母、今参局だと言う。噂の立ちところは義政の生母、日野重子だった。富子は重子の兄の孫であった。
「(内でも外でも争いか。)」
義政は重子の意向に従って、今参局を琵琶湖沖島に流刑に処することになった。義政が有無を言うことはできなかった。
「(事が収まったら、また都へ呼び戻せば良いだろう。)」
しかし、今参局は、琵琶湖へ向かう途中、近江の甲良寺というところで自害して世を去った。日野重子の命によるものともされる。そのことはしばらく、義政には知らされずにいた。翌月、重子によって、今参局と親しかった女官たちが追放された。
「(ふむ。)」
義政の私的な空間の雰囲気が変わった。今参局がいた頃は、女官たちは義政ともよく話をしていた。しかし、重子によって、今参局と他の女官たちが追放されてからは、義政と女官たちが話をすることもなくなった。御殿からも女官たちの話し声が聞かれなくなった。代わりにどこか義政に聞こえないところでこっそりと話すことが増えた。
「(皆、日野の一族を恐れているのだろう。)」
義政はそう思っていた。義政の心には疑心暗鬼と妄想が芽生えていた。
畠山家の家督が畠山政長に相続されることになった。政長を援助したのは管領の細川勝元だった。この年の9月に勝元が畠山政長という若者を連れて来た。義政は二人に会った。
「畠山持国殿の孫の政長殿にござる。此度はこの政長殿が畠山家の家督を相続することになりました。」
義政は政長を河内、紀伊、越中の守護に任じた。
「(また、何か企んでおるのだろう。)」
勝元と政長を相手にそれはすぐに分かる。彼らはそれが常である。しかし、実際に何を企んでいるかまでは、義政の知るところではなかった。義政には将軍として、彼らの行いに是非を論ずることはできたとしても、彼ら自身の行動を制することは至難であった。前年には、関東の足利成氏追討を命じた斯波義敏が命令に従わず、そのまま、越前へ向かい、かねてより対立していた家臣の甲斐常治と合戦に及ぶということがあった。義政は義敏の守護職を罷免した。決定したのは義政だが、それには当然、義政側近の意向もあった。
「将軍といえど、すべてを知ることなどできるわけがない。」
そのような愚痴を周囲にこぼしたことがあった。義政は将軍というもの限界を感じ始めていた。
「(将軍などたかが職に過ぎない。)」
義政は、かつて烏丸資任が「道理に背かないことが肝要」といっていた将軍職というものの実態がなんであるかをつかみ始めていた。
「(自分でなくても良いではないか。)」
義政は自分の後継者である次期将軍のことを考えていた。
善阿弥
この年も、低温、長雨などの異常気象によって、世の中は前年に引き続き食糧危機に陥っていた。京や周辺には流民があふれていた。
義政は室町御所にいた。室町御所は『花の御所』とも言われる。花の御所は3代将軍義満が建てた。邸内には賀茂川の水が引かれ、四季折々の草木が植えられていた。その庭園を管理していた者がいた。
「善阿弥。」
と言った。
「この花は美しいな。」
義政は善阿弥にいろいろ尋ねた。すると善阿弥は丁寧な説明を加えて返答する。
「なるほどな。」
善阿弥の答えは義政を納得させた。一見、無秩序、乱雑に植えられていると思われる草や花を見ても、そこにはひとつひとつの秩序や理論が込められていた。
「なるほど。」
という義政のその言葉には、以前、烏丸資任や今参局、有馬元家たちから話を聞いたときに得られるものとは違った趣を持っていた。烏丸資任らの話から得られる「なるほど。」という言葉は、義政という存在を無秩序の中に埋没させていく感覚を備えていた。しかし、この善阿弥から得られる「なるほど。」は、義政という存在を、そんな無秩序状態から救い出し、世界に秩序と理と道理を与えてくれた。
「善阿弥の説明は分かりやすい。」
昔、烏丸資任が言った「道理」という言葉は、この善阿弥の言葉にこそ、捧げられるべきものなのではなかろうかと思った。義政は伝手を頼りに『前栽秘抄』、『山水並野形図』などといった作庭書を集めさせた。
伊勢貞親という者がいた。今年、幕府の政所執事に就任した男だった。義政はこの貞親に政務の多くを任せるようになった。そして、義政自身は以前、住んでいた烏丸屋敷を建て直して、生母、日野重子の屋敷とすることを指示した。高倉第の造営である。義政の理論の実践であった。義政の理論は作庭に限らず、文化、建築、芸能の多方面に渡った。
「(これにはこういう道理があるのか。)」
多岐に渡る秘伝書を読み漁った。その合間に、鹿苑寺や相国寺などに立ち寄った。どちらも、3代将軍義満が建てたものである。義満は政治力にも長けて、守護大名の弱体化と将軍権力の増強を図ったが、同時に、将軍職を子の義持に譲った後は、明国との貿易や建築など文化事業にも力を入れた。義満のその将軍権力を背景にした文化は、後に彼の山荘のあった場所にちなんで北山文化と呼ばれる。
「鹿苑院様は御立派だ。」
次第に義政は、父義教よりも、さして血のつながっていない義満のことを将軍として尊敬した。その多くは義満の文化的側面であった。
「(私も早く退隠したいものだ。)」
そして、行く行くは自身の理論を実践していきたい。義政はそう思っていた。
妻富子
1461年。飢饉による餓死者は8万人を越えた。賀茂川は餓死者たちで溢れたという。その間も、義政による高倉第の造営は続いていた。今年、日野富子は22歳になった。
「(夫の義政は頼りにならないのではないか。)」
将軍として君臨してはいるが、実際に政務を執り行っているのは、富子の兄の日野勝光や政所執事の伊勢貞親である。合議の場でも、たいした決断を下すことはなく、たいていは勝光や有力守護たちの意見が通る。そしてそれは、合議以前に既に決まっていたか、根回しにより決定したことであった。
「(妾や日野の家族を守ってくれはしないのではないか。)」
昨年、宿った義政との子は死産してしまった。そのときも、後々の対応をしてくれたのは、祖父の妹で富子の義母である重子であった。今も義政は義母重子の邸宅の建築をしてはいるが、どうもそれは義政の趣味であるようだった。世間や身の周りには、いつ何をしてくるかも分からない守護たちや公家、俗人たちがいる。
「(家族を守っていくには、妾自身が力を尽くさねばなるまいのか。)」
その決意は翌々年、何かと世話をして気遣ってくれた義母、日野重子が亡くなるに及んで更に強くなる。
夫義政
義政は相変わらず、のん気だった。彼には彼なりの考えがあるのだろうが、妻や周りの人間から見ると特に役に立つこともない存在となっていた。高倉第の造営に着手しながら、相国寺などの寺社へ参っては、それらの庭園や建造物、内装物を見て、公家、門跡、僧たちから話を聞く。それらは、河原者と言われる特殊技能者たちの情報や明国舶来の物品のこと、あるいは、禅、浄土信仰の法話、書画、芸能の理論など多岐に渡った。義政の周りにはひとつのサロンが形成されつつあった。
「なるほどな。」
それらの話を聞く度に、義政は乱雑で無秩序な世の中から掬われて、秩序づけられた世の中のすべてを包含した一枚の板の上にいるような感覚を得る。外の世界では、相変わらず、守護たちが勢力争いをしていた。
1462年。畠山政長は一族で家督継承争いの相手である畠山義就を河内国金胎寺城に攻めて敗った。9月、10月には京都と奈良で立て続けに土一揆が蜂起し、幕府はその鎮圧に当たった。
1463年。相変わらず、畠山政長は義就を追い、河内嶽山城にて、義就を紀伊へ追い立てた。そんなとき、義政は今参局が死んでいたということを聞いた。
「(今参は殺されたのではないだろうか。)」
実際のことは分からなかったが、その疑惑は義政の頭を満たすのに十分な真実味を持っていた。同じ年、生母、日野重子が亡くなった。
「(因果なのだろうか。)」
義政は乳母今参局と生母日野重子、両者ともに愛情を感じていた。やがて、両者は対立し、今は二人ともこの世にはいない。どちらか一方が生きていたなら、義政はその一方を憎んだかもしれない。しかし、今はそのどちらもこの世を去ってしまっていた。どちらに非があり、どちらが是であったのか義政には分からない。義政にとっては、それぞれがそれぞれの為すことを成した結果なのだと思った。生母重子の葬儀とともに、乳母今参局への追善料所の寄進も義政は行った。
義視と良子
1464年の4月。5日、7日、10日の三日に渡って、京都の糺河原において鞍馬寺改修の猿楽勧進興行が行われた。義政は富子とともに観覧した。演者は観世三郎、又三郎親子である。三日間で53番の能狂言が演じられた。義政は焚き火に照らされた妻富子の顔を見た。今参局は自分が将軍であったから殺されたのではないかと思った。
「(将軍職は他に譲ろう。)」
義政はそう思った。9月には、畠山政長が管領に就任した。
「(この者は何のために生きているのだろうか。)」
義政は自分と同じ年頃だろうか、この挨拶に来た新しい管領の顔をふと見て思った。しかし、それは政長から自分を見たとしても同じことなのかもしれないとも思った。
11月。義政は弟で僧籍にあった義尋を還俗させて、義視と名乗らせ、将軍義政の跡継ぎに指名した。それには富子の意向もあった。
「義視殿の妻は良子に。」
義父の日野勝光と妻の富子が言った。良子は富子の妹である。このとき、富子のお腹には命が宿っていた。しかし、以前のように無事に生まれて来るかどうかも分からなかった。義政の父義教の子で生きているのは、このとき3人だけである。義政、政知、義視である。政知は関東にいる。富子としては足利将軍家の血筋が絶えてしまわないようにしたかった。守護大名たちは自己の利益のためならば、いつ将軍の寝首をかくかも分からない。
「家族で助け合っていくしかない。」
富子はそう思った。
「(夫は頼りになるかどうかも分からない。)」
とは言葉には出さなかった。
義視と良子の縁談が成り、宴が催された。その席には、政所執事の伊勢貞親がいた。
義尚と義材
翌年の11月。富子が男子を出産した。名は義尚。足利義尚。8代将軍足利義政の子であり、日野富子の子である。次の将軍は義政の弟の義視とされていた。義政に何かあった場合の将軍不在による政治的空白を避けるのが公の目的だった。ときに義尚1歳。義視27歳である。
義政、富子夫妻と、義視、良子夫妻。彼らはそろって花見や宴会に出席した。
更に翌年の1466年の9月。義視と良子の間に子が生まれた。男子である。名は義材。
「義尚か義材いずれかが大きくなるまでの間、義視殿が将軍になっていてくれれば安泰である。」
それが富子の願いであった。
同じ頃、幕府内では、政所執事の伊勢貞親が義視の暗殺を企てたとして、山名、細川らの指弾を受けて、近江に逃れるという出来事があった。
貞親は、斯波家の家督争いに関与していた。越前、尾張、遠江三国の守護である斯波家は、以前、関東出陣の際、当主斯波義敏が義政の命令を無視したことから、守護を罷免されて、義敏に代わり、義廉が三国の守護と斯波家の家督を継いでいた。この頃、貞親は義敏と結んで義敏の守護職復帰を目論んでいた。
貞親は義政に働きかけて、義廉を守護職から降ろし、義敏を復職させて、これに従わない義廉を征伐するという内意を得た。これは細川や山名など有力守護大名の反対により、実現はしなかった。そこで義廉は義視に注目した。次期将軍になる義視に接近して、庇護してもらおうと思った。伊勢貞親はそれを知り、義視に義政への謀叛の兆しがあるとして、義視の処刑を訴えたのである。しかし、貞親の企みが露見して、貞親は近江へ逃亡した。文正の政変である。
「(信用できない者ばかり。)」
夫、義政の周りには私利私欲を貪る狐たちが屯している。義政の乳母、今参局もそうであった。あのときは富子の義母である重子が守ってくれた。しかし、彼女はもう亡くなってしまった。
「(夫がもう少し自覚を持ってくれればいいのに…。)」
そう思っても詮ないことではあった。今のところ頼みになるのは兄の勝光だけであった。妹夫妻にも迷惑はかけたくはない。
「(義尚が大きくなるまでは…。)」
我が子への愛情を頼りに乱世の中を生きていかなければならない。
あるとき、山名持豊の姉が富子のもとにやってきた。安清院尼である。畠山義就が義政に許しを請い、上洛を望んでいるという。安清院尼は義就の事情をつらつらと話した。
もともと義就の父持国は義就に家督を譲るつもりだったが、家臣たちの反対により、従兄弟の政長と戦になったこと。安清院尼の弟山名持豊も以前は政長を擁護していたが、事情を聞き及ぶにおいて義就の家督相続に賛成のこと。義就の上洛や立場は、今まで暗に、政長を擁立する細川勝元によって阻まれていたことなどを話した。
「そういうことであったのですか。」
富子は義政にそのことを伝えた。
応仁の乱
1467年。1月。去年の8月から軍事行動をしていた畠山義就が上洛。義政に謁見した。義政は義就を許し、畠山家の家督を義就に相続させるように約束した。義就には山名持豊がついていた。斯波義廉も持豊に同調していた。すべては彼らの策謀であった。
畠山政長はこれに怒り、管領の職を辞すると手持ちの軍勢を集めて京都の上御霊社に陣取ったが、義就率いる軍勢に敗れた。
応仁の乱の開始である。
「(それぞれに事情があるのだから。)」
それが義政や富子の思っていたことであった。義政は細川勝元に参戦を禁止し、畠山義就には河内へ戻ることを命じた。義視もまた、細川勝元、山名持豊両者のところへ行き、戦の停止を求めた。しかし、両者は無視した。
「将軍は無能。」
乱世の武士たちにとっては、義政という存在はもはや不用であった。彼らはただ、将軍という機能だけを欲した。彼らの道理は、明快であった。一言で言えば『一所懸命』。自らの領地に命を懸ける。彼らにとって、家族や権威などといったものは方便に過ぎなかった。そのために策謀を巡らせ、武力を振るった。
「室町殿は何を考えているのだ。」
室町殿とは義政のことである。今までは政長の家督相続を認め、管領就任を認めた。しかし、突然、その敵の義就を許し家督を相続させるという。
「山名宗全の企みか。」
細川勝元の敵はもはや山名持豊に決定付けられた。勝元は各地の守護に書状を送り、持豊の領国を攻撃させた。その後、勝元は軍勢を伴って京都へ上った。
5月。花の御所は勝元によって占拠された。細川勝元ら東軍は将軍と幕府という機能を手に入れた。
将軍の命令により、山名持豊らの軍勢は各地の守護職を罷免された。
「無理を通せば、道理は引っ込む。」
今までも山名持豊はそうしてきた。持豊は、周防、長門、豊前、筑前4ヶ国の守護大内政弘を擁して大軍を京都へ上がらせた。その人数は2万ともいう。
「勝元は山名に敗れるのではないか。」
そう思ったのは義視であった。義視は東軍を脱走した。義視の自己防衛、自己保存の機能が働いた。義教の10男として生まれ、静かに僧として暮らしていた。それが、義政や富子によって、還俗させられて次期将軍に据えられた。
「(私は良くやったではないか。)」
次期将軍とされた後も、真面目な義教はその役目を果たそうとした。しかし、周りには術数権謀が渦巻いていた。義視は騙されたと思った。
「(兄はやりたくもない将軍職を押し付けて、義姉は己や子のために自分を利用して、私の身のことなど案じてはいない。)」
それでも、義視は罪悪感や責任感からか、一度は東軍の陣へ戻ろうとした。だが、東軍大将細川勝元がそれを許さなかった。拒否された義視は伊勢へ逃れた。
戦国乱世
「(やっかいなことになった。)」
将軍職は弟の義視に譲って、自分は退隠後は数寄に没頭しようとしていた。それが、なぜか、大軍の中にいる。しかも、弟は逃げていった。
「(私も逃げたいものだ…。)」
しかし、富子が許さなかった。というよりも、逃げなかったのは、義政自身に将軍職と妻に体する責任感があったからだった。逆に、義政にとっては、大乱が勃発することによって、今まで、土に埋もれていた構図が明らかになり、理解しやすくはなっていた。
「(勝元、政長、義敏 と 持豊、義就、義廉か。)」
京都市中は混乱している。足軽といわれる傭兵による放火、略奪が横行していた。将軍としての政務は乱の収束にあった。それには実務ができる官僚が必要だった。
「伊勢貞親。」
近江へ逃亡したかつての政所執事を呼び戻した。義政は勝元らと協力して、西軍諸将の切り崩しにかかった。
応仁の乱勃発の翌年。1468年。義視が戻ってきた。義政が呼び戻したのである。義政は未だ義視への将軍職後継を諦めてはいなかった。
「(これは…。義視か。)」
日野勝光や富子とともに義視と会ったが、1年足らずの内に義視は別人のような顔になっていた。義視の体の中は、自分を騙した兄や義姉の一族、自らを利用した東軍諸将などへの恨みに呑み込まれていた。それは妄想ではあったが、義視にとっては真実でもあった。一通りの挨拶を終えると、義視は突然、立ち上がり、己の境遇、兄や義姉のやり方を非難した。その顔は怒りなのか悲しみなのか分からず、言っていることも脈絡がなく、理解しづらかった。分かったのは弟の中にはさまざまな感情が渦巻いているということ、義政や勝光、富子、細川勝元らを敵と見なしているということであった。義視は西軍陣地の山名持豊のもとへ行った。
「乱世か…。」
義視が西軍へ走ったあと、義政は富子にそう一言だけ呟いた。
東山
1473年。乱勃発から5年経ったこの年、東西両軍の大将の山名持豊と細川勝元が相次いで死去した。お互い病死だった。これにより、応仁の乱自体は終息していくが、各地では既に戦国乱世が始まっていた。同じ年、義尚が元服をすると、義政は義尚に将軍職を譲り、自ら退隠した。その後、義政は1490年に55歳で亡くなるまで、文化活動に没頭した。彼が手がけた活動は、建築、書画、茶の湯、生け花、香道、金工、蒔絵、連歌、能など幅広く、それらは従来の公家文化と新興の武家文化の統合でもあった。
「世のすべてを包含したい。」
それが義政の願いだった。乱世の中で見つけた綺羅。それらを集めて組建てていくこと。それは義政にとっては逃避ではなく戦いであり、無秩序の中の秩序であった。
彼は自らの周りには同朋衆と呼ばれる諸芸に秀でた者たちを集めた。善阿弥、芸阿弥、文阿弥などである。そして、小栗宗湛、後藤祐乗、五十嵐信斎などといった多くの芸能家を育てた。
義政の美意識とセンスによって選び、育て作り上げられていったものは、後に、東山文化と呼ばれ、近世文化の源流を成すものになったと言われる。義政は日本の国を文化で統一した。
1482年には、義政は京都の東山に山荘を建て始め、翌年、そこに移り住んだ。
「一視同仁」
唐の詩人韓愈の文章である。「すべてを等しく同じように慈しむ。」というような意味だろう。
後年、75歳で病に倒れた善阿弥に、義政は薬を届け、医者を遣わすなど手を尽くして行き届く限りの配慮をしたという。
彼の建てた東山山荘の一室には『同仁斎』の扁額が掛かっている。その四畳半の書院で、義政は何を思っていたのだろうか。外の世界はまだ、乱世が続いていた。
その後
一方、日野富子は76年に兄の日野勝光が亡くなってからは、将軍であり子の義尚のことや家族のことで精一杯だった。義尚が元服して将軍に就いてからは夫の義政もしばらくは義尚の後見として制度に携わっていたが、積極的ではなかった。足利家の家計は乏しかった。ただでさえ、収入は少ないのに、夫の活動の支出もあった。市中の乱を鎮めるのに要する費用も足りない。富子はそれをなんとか遣り繰りしなければならなかった。当時、なんとか幕府の威令の届く範囲に関所を設置した。苦肉の策ではあったが、民衆は非難した。他にも貸し付けや利殖などで充てを作り、乱の収束に向けて諸将に斡旋をしたり、皇族や寺社の援助をしたりした。
「義尚や家族を守りたい。」
戦国乱世の中で、それが富子の願いであった。
そんな義尚も、後年、1489年。25歳でこの世を去った。その翌年には義政が亡くなる。義政が亡くなると、将軍は甥の義材が継ぐことになった。義視と良子の子である。義視は応仁の乱収束後も、京都に戻ることはなかったが、兄が死に、子の義材が将軍になるに及んで、義視も13年振りに京都に戻ったが、その翌年、この世を去った。そして、富子もまた、その5年後の1496年にこの世を去った。
富子が亡くなってから119年後の1615年。徳川家康が武力により乱世を統一したことによって、戦国乱世は終わった。無秩序状態が崩壊し秩序が訪れた。