スケアクロウ
真っ昼間のゲームセンターにいると、自分の気配が綺麗さっぱり消える気がする。
うるさいポップソングや、誰かの舌打ちや、たばこのにおいは僕の存在なんてまるで構わず場に満ちているから。太鼓の音ゲーに夢中な男の子は、汗をまき散らして踊り狂っている。いかにも不良っぽいカップルはUFOキャッチャーで遊びながらケラケラ下品に笑っている。みんな自分たちに夢中で、誰も、何も求めてこない。それが気持ちいい。
だから、ノートの上を焦ったように走るシャーペンの音に耐えられなくなると、最近の僕は自習室を飛び出して、ここにやって来る。そして百二十円のコーラを買って、一時間ぐらい何もせず時間を潰す。今日もいつも通り。一つ違うのは、昼休みに無断で学校を抜け出してきたってこと。
一気に飲み干したコーラの空き缶に、中間試験の結果が書かれた紙片をちぎってねじ込んだ。総合四位。僕の「値札」にはそう書かれていた。
「クズが」
僕は周りを見渡すと、誰にも聞こえない声で小さく呟いた。
誰に向けた言葉か、自分自身でもわからなかった。昼間からゲームで遊んでいる同世代の連中になのか、先生たちになのか、僕自身になのか。
こういう気分の時、アルミ缶は潰しやすくてスカっとする。思いっきり音を立てて缶をぐちゃぐちゃにして、満杯になったゴミ箱に放り投げた。カツーンと派手な音を立てて跳ね返る。空き缶の山が崩れる。
「喜多中の子だね、君」
そこでとんとん、と肩を叩かれて僕は振り返った。
「その詰め襟、そうだよね。今は授業中だろう」
がっしりした体型の、中年の警備員だった。白髪交じりの頭髪、肩にはフケ。浅黒く焼けた顔が警戒感でゆがんでいる。
「いや、僕は」
その先の言い訳が思いつかず、どもってしまう。ああ、格好悪い。警備員の額に寄った皺が深くなっていく。生徒手帳、とぶっきらぼうに要求されて、素直に従ってしまう自分が情けなかった。
「矢野くんね。学校の名前に傷つけちゃいかんだろう。せっかくあんないい学校なのに」
掴まれた腕はほどけない。学校か親御さんに電話するから、と平坦な声の死刑宣告。どちらも地獄だ。嫌だ、と本能的に振り払おうとしたけれど、大人の力にはかなわない。どんなに数式を使いこなせても、腕力が上がることはない。
「小銭泥棒!」
そこで僕を救ったのは、そんな怒号だった。警備員の注意が一瞬声の方向にそれて、手がゆるんだのだ。僕はとっさに腕をねじるようにして逃げ出した。
「あ、待ちなさい!」
夢中で店の外に駆け抜けた。すぐに折り返して路地裏に入り、非常階段あたりまでわき目もふらず走った。息が切れる。こんなに必死に走ったのは久しぶりだ。
通学鞄を放り出し、下水くさいマンホールの上に座り込んだ。秋雨でじっとり濡れたマンホールには枯れ葉の一部がこびりついていて気持ちが悪かった。
うつむいた地面に、誰かの影が落ちた。
「完全に運動不足じゃんお前」
痰の絡まったようなガラガラ声。見上げた顔はよく見知っていた。人を試すようにつり上げた口元。人なつっこささえ感じる黒目がちな瞳。変わったのは髪の色――メッキを吹き付けたような金髪だけだった。
「岡本」
僕は思わず、その元級友の名前を口にしていた。
※※※
このクソど田舎の町は噂が回るのも一瞬で、あまりにも狭すぎるとは前から思っていた。でもここまでとは思わなかった。暇つぶしにふらふらよったゲーセンで、昔のダチに会うなんて。不意打ちもいいところだ。
「岡本」
矢野は俺の名前を呟く。目があった瞬間、やつの視線は俺の髪に移り、着ているスカジャンにより道して、そしてまたすぐに地面に落ちた。キョドってる。前にカツアゲしたトロいやつによく似た反応。
何だよ、おまえもそっち側かよ。
心の中でもう一人の自分が呟く。そうだよな、おまえは喜多中だもんな。俺みたいなクズは嫌だよな。
――もちろん、こんなこと口には出さない。思ってるだけ。
「喜多中の制服でゲーセンはバカだろ。補導だよ補導」
「さっきの『小銭泥棒!』ってやつ、岡本?」
肩をすくめて答える――「おまえは頭いいのに、そういうとこトロいよな」。もちろん、「久しぶり」とか「元気にしてた?」とかはなし。お互い、そういうのが嫌いなのはわかりきっている。
右手を差し出すと、少し迷った後、矢野はその手をとった。起きあがるのを手伝ってやると、その重みが増したことに気づく。矢野は不健康に太った。詰め襟の生地がだぼついているのも、シルエットが丸くなっているのも正直ださい。残飯をたらふく食った都会のカラスみたい。
「岡本は、小学校のときからそういうとこうまかったよね。ごまかしたりさ、注意を逸らすのが」
矢野は膝に手を突いて、ふらつきながら立ち上がる。
「まあな。それに救われたんだから感謝しろや」
肩をこづいてやると、やつはようやく緊張がほぐれたようにぎこちなく笑った。
「すごい。詐欺師向き」
おもしろくもない冗談。そのまま聞き流して、俺はジャケットのポケットからたばこを取り出す。外箱をとんとんと叩くけど、中身がない。今は金を切らしている。ついてない。長いこと一服もしていない。イライラする。
ああ、とそこで思いつく。矢野の家の事情。母子家庭。母親は働きに出ていて、遅くまで帰ってこない。
「なあ、おまえんち今日行っていい?」
俺は昔みたいに、できうる限りあっけらかんと聞こえるように、そう尋ねた。
※※※
どの学校にもいえることけど、「問題児」とされる生徒というのはだいたい型が決まっている。勉強ができない、授業態度が悪い。その程度ならまだマシで、岡本は正真正銘の「ワル」だった。
彼はキーホルダー型のバタフライナイフを自慢げにランドセルにぶらさげていて、よく気に入らない生徒の前でちらつかせては黙らせていた。そしてついにある日、喧嘩相手の膝をその刃先でぶっ刺して、何針も縫う怪我をさせた。軽い悪戯のつもりだったらしいが、冗談では済まなかった。全校集会と保護者会が連日開かれ、耐えかねた岡本とその家族は隣町に引っ越していった。中学校に進学する直前のことだった。
岡本家の人々は一度も被害者に謝罪することなく、逃げていった......そう陰口をたたかれた。岡本さんの息子さんには近づかないでね、と母さんが鋭い口調で釘をさしてきたのをよく覚えている。あの子は危険な子だから。うちとは違う環境だから......。
滅多に食事中に会話を挟まない母さんだったけど、何度も念を押された。その時にはすでに手遅れだったのだけど。
「初めて話したのもあのゲーセンだったな」
岡本は目を細めながら、たばことの煙と一緒にそう言葉を吐いた。白地の長袖シャツ一枚になって、ソファに仰向けに寝転がっている。心なしか眠たそうにも見える。人の家でよくここまでくつろげるものだと思うけど、それが岡本というやつだった。
「つまようじボウガン、景品でとったな。UFOキャッチャーのやつ」
「河川敷行って水風船割ったやつ?」
「そうそう、それだ。あれでさ、お前をいじめてた三組の大友のケツ一緒に狙ったよな。あれすげーオモロかったわ。傑作」
岡本はさっきから携帯用の灰皿にぽとりと灰を落としたかと思えば、取り留めもない思い出話を口にする。まるで何かを確認するみたいに。
「昔から俺がおもり役だったよな。ゲーセンで高校生に泣かされたときもさ、俺が仇とってやって」
「覚えてるよ。岡本、勝つまでやるってムキになるから、小銭足りなくなって。お金をせびられたのもあそこが初めてだった。百円くらいでけちけちすんなって怒られてさ、それを何回もやられて......結局二千円くらいは貸したまま」
「余計なことまで覚えてやがって。俺は強制した覚えはねえよ。お前が俺の後を犬みたいにくっついてくるから悪いんだ」
そうだね、と相づちをうちながら、ソファの背もたれにかかったスカジャンを横目で見た。筆記体でscarecrowの文字に、翼の折れたカラスのロゴマーク。見たこともないブランド。
「それ、気になるか? scarecrow」
あくびをかみ殺したような声音で岡本が言った。
「みないブランドだなって」
「個人ブランドだからな。知ってたら逆に驚く」
僕はふーんと曖昧な相づちを返すしかなかった。ファッションには疎い。
「お世話になって人がな、くれたんだよ。だけどもういらねーから、二千円とたばこ代のかわりにお前にやる。そんな価値あるか知らねえけど。ソーサイってやつな」
有無を言わせない言い方だった。こうなると岡本は譲らない。わかったと僕はうなずいて学ランの上着を脱ぐと、スカジャンの袖に腕を通した。ふんわりとたばこのにおいが舞った。背中のあたりが突っ張っている感覚がする。
「もう少しやせろよ」
岡本があきれたように言った。
「そっちもたばこやめなよ。どうせもうすぐ、あの変なカードみたいなやつ使わないと買えなくなるのに」
「そんときは――その辺のおっさんを脅してパシリにする」
本気か冗談かわからないことを口にして、岡本は短くなったたばこを灰皿の中に落とし、もみ消した。少し寝る、と呟いて腕組みするとすぐに疲れたような荒い寝息が聞こえてきた。ずいぶんと長い間眠ってないような、貪るような。
その寝顔を見て、唐突にむなしい感覚におそわれた。
昔大好きだった絵本やマンガが、急速に色あせて感じるような、そんな気分だった。自分をどこか別の世界に連れて行ってくれるはずのものが、ある日を境に陳腐に思われてしまう、あの嫌な感じだった。
僕は学ランの上着を岡本にかけてやると、逃げるようにその場を後にした。
※※※
『なぁ岡本。人の値札ってどこについてると思う?』
中学をバックレることに決めたその日の夜。
烏丸さんは橋の下に停めた車の中で、突然俺にそう聞いてきた。一見若手のサラリーマンにしか見えない烏丸さんに、俺はついつい気を許していた。香水のにおいがたっぷり染み込んだ車のシートにもたれかかると、まるで自分自身が金持ちになったようないい気分だった。気持ちが緩んでいた。烏丸さんはそんな心の間にするっと滑り込んできたのだった。
俺は夢の中にいるような気持ちに浸って、『人の値札......何すかそれ』とぼんやり答えた。今思えば、ハーブでも炊いていたのかもしれない。烏丸さんがいつも香水くさいのは、それを隠すためかもしれない。理由を聞いたことはなかったけど、たぶんそう。
『人としての価値。感じたことあるだろ。みんな値踏みしあってんだ、この世は。自分より強いか弱いか。稀少なのか、ありふれてるつまんねえやつなのか』
へらへらして『わかんないっす』と答えたが、烏丸さんが言いたいことはバカの俺にもわかっていた。昼間から酒浸りの親父を見ているときに感じるひりつき。そんな親父から隠れるように部屋に閉じこもるババアに対するいらつき。すぐにわけがわからなくなって、目の前のやつをぶん殴りたくなる、自分に対する失望......。全部が全部、信じられないくらい安っぽい日常。俺は無価値なんじゃないかという恐怖。
『わかんないふりしてても、いつか絶対現実はお前に追いついてくるんだからな。だから嘘でも虚勢でも何でもいい、自分を守れよ。自分は価値があるすげーやつだってって、そのふりだけでも何とかしろ。俺のグループに入るなら、そのくらいはしてもらう』
『つまり、何すればいいんすか?』
『言葉遣い、立ち振る舞い......まぁこの辺はいますぐには無理だ。だからナメられないように、着てる服とか外見を変えろ。お前、童顔だからな』
烏丸さんはふいに何かを放ってきた。あわてて受け取ると、それは見慣れないロゴの入ったスカジャンだった。刺繍で入っているのはscarecrow......英語、かな。たぶん筆記体ってやつだった。
『スケアクロウ。案山子って意味。聞いたことあるだろ』
『まぁ、何となくは』
『俺たちのグループ名だ。それ着ている限り、そう手出しはされねえよ。逆に言えば、それ着ている限りは、お前にもそれなりの人間になってもらう』
はぁ、と我ながら気の抜けた返事をする。
『何で案山子なんすか? もっと格好いいのにすればいいのに』
『お前に説明するには夜が明けちまう。いいか岡本、次会うまでに髪を金色に染めとけ。あとこれ』
乱暴に放ってきたのは、たばこの箱だった。マイルドセブン。
『いっぱしの男ならたばこぐらい吸えるようになっとけ。コミュニケーションツールだからな』
何かあったら連絡しろ、とだけ言って烏丸さんは去っていった。
色々な大人に会ってきたが、真剣にたばこを勧めてくる人間は烏丸さんが初めてだった。俺は何ともいえないようなハイな気分になって、夜の河原をあてもなく一人でひた走った。自分なら何でもできる気がしたから。
それからは烏丸さんのシャテイになって、いろんなことをした。金を取りに行き、知らないおっさんをぼこぼこに殴り倒し、借りた金を返さないバカに脅しの電話もかけた。悪いことをするのは気分がよかった。自転車に乗って、取り返しのつかない速さで坂道をくだっていくような興奮だった。いつどこで事故るのか、自分でも楽しみなくらいだった。
「あー、とんでもねーバカ」
それもこうして一年も経てば、ただの幻想だったことに気づく。落ちるところまで落ちれば、ただの平坦な道が続いているだけだってのに。
目がしょぼしょぼする。夢から醒めきっていない。
薄暗い部屋。俺の家じゃない。静かすぎるし、家の中にあるものが一つ一つ凝っている。ああそうだ、俺はあのまま矢野の家で寝てしまった......。
起きあがろうとして、自分の腹にかかっていたものがはらりと落ちる。喜多中の制服だった。しばらく何事だと固まったが、矢野が冷えないようにかけてくれたのだと気づく。
「俺にはもったいねーよ、矢野」
可能な限りきれいに畳んで、俺はソファの背もたれに制服をかけた。リビングのデジタル時計は午前四時を指している。矢野の母親は帰ってこなかった。仕事なのか、別の理由なのか。矢野は自分の部屋で寝ているのだろう。
この部屋で、俺だけが浮いていた。いてはいけない人間だった。
「ここらで、終わらせなきゃな」
口に出すと、きちんと納得できた気がする。
俺は矢野家の固定電話を拝借すると、ある番号に電話をかけた。
※※※
「岡本! いるのか、出てこい!」
そんな怒鳴り声と一緒に目覚めた。大人の男の声だった。玄関のドアが拳で何度も殴打される鈍い音。インターホンがヒステリックに連打された。
僕はびっくりして自室のベッドから飛び起きると、急いでリビングに向かった。まだ明け方。白いカーテンがぼぅっと薄明の中に浮かんでいる、。
「岡本、何だよあれ!」
答えるはずの相手はいなかった。綺麗に畳んだ喜多中の制服がソファの背もたれにかかっているだけで、岡本の姿はない。書き置きさえもない。たばこの苦いにおいだけがかすかに残されている。ただそれだけ。
僕は狐につままれたような気分で制服を羽織ると、玄関に向かった。チェーンをかけたまま、扉を開く。
「誰だお前。岡本のダチか?」
立っていたのは体格のいい若い男だった。たぶん、二十代後半くらい。髭もきちんと剃っていて、着ているスーツもいいもののようだった。
印象的なのは、その目つきだ。何もかも見透かしているような、昏くて鋭い三白眼。僕はすっかり射すくめられてしまった。
「喜多中の生徒か」
こちらが言葉を発する前に、男が驚いたように口を開いた。僕はぎこちなくうなずいた。
「ここはお前の家か?」
もう一度うなずく。
「岡本から何か買ったか?」
首を横に振る。その様子を、男はじっと見つめてくる。嫌な視線。値踏みされている感覚だ。
そんな永遠にさえ感じる一瞬を経て、男は大きなため息をついた。
「無関係のダチを巻き込んだのかあのバカ」
「あの、あなたは」
「俺はあいつの......保護者だよ。いや保護者だった、か。なあ君、よければ外に出て話さねーか。同じ喜多中出身のよしみで」
僕は男をまじまじと見つめ返してしまった。
「意外って顔だな。数学の梶田、まだポロシャツの襟立ててるだろ?」
男の話しぶりには不思議な魅力があった。気づけばするすると心の中に入られている。そして、それが嫌な気分にならない。
チェーンを外した瞬間、いきなり押し込まれるかもしれない。当然そういう可能性もあったけど、僕はあっさりと彼を信用してしまった。こういうタイプは、たぶん実益がないことはしない。
言われたままにチェーンを外して外に出ると、いつも通りの景色がそこにはあった。アパートの五階から見る、郊外の町。背の低い住宅街。ゴミを荒らすカラスたち。ところどころ明かりがつき始めた、まだねむけ眼の町。
「あいつ、この町は狭すぎるっていつも言っててな」
男は共用部分の壁にもたれかかって、そう切り出した。
「それは自分の分をわきまえてないからだ、と何度も諭したけど聞きやしねえ。まぁ、よっぽど嫌な思いしてたんだろうがな。まさか出ていっちまうとはなぁ」
男が懐からたばこの箱を取り出した。ふとあらわになった右手の甲には、あのロゴマークと同じタトゥーが入っていた。僕は思わず呟いた。
「scarecrow」
「知ってんのか。岡本が話したか」
男はライターで火をつける直前、ぎくっとしたように僕の方を振り返った。そしてすぐに何か諦めたような表情になった。まぁ、そう長く続く商売じゃねえしな、と小さく呟いて、たばこに火をつけた。そして、ここに至るまでの経緯をぽつりぽつりと話し始めた。
岡本は男の「ビジネス」の手伝いをしていたが、ある日を境に寄りつかなくなってしまった。その後は知り合いの家を転々としており、男はその足取りを追っていた。そして昨晩、久しぶりに岡本から電話があったのだという。
この町を出る。そういう簡単なメッセージだったそうだ。
『ガキが。金もねぇくせにどこ行くんだ』
男は電話口で激怒したが、岡本の意志は変わらなかった。お前には資格がないのだから、せめてスカジャンは返せと言うと、ためらいながらもある住所を口にした。
「それがここってことですか......?」
そうだ、と疲れたような顔で男は言った。
「くれるって言ってたのに」
「あいつがか? スカジャンを?」
「そうです」
それはいい迷惑だったな、と彼は苦笑いした。僕もためらった末、男と同じように笑った。しばらく僕たちはくつくつ笑いあった。
「scarecrowってブランド名な、俺が考えたんだよ。喜多中にいたときな。辞書めくってて、ちょうど見つけて。君、案山子って以外にもう一つ意味があるの知ってる?」
「みすぼらしい人。身なりの悪い人、ですよね」
男はうれしそうに微笑んで、さすが、と口にした。
「昔、俺はその太ったカラスみたいな制服が本当に嫌いだったんだよ。俺を押し込めるんじゃねえ、他人と同じラベル付けられて、商品みたいに陳列されてよ。ふざけんなって思ってた。勝手に値札つけてんじゃねぇってな。だからわざわざボロボロの私服で学校に行ったりバカやって。誰かに本当の自分、裸の自分――まぁ、そんなのが本当にあればだけど――そいつを見てもらいたかったんだよな」
ふぅ、と慣れた手つきでたばこを挟むと、重たい煙を吐き出した。その横顔はどこか岡本に似ている、気がした。
「で、悪い連中とつき合ってたら、本当に悪くなってた」
皮肉なもんでよ、と彼は続ける。
「それでも仲間とツルんで生きていくなら、やっぱラベルが必要なんだよな。んで、俺も気づかないうちにあの嫌で嫌で仕方なかった制服ってやつを、自分自身で作り出してたんだよな」
僕は昨日の岡本の言葉を思い出した。
『お世話になって人がな、くれたんだよ。だけどもういらねーから......』
あのとき、岡本はどういう気持ちだったんだろう。
「長々と悪かったな。あのバカ、連絡してきたら言っといてくれ。一発殴るだけで許してやるって」
「あの、スカジャンは......」
「やるよ。取り戻したところで、どうにもなるわけでもねえし。悪用すんなよ」
男が革靴でたばこを踏み消しながら言った。そして僕を見据えて、こう続けた。
「なあ。君は脱ぐなよ。その制服」
じゃあな、と言って男はそのまま振り向かず去っていく。僕らは互いに名前も知らない。これから先の人生で、再会することも、たぶんない。
僕は自室に戻ると、岡本が残していったスカジャンを手に取った。それはやっぱりたばこの苦いにおいが染み着いていて、たぶん何度洗濯しても、そう簡単には取れないだろうと思われた。
「じゃあね、岡本」
僕はそのスカジャンを、誰にも見つからない押入の一番奥まで、深くしまい込んだ。
了