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ミステリートレイン 短編集

日陰の男

作者: まきの・えり

日陰の男

1

 1ラウンドのゴングの鳴った後、攻撃されて怒った相手にキックされて、ロープ際でのプロ

レスまがいの大乱闘をし、最後には、左手で相手の首を押さえて、顔面に右をぶちこみ、ロー

プ最上段からエプロン下に転落させてしまう。

 その間、何と、マネージャーが対戦相手をはがい締めにしてたんだって。

 ボクシング雑誌を読んでて、ゲラゲラと笑ってしまった。

 何でボクシング雑誌なんか読んでるかって?

 電車で拾ったのか、人にもらったのか?

 違いますよ。ちゃんと、本屋さんで買ってきたんやから。

2

 ボクシング・ファンかって? そういうわけでもないのよ、実は。

 ボクシングの試合なんか、生まれてから一度も見たことないし、これからも見たいなんて思

わへん。

野蛮、残酷、無駄、無茶、アホらしい、というイメージしかなかったわけ、これまで。

だって、考えてみて。何の理由もなく、何の恨みもない赤の他人と殴り合うわけでしょ?

そんな理不尽なこと、あると思う?

3

 そう言いながらも、わざわざお金まで出して、ボクシングの雑誌を買う。それには、何か理由が

あるはずや、と思うでしょ。

そうなのよね。その通りなのよ。

 すごい真面目な会社員の彼がいたんやけど、いつも夜は都合が悪いのね。

「ごめんな、ごめんな、仕事やねん。」

「いいわよ。じゃ、次の土曜日か日曜日に。」

「それが・・・今度の土曜も日曜も仕事やねん。」

「そう。」

何やの、それは!

4

 どう考えても、わけがわからない。

そうでしょ? 喧嘩したわけでもないし、愛情が冷めたわけでもないし、お互いに気にいらないところがあるわけでもないのよ。

 たった一つ考えられること。

 それは、女。

 そうやわ。きっとそうやわ。それしかないわ。

 そうに違いないわ。絶対、そうやわ。

 女・・・ができたんやわ。

       5

 結婚の約束までしておいて、その日取りをいつにしようか、いうところまできて、やっと、クリスマスもう過ぎたな、と会社でイヤミ言われることもなく、無事、ハッピー・ウエディング、そうよ、やっとここまできて。

 女を・・・他に女を作るなんて!

 ア、アタマに来ると思わない?

 私は、来た。充分に、来た。

 充分以上に、来た。完全に、来た。

 アタマの上、はるか二千キロまで来てしまった。

 上空二千キロで、アタマのヒューズ、ぶっ飛び。

       6

 可愛い振りしてたんも、優しい振りしてたんも、ウブな振りしてたんも、ヴァージンの振りしてた

んも、家庭的な振りしてたんも、親孝行な振りしてたんも、か弱い振りしてたんも、全部、今日で

終わりよ!

 覚えてらっしゃいね!

 よくもよくも、超マジメな顔をして、信じやすい(元)乙女の純情を踏みにじってくれたわね!

 これは、復讐よ。

 相手が、どんな女か見てやるから。

       7

 私よりブスなら笑ってやるし、私より美人なら呪ってやる。

 私より若かったら、いじめてやるし、私より年上やったら、オバンオバンて叫んでやる。

 だてに、二十六年も生きてきたのやないからね。

 さて、会社に、風邪で欠勤の電話を入れる。

「ほんまに風邪え?」と電話を取った相手は悪かったけれど、「うん。あ、あんまり、声が出えへん

の。」という演技賞の勝ち。

「へえ。お大事にね。ちゃんと治してから来てね。うつされたらイヤやから。」

「うん。ゴホゴホ。」とアカデミー賞候補。

       8

 相手の会社に電話をかけるのは、パス。もし、女の乗り換えが知れ渡っていたら、いい恥さらし。

 そう思うと、またも、ムカムカムカッとヒューズが飛ぶ。

 変装。と言っても、父親の服をタブダブで着る勇気はない。

 母親の服を着て、年より老けて見せるのは、もっとイヤ!

 父親、母親、両親、家族・・・結婚・・・という連想で、再再度、ヒューズが飛ぶ。

 妹の服は、私のより地味。

       9

 あーあ、できたら、運命の女みたいに、薄物のドレスでも着てみたいところやけど、手持ちには

ないし、外は、まだ寒い。

 わかったわ、と一人で腹を立てて、コートの襟を立てて、サングラスにマスクという誰が見ても

怪しい恰好で外出。

 さすがに、家を出る時は、サングラスとマスクは、バッグにしまった。

 父親は会社、母親は何かの習い事、妹は学校。

 人生それぞれ、家族バラバラで、誰もお互いに干渉しない家。

       10

 気楽といえば気楽。

 気が抜けるといえば気が抜ける。

 淋しいと言っても、最初から、こういう感じなので、実感はない。

 だから、結婚に憧れるのかなあ。

 彼の会社の付近で時間をつぶす。

 暇なことをやっている、と自分でも思う。

 サングラスをして、マスクをめくり上げながらコーヒーなんか飲んでいると、周囲の視線がどう

こう言うより先に、何となく自分が可哀相になってくる。

       11

 可哀相な薄幸の美(?)女。

 つくすだけつくして、ゴミみたいに捨てられるのやわ。

 ま、考えたら、何もつくした覚えもないけれど。

 愛情だけは捧げたわ。

 と考えても、具体的に何をしたという覚えもないけれど。

 結婚してあげてもいいとまで思ったわ。

 と言っても、結婚の方向へ、結婚の方向へ、と話が進むように持っていったんやけど。

 実は、彼、まだ結婚なんかしたくなかったんやろか。

 それで、ねえ遊ぼう、てな女が現れたら、これ幸いと思ったんやろか。

 アカン、アカン。ここで弱気になったらアカン。

        12

 そのうち、時間がなかなか経たへんなあ、とサングラスにマスクのまま、居眠りをしてしまった

ようだ。

 ハッと気がつくと、マスクがよだれを吸い込んでいる。

 マスクしていて良かった、と言うべきか、恥ずかしいと思うべきか。

 ま、そんなことはいい。

 ちょうど会社帰りの人間が、ゾロゾロ帰って来る時間。

 本当は、本当は、彼は、言うてたように、毎日毎日休日も返上して仕事をしているのかもしれな

い。

 それやったら、何でも許す。何でもしてあげる。

         13

 喫茶店を出たところのゴミ箱にマスクを捨てる。

 風が吹いているわけでもないし、寒いわけでもないのに、コートの襟を立てて、顔を埋める。

 道行く人が、皆、振り返って見る。

 そんなに怪しい恰好なんやろか。

 それとも、薄幸の美女の雰囲気が、道行く人を振り返らすんやろか。

 出てきて欲しいのと出てきて欲しくない気持ちが半分ずつ。

 けど、出てきてくれなかったら、この苦労は水の泡。

 出てきて欲しい方に、気持ちがググウッと傾き始めた時。

         14

 あ、出た!

 遠くからでもわかる一メートル八十五。

 やっぱり定刻に出てきた! とショック半分、ワクワク半分。

 み、見つからないように、後をつけないと。

 ジロジロ見る人たちを心の中でシッシッと追い払いながら、歩く電信柱の後をつけていく。

 スリルやわ、映画みたいにドキドキする。

 口から心臓が飛び出しそう。

 三高の男やからしょうがないか、と弱気になりかける心を叱咤激励。

 ここでくじけたらアカン、くじけたら。

         15

 女や、女。

 やっぱり女や。

 ほら、帰る方角と違うやないの。

 しかし、困った。

 ドンドン人通りが少なくなっていく。

 ジロジロ見られないのはいいけれど、ここで振り返られたら、目的地に到着する前に、相手に気付かれてしまう。

 ここは一つ、テレビで得た尾行の知識を応用しよう。

 ササッと木の陰に隠れる。

 建物の陰に、柱の陰、看板の陰・・・

 人が見たら、変質者やと思うと思う。

         16

 お、立ち止まった。

 しまった。隠れるところがない。

 どうしよう。地面にふせるか。

 とパニクッている間に、相手は、サッと左方向に曲がった。

 しまった。ここでまかれたら、今までの苦労が水の泡、と慌てて走る。

 やっぱり。相手の姿は、消えていた。

 道はズッと続いているけれど、人の姿、特にあの目立つ電柱男の姿はない。

         17

 ということは、この近辺の建物、店、家、すべて怪しい。

 と思って見ていると、全部の建物や店や家の中に、相手と女が向かい合っているような気がし

てくる。

 その姿まで目に浮かんでくるような気がする。

 もう、アカン。私は、嫉妬の塊。

 こうなったら、しらみつぶしに捜してやる。  

 ウウウ、ウウウ、と心の中でサイレンみたいに唸りながら、店という店は探索した。

         18

「結婚までは、清い交際をしましょうね。」なんて、純情ぶったのが裏目に出た。

 クソッ、こんなことなら・・・ああしたり、こうしたり、こんなことやあんなこと、そ、そんなことまでしておいたらよかった。

 以前、そ、そんなことまでして、「そんなに遊んでいるとは思わんかった。」と結婚をパアにされた苦い経験が、裏目に出たわけやった。

          19

 そう。相手によって、スタイルを変えないとアカンのやわ。

 今度は、ちゃんと気をつけよう。

 相手を見て、使い分け。けど、ちゃんと相手を見たつもりやったんやけど、どこかにデータをインプットする際のミスがあったんやろか。

 まさか、そこらの家を一軒一軒訪問して歩くわけにもいかず、ああ、ようやくここまで追い詰めたのに・・・何もかも、パア。

 そう思って、ガックリ肩を落とした私の目に、あの電柱男の姿が見えたような気がした。

 哀れ。ふられたあげくに、幻覚まで見るか。

          20 

 ちょっと待て。

 アレは幻覚ではない。

 確かに、私の婚約者。または、元婚約者。

 ガラス越しにでも見間違うはずのない物干し竿みたいな男。

 私は、ヨロヨロとガラスに近づいて、ガラスにピタッと顔をつけて、中をのぞいた。

 ガラスのすぐそばにいたおじさん二人が、ギョッとした顔をして、私の方を見た。

 教えてくれなくても知っている。

 人間の顔て、どんな美人でもハンサムでも、ガラスに顔を押しつけたら、顔、変形するわよ。

          21

 そやから、こうやって、私やとわからへんように、サングラスとマスクの代わりに、ガラスで顔を変装させてるわけ。

 おじさん二人が言うたのか、私が顔を押しつけている方を見る人が増えてきたような気がする。

 内心、本当に困る。

 本当は、こんなこと、長い間やりたくはない。

 ほんまに顔が変形したら、どうすんの。

 けど、ここでガラスから顔を離したら、私やいうこと、わかってしまうやないの。

          22

 そのうち、何や、何や、という具合に、ガラスの向こうにいる人全員が、私の方を見ているような気がしてきた。

 全員、つまり、私の(元?)彼も含まれるわけね。

 平気な顔をしているようでも、内心はとっくに泣いている。

 何人かの男の人が走って来ようとするのを押しのけて、電信柱が走ってきて、一旦、ガラスの前まで来て、何か向こう側で叫んでから、ドアを開けて外に出てきた。

         23

「自分、そ、そんなとこで、一体、何してるねん。」

 ええ! と私は、内心焦った。

「何でわかったの?」

「わかるに決まってるやろ。」

 そう。変形させた顔でも、わかるのね。

「こんなことするもん、自分以外にいてへんやろ。恥ずかしい、思わへんのか。」

「思う。」と私は答えた。

「思うんやったら、やめといて。ボクかて恥ずかしいわ。」

          24

「何で?」

「そやかて、未来の奥さんが、そんなことするて知られたないやんか。」

「あ。」

 未来の奥さん・・・結婚・・・家庭・・・幸せ・・・ウフフ・・・

 上空二千キロでぶっ飛んだヒューズ、修理完了。

 アタマ、正常に戻る。

「そやかて、ずっと会ってくれへんのやもん。私かて、淋しいやんか。」と突然、今までの役が全部戻ってくる。

 アカデミー賞授賞式。

          25

「ごめん、ごめん。試合前やったから、ちょっとでもトレーニングしたかってん。結婚したら、こんなこともできへん思ったら、何か急にやりたなって。ごめんな。」

「こんなことて、何やのん?」と会話は、スッカリ以前の通り。

「見たらわかるやろ? ボクシングや。」

「ふーん。ボクシング。ええ!ボクシング?」

「そうや。ちょっと見学してもいいかて、会長に聞いてくるわ。」

「ええ! 別に、私、そんな見学やなんて・・・」

と言いながら、シッカリ見学してしまった。

          26

 ふーん。ボクシングか。

 女やなかったんや。

 結婚したらできなくなるから、今のうちにやりたい、なんて、ちゃんと言うてくれたらわかるのに。

 私、物わかりのいい女。

 ま、いいか。ほかに女作ったわけやなし、ちゃんと結婚するつもりみたいやし、ボクシングするぐらい、ま、いいか。


 それで、ボクシングに熱中する彼を理解するために、ボクシングの雑誌なんか読んでたと思うでしょ?

 ところが、どっこい。私は、好奇心の強い女。

          27

 スパーリングとかいうので、自分の彼がメタメタに弱いのを知ってしまった。

 素人の私にでも、リズム感とかパンチのスピードなんてものはわかる。

 身体全体の動きがバラバラで、フットワークがなってない上に、パンチに威力がないときたら、褒めようがないやないの。


 コイツには守ってもらえない、と思ったとたん、

「よろしくお願いします。」とジムに入門してしまっていた。

 私が強くなるしかないやないの。

          28

 陸上で鍛えたこの脚力、体操で鍛えたこの柔軟さ、ダンスで鍛えたリズム感、男で鍛えたこの腹筋。

 その全てが、ボクシングに応用できる。

「ジャブジャブ、ワンツー。」とトレーナー。

 ジャブジャブ、ワンツー・・・ああゾクゾクするほど気持ちがいい。

「ワンツースリーでダッキング、ワンテンポおいて、ワンツー。」

 バシバシバシッ、でダッキング、ワンテンポおいて、バシバシッ!

          29

 カーンと鳴るゴングの音。流れる汗の気持ちよさ。

 結婚なんか何やのん、とまで思ってしまう。

「ねえ、結婚式、いつにする?」と最初で最後の試合に負けた彼。

「そんな話は、後、後。」

「なあ、ジム以外でもデートしよう。」

「うるさいわね。今、コンビネーション・ブローの研究してるんやから、黙ってて。」

 今では、ボクシングに身も心も捧げた私。


「『日陰の男』でもいいから捨てんといて。」と彼の言う日は近い。


 と思う。



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