怪しげな探偵
お腹の底に糸くずが溜まっている。むずむずとするそれは、地を這う小さな虫のようにも感じる。
スー、ハー、スー、ハー。スー、ハー、スー、ハー。
糸くずを吐き出すために繰り返した深呼吸。でも、実際に糸くずがお腹の底に溜まっているわけではないから、口から飛び出た大量の糸くずが宙を舞うことなんてない。
しばらくすると、心臓が胸を強く叩いて、冷たくなった掌にはじっとりと嫌な汗が滲み始めた。もうこうなると、勉強机の椅子に座って、じっと参考書と睨めっこしてるわけにもいかない。
意味もなく立ち上がって、窓を開けた。たっぷりと湿気を含んだ生暖かい空気が流れ込み、車の走行音や犬の鳴き声なんかがひっそりと部屋の中に侵入してくる。
高台に建つ高層マンションの最上階。東向きのこの窓からは県境にそびえ立つ山まで見渡せる。悪くない眺望。きっと限られた人だけが目にできる光景。でも、こんなことで私の精神は安定を取り戻さないから厄介だ。
部屋のドアを開けると、薄暗いリビングの中で巨大なテレビ画面が煌々と賑やかな光を放っていた。画面に映し出されていたのは、日曜日の夕方に決まって放送されているアニメのエンディング。ポップな音楽に合わせてピエロの格好をしたキャラクターが身体をくねらせていた。
テーブルやソファー、テレビ台、見渡す限り黒で統一された生活感の少ない室内の中では、点けっぱなしにされたテレビだけが人の気配を漂わせている。
この家の全ての決定権を持つ義父は、迷うことなく黒を選ぶちょっと変わった人物だ。靴下にパンツ、ドライヤーに歯ブラシ。ピンクとか黄色とかビビットなカラーが可愛いってことを知らない彼を私はちょっとだけ惨めに思っている。
足音を立てずにリビングに足を踏み入れる。テレビの前に置かれたL字型のソファーには母の姿があった。エアコンがつけられていない少しムッとする室内で、母はTシャツにショーツという格好で、息絶えたように眠っていた。真っ直ぐに切り揃えられた前髪が額に張り付いていて、小さすぎるショーツの端からは陰毛がはみ出ていた。
母が眠るソファーの背の後ろを通り、アイランドキッチンにある冷蔵庫を開けた。ミネラルウォーターのボトルを取り出し、グラスに注いで口を付ける。一口、二口と口に運びながらもう一度深呼吸を繰り返した。そうして時間を掛けて、一杯の水を飲み干したけれど、激しい鼓動が治まる気配はなかったし、依然としてお腹の底には糸くずが溜まっていた。
一度乱れた精神は、そう簡単に治まらない。けれど、放っておけば得体の知れない憂鬱な思いが芽生え出し、それはあっという間に増幅していく。
そんなことを私は身をもって経験していたし、この瞬間にも嫌な予感はふつふつと湧き上がり始めていた。
この症状がいつから現れ始めたのか、記憶を辿ってもその開始地点は判然としない。それどころか、何がそうさせるのか、その原因すら掴めない。
もちろん、貸したCDが返ってこないとか、既読無視をされたとか、世間一般の中二が抱くような悩み事は持ち合わせている。学校には嫌いなクラスメイトが数人いるし、如何にもお嬢様って感じがする担任も何処か癪に障る。けれど、酷い虐めを受けているわけではないし、少ないけれど友達もいる。休み時間には集まってお喋りをして、笑い合う。楽しくて仕方がないとか、面白くて溜まらないわけではないけれど、とりあえず声を出して笑う。
キャハハハハハ。それ面白いよね!
休みの日には友達と一緒に買い物に行くことだってある。私は絶対に何も買わないけれど、街をぶらぶらして、また声を出して笑う。そんな私の日常で、そう毎日嫌なことも起こらない。
一旦、部屋に戻ったけれど、落ち着きを取り戻すことはできなくて、玄関でサンダルに足を突っ込んだ。「いってきます」と絶対に母を起こさないような小声で言って、そっとドアを開けた。
見上げると、西の空に沈みかけた夕日が灰色の空を淡いオレンジ色に染め上げていた。
マンションの向かいには、グラウンドを備えた大きな公園が広がっている。楠や桜の木、公園に生える木々の緑が目に映ったところで、もう一度深呼吸して、精神の安定を取り戻そうと試みた。
お腹の底の糸くずを吐き出すことを意識して、二、三度、深く吸った息を長々と吐き吐き出した。すると、ようやく少しだけお腹の中が軽くなる。でも、それは一時のこと。淡々と降る粉雪がアスファルトを覆い隠すように、油断すれば、またすぐにお腹の底は糸くずで埋め尽くされる。
聞き取れない話し声が耳の周りを彷徨って、犬の鳴き声が二回立て続けに聞こえた。公園の緑の中から飛び出してきたゴールデンレトリバーは、自転車に乗ったおじさんと共に勢いよく坂道を下っていく。
公園が一日で一番の賑わいを見せる時刻だった。グラウンドの周りがランニングコースになっているから、この時間ウォーキングやランニング、犬の散歩なんかを楽しむ人の姿は少なくない。私だって、グラウンドの周りを歩いたこともある。何も考えずに、ぶらぶらと二、三周すれば、お腹の底の糸くずは綺麗に消失して、精神の安定を取り戻すことに成功した。けれど、それも一時のこと。何度か繰り返すうちに、その効果は漸減していって、代わりに強烈な虚しさを覚えるようになってしまった。
公園には入らず、公園の外周をなぞるようにして歩を進め、坂を下った。幹線道路を渡り、駅に向かって伸びる商店街のアーケードへと入る。商店街の入口近くにはシャッターを下ろした個人商店が並ぶけれど、駅が近づくにつれてスーパーやドラッグストア、チェーン店のコーヒーショップなんかが軒を連ねるようになる。もちろん、人通りも増えていって、アーケードの中は次第に騒々しくなっていく。
中年女性の乗った自転車がガタガタと音を立てながら通り過ぎ、まだ覚束ない足取りの男の子が親の制止を無視して、駆けていく。煙草屋の小さなシャッターが閉まる音が響いて、ドラッグストアの店員の叫び声が木霊する。
アーケードが終わる直前で右へと曲がり、路地へ入った。この路地は駅へと続くちょっとした近道で、両側には個人経営の居酒屋やラーメン屋などが並んでいる。
駅に向かうとき、私は必ずこの路地を通ることにしていた。一つひとつの店から聞き取れない話し声や笑声が零れていて、そんな喧噪はどうじてか落ち着きを与えてくれる。
路地を抜け、駅に着いたところでスロープ横の植え込みに腰掛けた。ここは私の定位置で、駅前の通りと先ほど通った路地が見渡せた。昇降客がそれほど多い駅ではないけれど、構内にはハンバーガーショップがあって、駅の改札と隣接する形でスーパーが営業している。近くにはパチンコ屋やコンビニ、携帯ショップにレンタルビデオ店などもあって、一日中それなに賑わっている。待ち合わせらしき学生やスマホを耳に当てて大声で話すサラリーマン、駅の構内に目をやれば、しゃがみ込んでスマホを弄る若い女性の姿なんかもあって、私が一人でいても誰も不思議には思わない。
ほどよい喧噪が辺りを覆っている。私の存在は景色の一部に過ぎなくて、何が起ころうと、どんな話題の会話が耳に入ってこようとも、何の関係もない。そんな状況がどうしてか深い落ち着きを与えてくれる。
身体からほどよく力が抜ける。心臓が正常な鼓動を刻み出し、掌には温かさが戻ってくる。ただ、お腹の中には依然として糸くずがこびり付いていた。精神の安定を取り戻すための最後の関門。こびり付いた糸くずを吐き出すためにこれまでよりも大きく息を吸った。
ゾゾゾゾっと音を経てるようにして、辺りの喧噪が私の奥深くへと吸い込まれていく。
駅へ駆け込む人の足音。ホームへ滑り込み、発車していく電車の轟音。誰かが上げた奇声。嬉々とした話し声。街の音や誰かの声、人の気配、そんなものがお腹の底にこびりついた糸くずを洗い流してくれる。少なくとも私はそう信じている。間をあけて何度も大きく吸った息を勢いよく吐いた。一つの糸くずが、あるときには束になった糸くずが口から放出される。もちろん、糸くずが口から飛び出てくることはないけれど、そんな感覚が確かにある。
看板に燈る灯りは先ほどよりもその色をくっきりと空に残していた。路地にある飲食店からおじさんの集団が出てきて、こちらに向かってくる。スーパーのビニール袋を両手に提げたおばさんが重そうな足取りで駅を離れていく。
気付いたとき、私はそんな光景をただぼーと眺めている。お腹に溜まるものは何もない。そこにあるのは空腹で、得体の知れない憂鬱な思いは、英語の宿題がまだできていないことと目前に迫った期末テストへの焦燥に置き換わっている。
どれほどの時間が経ったのか、正確には掴めなかった。また何本目かの電車がホームに着き、発車していく音がした。構内から出てきた乗客は、それぞれの方向へと歩みを進めていった。路地からは一人の男が緩慢な足取りでこちらへと歩を進めていた。酔っ払っているのか酷く左右に揺れていた。小脇に新聞紙を挟み、片手にはビール缶らしきものを握りしめている。
もう充分かな、そろそろ帰ろう。
お腹が鳴ったのをきっかけに私が植え込みの端からお尻を上げたとき、視界に映っていた酔っぱらいが片手をふわりと上げた。
「ちょっと待ってーな」
聞き慣れない関西弁が鼓膜を揺らした。
男に見覚えはなかったし、その声は私が知る誰のものでもなかった。もちろん、呼び止められるようなことをした覚えもなかった。
男は茶色のスーツに身を包んでいた。髪は後ろに撫でつけられていて、耳の上には赤いペンが乗っている。
近づいてくる男に対して、私の脳が危険信号を発したとき、男はもうすでに目の前にいて、私は一旦上げたお尻を元の位置に戻すことしかできなかった。
「ねーちゃん、先週もここに座ってたやろ?」
馴れ馴れしい口調で話す男の革靴の先と私のサンダルの先がくっつきそうな距離にあって、僅かに足を引いた。
「ワシは見とるんや。ぼーっとここで座っとるねーちゃんの姿をな」
二重瞼の大きな目は、爬虫類的な気持ち悪さがあって、髪はゴキブリのようにテカっていた。口から覗く歯は酷く黄ばんでいて、吐き出された息にはたっぷりとアルコールと煙草の臭いが含まれていた。
思わず顔を反らす。
「訊いてんねや。答えてもらわな困るがな」
男は強い口調で続け、額に滲んだ汗を掌で拭った。
近くで見ると茶色のスーツは毛羽立っていて、見るからに暑苦しい。
「ねーちゃんな、ワシのこと怪しい奴とでも思ってるんちゃうか?」
捲し立てる男に、仕方なく顎の先を沈めた。
呆れたような表情を浮かべた男はおもむろに上着の内側に手を突っ込んだ。ナイフや催眠スプレー、スタンガン。そんな物騒なものが頭を過った次の瞬間、男がこちらに向けて手を出した。
「探偵や」
男は自慢げに一回鼻を吸った。指の間には名刺が挟まれていた。
名刺には、〈なんでも屋トラちゃん 代表 井浦 虎二〉と書かれてあった。私は男の顔を見上げ、そしてもう一度名刺に視線を落とした。
「ワシの親父が大の阪神ファンでな。昭和三十九年、阪神優勝の年に生まれたこともあって、そんな名前付けよってん。まあ、見ての通り次男ですわ。他に何か訊きたいことでもありまっか?」
男の名前なんて、どうでもよかった。馬二だろうと牛二だろうと、初対面の中年の名前に疑問など抱かない。ただ私が気になったのは、〈なんでも屋〉という名刺の表記と男が口にした「探偵」という言葉の相違だ。
「……お仕事は?」
声を振り絞り訊くと、男は「探偵や」と先ほどと全く同じ科白を口にした。そこで私は名刺を裏返しにして、〈なんでも屋〉と書かれた部分を指差した。
合点がいったように男は「あー」と唸る。
「それはな、探偵いうたらあまりにもハードルが高すぎるから、あえてそういう書き方にしとるだけのことなんや。なんか困りごとがあったとき、すぐに弁護士に相談しにいくアホが何処の世界におる? まずは近所のおっちゃんや町内会やろ。違うか? せやから、ワシも探偵いうて、偉そうにするんやのうて、依頼主の身近な存在になりたい、ちゅー気持ちを込めて、そういう書き方しとるんや」
素直に納得できるような言い分ではなかった。それでも、「あー、なるほど」と応えてやると、男は僅かに頬を吊り上げた。
「ねーちゃんの質問はそれだけか?」
そう訊かれ、頷いた。すると、男は「今度はワシの番や」とまた上着の内側に手を入れて、今度は折りたたまれた紙を取り出した。そして、印籠を披露する助さんみたいに広げた紙をうやうやしく私の目の前に突き出した。
「先々週の土曜、昼の一時頃、この辺りで行方不明になっとる。ワシに捜査依頼が申し込まれたんが先週の金曜で、これまでに三十人ほどに訊き込み調査を行った。せやけど、目撃者は誰一人としておらへん――」
A4の紙には猫の写真が印刷されていた。何処にでもいるような茶トラの猫だった。
「……探偵なのに猫?」
私が呟くと、「最後まで聞かんかえ!」と男は何の前触れもなく怒鳴った。
通行人の何人かが脚を止め、こちらを振り向いた。けれど、すぐに顔を元の位置に戻し、進むべき方向へと歩み始める。
「この猫は、みゃー子や。依頼主は五十代の女性。この近くの住人で、会社を経営しとる。依頼主について公表できることはこれぐらいや。気になるとは思うけど、これ以上は言われへん。分かったな?」
私が小さく「はい」と返事をすると、男は満足げに「よし」と言って再び話し始める。
「依頼主は先々週の土曜、十時頃、猫を動物病院に連れていくためにこの駅から電車に乗った。写真には映っとらんけど、猫は尻尾を怪我しとる。包帯を巻いとったらしわ。ちなみに、動物病院に行くんはこの日が初めてやない。先月末に怪我してから、最近では一週間に一回のペースで動物病院に通っとる。これまでは金曜の夜、仕事が終わったあとに運転手付きの車で行とったそうやけど、先々週は忙しゅうて行かれへんかったらしいわ。ほんで、次の日の土曜は運転手がたまたま休みを取っとった。動物病院の定休日は日曜や。依頼主は月曜の夜まで猫を病院に連れて行かれへんことに不安に思うて、仕方なく電車を使うことにした。動物病院からの帰り、一時頃、この駅に着いて、ちょうどこのスロープ横の階段を下りて、今ねーちゃんが座ってる植え込みの端に猫の入った籠を置いたらしいわ。『電車は混んでて座れんかった。腕が痺れたから籠を置いた』って依頼主は言うとる。一分や二分、籠を置いてたんはそんなぐらいの間やそうや。せけど、次に依頼主が籠を持ち上げたとき、猫はおらんかった。ほんで、ねーちゃんは何の因果があってか知らんけど、先週も今も籠が置かれたこの場所に座っとる。だから、ワシは今ここでねーちゃんに向かって喋っとる、ちゅーわけや。でっ、なんか知らへんか?」
私が即座に首を横に振ると、男は口を尖らせ息を吐いた。そして、急に思い出したかのように、パンツのポケットに手を突っ込み、煙草を取り出した。
「この一件、どう思う?」
二、三口煙草を吸ったあと、やけに険しい顔で男が訊いた。
「……逃げ出したんでしょう。きっと籠の鍵が掛かっていなかったんだと思います」
「ワシもそう思う」
男はすぐそばにあった自動販売機で缶コーヒーを買うと、それを私に差し出した。
「捜査協力の謝礼や思うて受け取ってくれ」
完全に陽が沈んだ空を睨み付けるように見上げ、井浦虎二はため息をつくように煙を吐き出した。